32,否定と恐怖
「ぇ、ぁ、は、はい……」
否は言えない。言えば何をされるか分からないから。
――だから、ケミティたちには待ってもらって、自分だけでノーティル国陣営に歩み寄る。
(怖い……)
独りぼっちは慣れているはずなのに。今は無性に怖いと感じる。
心臓が煩くて。呼吸が不自然になってしまいそうで。視界が狭まりそうで。今にも崩れ落ちてしまいそうで。
震える足で向かった先に待ち受けるのは、敵意に似た視線と嘲笑の笑み。
顔など上げられるはずがない。上げれば何を言われるか分かっているから。ずっとずっと、そうだったから。
醜くて。魔力もなくて。役に立たない。
自分がいるべき場所など、どこにもなかった。
真っ黒な思考に支配されそうになって、ゆらりと何かが揺れた。
(あ……)
『少しでも支えになれば』
そう言ってくれた声音はどこまでも優しかった。
あの夜会の折から何度か回数を分けて、同じように包帯飾りをくれた。その都度肌触りや長さはどうかと聞かれて、自分に合わせてくれた。
『どうか受け取ってほしい。いつでも君を守り、支えになるという俺の意志表示だ。決して、君を俯かせるためのものではない』
初めてもらったときは、自分の見せられない顔が少しでもまともに見えるようにするものなのだろうと思っていた。けれど、こうした飾りをくれるたびオルガはその考えを否定してくれた。何度も何度も。怒ることなく言ってくれた。
まだ、それをどう受け取っていいのか分からない。けれど、嬉しいと感じる心と戸惑いを覚える心があって、なにかお返しをしたいと強く思うのだ。
身体が震えてどうしようもなくて。
でも――震える手で、きゅっと肩を垂れる紐を握りしめた。
「あんた、随分とそっちでうまくやってるみたいじゃない」
口調をすっかり別のものに変えたマリアンネにユフィはぴくりと肩が跳ねた。それを見て機嫌が悪くなったというようにあからさまなため息が吐かれる。
「獣臭い連中に守られて、お友達もできましたって? あんまり近づかないでよ、獣臭さが移るわ」
「も、申し訳あっ……」
癖のまま謝りかけて、それでも、最後まで言えなかった。
(ここで謝れば、オルガ様や皆さまを誹謗することと同じ……)
口が震えた。そんなことをできるわけがない。
ゆっくりと、俯いたまま唇を引き結ぶユフィに気づく様子もなく、マリアンネはさらに続けた。
「それになに? あれ。あんた野蛮な獣どのに囲まれて、挙句に王太子と婚約でもするっていうの? 笑える待遇じゃない。醜くって卑しいあんたが」
「っ……」
アルヴェスターとのことは事前に打ち合わせがされている。オルガもユフィもそれを承知の上で設定をつくった。
王宮で打ち合わせをして、オルガからも屋敷で何度と確認し合った。だからそれでいい。
『ノーティル国からすれば、俺と親しいっていうのは、王宮で保護してるって思ってる思考からいいように解釈できる。国が魔法を欲しがってるって思ってることも後押ししてくれる。ま、野蛮な獣人の国の王族と婚約とか、あっちは笑えるだろうけど』
アルヴェスター自身がそう言っていた。それはそのとおりなのかもしれないと思ったが、アルヴェスターまで悪く言われるのではないかと思うと笑えないものだった。
本当にそれでいいのか。オルガにも相談した。
『殿下なりの考えがあるんだ。……夫である身としてはかなり複雑だが、今回だけは殿下にお任せするつもりだ』
国としての、王族としての考え。貴族として過ごしていないユフィにはそういった考えは分からない。
けれど、それが必要なことなのだということは分かる。
「魔法のことはまだ知らないらしいじゃない。あんたが魔法も使えない役立たずだって知ったら、どうなるのかしらねえ?」
きゅっとドレスを掴む。そんなユフィにマリアンネは喉を震わせた。
片親は貴族のくせに魔力を持たない役立たず。常に俯いていて辛気臭いったらない。顔の半分を覆う包帯は憐れみを誘う道具のようで。
その包帯の下にある傷の経緯は知っている。――だから言える。醜い傷があるのだと。
魔力を持たない、魔法を使えない。卑しい立場の娘。
貴族にあるまじき恥さらし。こんな相手は姉でも貴族でもない。
魔力が全てだ。それを持つことが、国を支えゆくことを精霊王から任された貴族たる証。国をつくりゆくことを託された王族の証。
王太子との婚約。自国ならばそれはそれは夢のある貴族令嬢憧れの舞台だ。
だがオリバンズ国王族との婚約など、野蛮民の国へ嫁ぐなど、誰も望まない擦り付け合う恥辱でしかない。
それを強制させられるのが、停戦協定のために送られたユフィ。
(どうせ、魔法を使えると思われてるから大事にされてるんでしょうけど。王族もさっさと確かめないなんて馬鹿じゃないの)
内心でせせら笑う。やはり能のない獣の集まりだ。
そこに放り込まれた小娘がどうなるか、高みの見物が一番楽しい。
扇で口許を隠して笑っていたマリアンネは、やってきたその人を見てさらに笑みを深めた。
「あら、お母様」
俯いているユフィの肩が震える。それもまた愉快だ。
俯いた視界の中に影が落ちる。それを認めてユフィはドレスを握りしめた。
マリアンネの母は継母にあたる。けれど母らしいことなどなかったし、そう思ったこともない。――ただ、マリアンネと同じ、怖い人。
「相変わらず、しみったれた辛気臭い小娘だこと」
「申し訳ありません」
「やめてちょうだい。皆さまの目もあるのに、私がいじめているようじゃないの」
ふんっと高慢な仕草は、見えなくても容易く目に浮かぶ。
ここで頭を上げてはいけない。マリアンネや継母を前にそれはしてはいけない。――すれば、顔を歪めて「見せないで」と厳しく罰せられるから。
常に俯け。顔を上げるな。目に映すのは自分の足だけでいい。
いつだってそうしてきたユフィには、マリアンネや継母の他にノーティル国側の貴族婦人がいることも、その目が笑っていることも、なにも見えない。
公衆の場での身内への言葉に相応しくないとしても、誰もが知っている。――ユフィ・ヒーシュタインは魔力を持たない、と。
それでいて傷物の娘。侯爵夫人の子ではなくただの平民の娘だから、向ける目は厳しく、誰も庇わない。むしろ同じように笑う者が多い。だからこそユフィは、一年に一度だけ出ることを許された社交会でも、いつだって壁の華だった。
「今はうまく繕っているようね。せいぜい頑張って自分でなんとかしなさい。この停戦協定だっていつどうなってもおかしくないのだから」
「!」
俯く中で目を瞠る。顔を上げられなくて、けれど、震える口をなんとか動かした。
聞かずに、いられない。
「それは、どういう……」
「あなたは知らないでしょうけど、ほとんどの貴族が反対だったものを陛下と第二王子が強行した。もしもこの協定が壊れるようなことがあれば、そちらへ行ったあなたがどうなるかなんて分かるでしょう? あなたが行って、皆さま喜んでいるのよ?」
長きに渡る両国の戦を終わらせるため、そのための停戦協定。
その危うさを当然のようにあっさりと、すぐに崩れるのだと知っているかのように告げられる。
難しくても国がちゃんと考えて、そうしようと努めていくのだと、そう思っていた。
(わたしは……停戦のために……。魔法を望んでいると思ったから、その責任を……。それが違ったから、それならせめて、停戦のためにって……)
それが自分の役目だと、存在価値なのだと。
侯爵家に居場所もなく。娘としても否定され。――また、否定される。
「当然でしょう? あんな野蛮な獣と今後対等になんて冗談じゃない。汚らわしい」
目を瞠って。瞳を揺らして。ぎゅっとドレスを握って。――言葉が震えた。
「っ、違いますっ……! 皆さまとても優しくてわたしなんかにも親切でっ……! 自然と共存しながら仲間を想う笑顔の絶えない素晴らしい人たちでっ……!」
身体が震えて仕方ない。今までこんなことを言ったことはない。
でも、泣きそうなくらい胸の内がぐちゃぐちゃで。包帯の下が熱を持っているのが分かった。
鮮やかに思い出せるのは、屋敷で親切にしてくれた獣人の使用人たち。道中で戸惑いつつも言葉を交わして、オルガを挟んで話をしたささやかな時間。今だって令嬢や婦人たちがいてくれた。
――それは全部、皆がくれたもの。
心臓が激しく脈打ち体が熱くなる。溢れる想いを吐き出したユフィに場が静まり返った。
「――なんですって?」
――この行動は誤りだった。
すぐに周囲の空気が冷える。その変化に他の貴族は笑みを潜め、マリアンネも不快気にユフィを睨みつけた。
ユフィもまたそれを敏感に察し、俯いたまま震えた。
「あなた、私の言葉を否定したの?」
「っ、ぁ、それは……」
「生意気な。誰のおかげで侯爵家にいられたと思っているの? 卑しい小娘のくせに」
一歩近づいてくるその足音が恐怖をかきたてる。
頭を叩かれる。顔をぶたれる。それならまだいい。まだ耐えられる。
侯爵夫人が手を振り上げた。
逃げたい。けれど逃げればもっとひどくなる。それに、震える足ではどうせ逃げられない。
上げられた手が、振り下ろされる。きゅっと目を閉じるのはいつもの癖だ。
(怖い――……え。怖い……?)
気づいてしまったその瞬間、バシッという音が耳に届き、頭からすっぽり影に覆われた。
マリアンネや侯爵夫人が足を引き、突然周囲の貴族の騒めきだす。
耳に届く声といつまでもこない衝撃にユフィはそっと目を開けた。
(ぁ……)
ふわりと優しく下がるように促される。大人しくそれに従えば、自分の頬に当たる寸前だったのだろう侯爵夫人の手が、それよりも遥かに大きな手に掴まれているのが分かった。
俯く視界に映る黒い尻尾。だから思わず、そっと顔を上げながら視線を最大限上げる。
艶やかな黒い毛。ここ数日で見慣れた隊服。まっすぐ伸びた堂々たる背。強くて、頼もしい背中。
いつも優しく包んでくれるその人が、そこにいた。




