39,忘れるほどに
扉を蹴破って中へ飛び込んだオルガは火の回りを確認し、耳に意識を集中させながら駆け出した。
火の中を走っても少々は平気だ。なにより、他の者には任せられない。
それをオルガは知っている。だからユフィが国王に謁見したあのときの火事もすぐさま自ら動いた。
走るオルガに迷いも怯みもない。オルガの行先の炎はすべて、まるで風に煽られたかのようにオルガを避ける。とはいえ熱は感じるし喉が焼ける。火に触れないだけでそれ以外は他者と変わらない。
急いでいたオルガの耳が動く。何度か聞こえる、ここだと示すような「……チュ…」と微かに拾う音を頼りに向かった二階の部屋。――その扉を蹴り開けた。
「!」
床に倒れ込むユフィと、剣を振り上げる男。
男が驚いた顔をして、すぐさま剣を下ろそうとする。湧き起こった怒りの感情を胸に獣種の俊足と強靭な足ですぐさま相手の眼前へ距離を詰め、その首を瞬時の力で締め上げ床に叩きつけた。衝撃で男の手から剣が落ち、カランッと床を転がる。
「ぁっ……!」
うめき声すら上がらず相手は気を失った。淡々とそれを見下ろし、オルガはすぐにユフィへ振り向く。
「チュ、チュウ……」
「よく守った。奴を」
ユフィの傍で心配そうに鳴きながら、小さなその手に斬れたリボンを持っている一匹の鼠。そんな鼠からリボンを受け取ってオルガはゆっくりとユフィを抱き起こす。オルガに任せておけば安心と知っている鼠はてけてけと男のもとへ駆けていった。
優しくユフィを抱き起こし――目を瞠った。
炎が迫ることも。周りが燃えている音も。すぐに逃げなければいけないことも。その刹那だけ、忘れてしまったほどに。
「ぅ…っ……」
だから、ユフィが呻いて、すぐにはっとなって隊服の上着を脱いで頭から被せた。気がついたのだろうユフィが上着の下で動く。それを見てそっと呼びかけた。
「ユフィ。もう、大丈夫」
「! ……オ、オルガ…さま……。けほっ。あっ…」
オルガが被せた上着に触れて顔を上げて、見上げかけて、けれどすぐに頭を下げた。すぽりと上着を被り込んで顔を隠そうとする姿を目を細めて見つめるしかない。
「あ、あの……申し訳、ありませ――」
「なにを謝る。……いや。そうだな。一人で出ていったことを俺は叱らなければいけないか。あれほど一人で行動してはいけないと言っていたのに」
「えっ。あ、申し訳ありません……」
なんのことかと顔に出て、けれどすぐに思い至る。声からそんなふうに読み取ってオルガは微かに笑った。そして――ゆっくりとユフィを抱きしめた。
突然のことにユフィは身体が強張って狼狽える。
「オ、オルガ…さま……」
「よかった。君が無事で、ほんとうに…よかった……」
額がこつんとオルガの胸に当たる。前はなにも見えなくても、それでもぬくもりは確かに全身に伝わってくる。
確かな力が包んでくれる。今、確かに、ここに。
だからどうしようもなく右目が揺れて、視界が滲んでしまう。
(あ……オルガ様、だ……。ちゃんと、戻ってこられた……)
会いたいと願った。その姿にどれほど助けられたか。
そして、またこうして助けてくれた。来てくれた。――見捨てずに。安堵するほど心配して。
――そんなの、そんなこと。自分は知らない。
離れ難くて。包んでほしくて。他では感じないほどに安心してしまう。
――こんなもの自分は知らない。オルガがくれた、初めての感情。
初めてこのぬくもりをくれた人。大切な、傍にいたいと願う人。たくさんの優しさをくれた。謗らず、目を合わせて、言葉を聞いてくれた。
知らなかったから、もう、失えない。失ってしまったらきっと、知らなかったときとは違う絶望に落とされる。
(失いたくない。……わたし、この方のお傍にいたい)
夫婦だけれどまだそんな実感はなくて。――だけれど、オルガは夫だから。まだ妻だと思えなくても二人で分け合うものだと教えてもらったから。
いつかもしも夫婦という形が失われても、それでも、使用人としてでもいいから――……。
「ユフィ。ここから出よう。皆が心配している」
「……はい」
「マージェ」
「はい。こちらも問題なく」
ユフィの肩に手を添えてオルガが立ち上がる。そんなオルガの視線が向く先を見て、そこに鼠の獣人がいることに気づいた。
オルガの部下で自分を護衛してくれている一人だ。すぐに思い出して、けれど顔を見せるわけにはいかないから思わずオルガの上着で隠した。
オルガはまだ近づけそうな窓を見つけると、男が落とした剣を窓へ向かって投げ飛ばす。パリンッと音をたててガラスが割れ、投げられた剣が窓の向こうで落ちていく。
なにをするのかと怪訝に見ていたユフィは窓の向こうに見えた人物に上着の下で目を瞠った。
「お迎えにあがりましたー」
闇夜に染まる黒い翼。紳士的に空中で礼をして、でもそれはひどく今の状況に合ってない。
けろっとしたリークヴェルの登場にオルガも呆れの息を吐く。
「ユフィを。俺とマージェ、ユフィを襲った男が一人」
「わー。わか……じゃねえや、隊長えらーい。理性的ー」
「運びやすいほうに今すぐ変えてやってもいいが?」
「それ殿下が困るやつじゃないですか。ってか、俺近づけそうです?」
「問題ない」
ユフィたちがいる部屋は炎に包まれている。窓辺もそれは同じで、ユフィは戸惑いを浮かべた。
男を拘束したマージェがユフィの傍に来るのを見て、オルガはリークヴェルがいる窓の向こうへ平然と足を進めた。慌てたユフィが「オルガ様っ…」と声をかけても「大丈夫」と言うだけで。
はらはらとするユフィの前でオルガは足を止める。その金色の光が不敵に光り、瞬間ユフィはぶわりと鳥肌が立つのを感じた。
(いま、なにか……)
どこかで似たようなものを感じた気がする。どこだっただろう……。
「ユフィ。こっちへ」
思考を遮るように呼ぶ声。はっとなって見えたのは、オルガが手が伸ばしている姿と、その周りと窓までの炎が煽られている光景。
綺麗に窓までの道が出来上がっている。ユフィは上着の下からうかがい見て目を瞠った。
「ユフィ様。さあ、早く脱出を」
「は、はいっ。ですがマージェ様こそお先に――…」
「ユフィ様が先ですよ。リークヴェル殿の後ろに同じように鴉種がいますのですぐに私も参ります。もちろん隊長も」
あたたかな笑みに促されてユフィはオルガのもとへ急ぎ、そしてそのまま窓枠に降り立ったリークヴェルが伸ばした手を取った。
上着が外れないよう被り込んでいる姿になにも言わず、リークヴェルはユフィをぐいっと引き寄せて抱き上げる。
「ではユフィ様。ちょこっと空の旅をお楽しみくださいな」
「空の旅……! は、はいっ!」
リークヴェルの足が迷いなく窓辺から離れる。すればすぐに次の鴉種の獣人が窓辺に降り立ちマージェを、拘束した男を、そしてオルガを脱出させていく。
自分が飛び立った後のことは見えず、ユフィは不思議な浮遊感に小さな恐怖と小さな高揚を覚えながら脱出した。
オルガが燃え盛る建物に突入してほどなく、残された獣人騎士たちの耳が騒々しい音を拾った。すぐ騎士がアルヴェスターに耳打ちするとアルヴェスターが顔を歪める。
「なっ、なんということだ!」
「まあ……!」
「オリビア何をしている!」
ぞろぞろとやってくるノーティル国の貴族たち。避難を促されたはずだが、アルヴェスターが最初に動いたのでそれを咎めることはできず、同じようにやってきたオリバンズ国の貴族たちは集まった騎士とアルヴェスターを見て誰しも表情を険しくさせるとすぐに駆け寄った。
「殿下」
「事情はあとだ。あちらが煩い」
家格が高く騎士団第二師団長でもあるガディオス・レオルラーゼがかけた声にアルヴェスターは手を振る。それを見て他の者たちも口を噤んだ。
すぐに視線を戻せば、ノーティル国第一王子であるクローリルが魔法を使っているオリビアにずかずかと歩み寄り、その手がオリビアの肩を掴もうとして――ばしっと伸びてきた手が止めた。
「なんのつもりだ」
「おまえこそなんだ!? こんな火事如きでわざわざオリビアが魔法を使う必要があるとでも!?」
「おまえらが来るかも、来ても役に立つかも分からず呑気に待っていろと? 死人が出る」
兄弟の睨み合いが勃発。あからさまな敵意を滲ませる兄クローリルに対して、弟オスリルは淡々としている。
その傍で繰り広げられる水蛇と火蛇の争いを貴族たちはただ見つめている。それを見たオスリルはわざとらしく「ほらみろ」と聞こえるように笑う。それを見たクロ―リルはさらに顔を歪めた。
「こんな状況で中に誰かがいて、まだ生きていると思っているのか?」
「この火の中に獣人の騎士が飛び込んだ。ユフィ・ヒーシュタイン嬢を助けるためにな」
「は……。はっ! 無謀にもほどがある。さすが魔法を使えない者らしい単純で凡庸な思考力だな」
「ならおまえが消せ」
「ふんっ。なぜ俺が――」
「ああ、そうか。――おまえ、彼女が死んだほうが都合がいいんだったな」
「なっ!」
弟の不敵な笑みにクロ―リルが怒りに顔を染める。怒りに染まった彼はオリバンズ国からの敵意すら感じとることもなく、ばっとオスリルの手を振り払った。
王子同士の睨み合い。聞こえる内容から貴族たちもちらちらと視線を向けるだけで、誰も積極的に動こうとはしない。
「まあ……火事にあったなんて災難だったってことよねえ」
「そうねえ。それに、どうしてこんな建物にいたのかしら。もしかして…自分から、とか…」
「ああ、きっとそうよ。だってほら、彼女、あれじゃあねえ……」
聞こえている。どこまでもユフィを嗤う声にガディオスの傍でケミティがきっとノーティル国を睨み、令嬢たちを始めオリバンズ国の誰もが殺気さえ滲ませる。
さすがにノーティル国側も気づいたのか、貴族たちも睨むように視線を向ける。両国の睨み合いにアルヴェスターは冷淡に視線を向け、そして目を細めた。




