12,まず一歩
胸の内にぬくもりを感じているとオルガはカップをメイドに返し、ユフィを見た。
「料理長たちはそろそろ夕食準備だな。ユフィ。その間少し時間をもらっていいか?」
「はい。なんなりと」
何も命じるつもりはないのだが。
そう思っても、ただ優しくユフィの手を引き、オルガは料理長たちにあとを任せて厨房を出る。ユフィも深々と頭を下げて厨房を後にし、ユフィ付きメイドが後ろに続く。
手を引かれている。無理やり強く握って引っ張るようなものではなく、優しく包み込む手。
思わず手と手の繋がりを見つめてしまう。胸の内が忙しくて言葉にならない。きゅっと胸に手を当て引かれるまま進むユフィは、オルガとともに談話室へ入った。
そこにはすでに執事のダリオスがおり、テーブルには数冊の本が置かれている。
掃除のときにはなかったものだ。ダリオスが持ってきたのだろうかと思いつつユフィはオルガの背を見つめる。
と、オルガは足を止めてソファに座った。
「おいで」
そう言って、ユフィに隣を勧める。
何気なく、自然にオルガは自分の隣を示す。座ってということだとは理解できたが、実行するかどうかは別の話。
ユフィは、座らない。そこは自分が座っていい席ではない。
立ったままきゅっとスカートを握りしめるユフィを見つめ、オルガは僅か思案した。
(命じるのは簡単だ。それならユフィも従うだろう。だが、俺はユフィとの間にそういう関係がほしいわけじゃない。それはおそらくユフィに変わらないものを与えるということ)
それは、ノーティル国が与えたものと同じことをするということ。
もうここはノーティル国ではない。もうここに、ユフィを苦しめるものも、縛るものも、奪うものもない。
ここはオリバンズ国。竜神のもとで皆が暮らす一員の中にユフィも入った。ならば、この国でしか与えられないものを与え続ける。
震える手に力をこめ、意を決した様子でユフィは口を開いた。何かを伝えようとする意思をすぐに察したオルガの耳が聞き逃すまいと小さな声に集中する。
「わ、わたしは……若旦那様にそのようなご温情をいただける身ではありません。なにも持っていません。魔法だってきっとなにかの間違いですっ…。わたしの意思で身の振り方を決めることはできませんがせめて、せめて、なんでもしますからお申し付けくださいっ」
深く深く下げられる頭を見つめる。目を細め見つめるオルガのように、控えるメイドたちも瞼を震わせて見つめていた。
今朝からずっとユフィは頭を下げ続けている。貴族令嬢なのに、侯爵令嬢なのに、その振る舞いはまるで使用人。
だからこそ読み取れる過去があるのだが、それを無理に問えば一層にこの態度は強まるだろうと容易く読めるからこそオルガはなにも問わない。
自分は相応しくない。昨晩もその言葉を聞いた。否定したのに、その心に届くにはまだまだ言葉を重ねる必要がありそうだ。
根深い闇にどうすれば光を射しこめるのか。考えてもそう簡単に答えは出てこない。
頭を下げたユフィを見つめ、オルガはそっと立ち上がる。その動きを音で感じたユフィは小さく肩を跳ねさせた。
そんな様子を見て瞼を震わせ、オルガはユフィの前に立つとそっと頭に手を置いた。
「ユフィ。君が自身をどう思っていても、俺にとって君は妻だ。そこは決して変わらない。君がこれまでどう過ごしてきたのか知らないが、オリバンズ国では妻は大切に愛する存在だ。何かを命じたりするような相手ではないよ」
ふさふさと柔らかな尻尾がユフィの俯く頬を撫で頭を上げさせる。
俯きがちに、ふさふさ擦り寄ってくる尻尾を手で押さえながら、ユフィはそっとオルガをうかがった。そこに怒りの様子は見えない。あるのは精悍な容貌と少し上がった口角。
やっと、そっとながらもユフィと目が合い、オルガは微笑んだ。
「俺はユフィと少しでもともに過ごしたいから隣に座ってほしいと思うし、なんでもいいから一緒に過ごして話をしたいとも思う。それは迷惑か?」
「いえっ、そのようなことは……」
「よかった。では、ほら、こっちに」
そう言って優しく手を引き、再びソファに座る。今度はユフィも躊躇いながらも浅く腰掛けた。
そんなユフィを見てオルガの尻尾がすぐにユフィの腰に絡みつく。腰回りのふわふわにどうしたものかと刹那慌てながらも、その様子を見たオルガの小さな笑みを聞いて羞恥で俯いた。
「さてユフィ。君に見せたいものがある」
「はい」
そう言ったオルガがユフィに見せたのは、テーブルに置いていた数冊の本。厚い本もあれば薄い本もありさまざまだ。
その中で薄い本を手に取ったオルガは、その本のページを適当に開いてユフィの前に置いた。それを見てユフィも目を瞠り、オルガはさらにもう一冊の本を開いてその本の隣に置いた。二冊は文字が異なっている。
「これは、ノーティル国の……?」
「ああ。約三百年前、ユフィと同じようにノーティル国からオリバンズ国へ来た人がいた。その人が書いたものを保管してあったんだ。それはこの本の内容をノーティル国の文字で書いてある」
歴史の中、何度か繰り返された国同士の交渉の中でユフィと同じように国を渡った人がいる。その事実に驚きつつ、目の前の本をそっと手に取った。
紙や筆跡は古いが、大切に保管されているのだろうと把握できる。
「これらの本を使いながら少しずつ文字を学ぼうと思うんだが、どうだろう?」
「は、はい。……ですが、こんなにも重要そうな本をお借りしてよろしいのでしょうか?」
「問題ない。陛下にも許可はもらっている」
国王の許可がいるほどの本とは……。それだけで価値がとんでもない。
さらっとオルガが出した言葉に気を失いそうな衝撃を受けつつ、ユフィは国家レベルで重要な本を決して汚さない傷めない傷つけないと誓った。
「国家問題でやってきた人物がノーティル国の文字で訳して記しているから重要視されているが、内容自体はどこにでもある本のものだ。それほど価値があるものじゃない」
と言われてもあまり効果はない。けれど、見慣れた文字は少し懐かしくて安心する。
オリバンズ国に来てから与えられるものは、ノーティル国にいた頃とは全く違う。変わらないものは少し安心する。
(オルガ様はノーティル国の文字は解るの……?)
そっと隣を見るが、オルガの視線は翻訳書と同じ内容だというオリバンズ国の本に向けられ、ページを探している様子。
聞いてみようか…。けれどこんなことを聞いてもいいのだろうか。
迷うユフィの隣でオルガは目当てのページを見つけたようで、それを開いてユフィの前に置いた。
「その本のページはここだな。早速勉強を始めてもいいか?」
「はっ、はい」
夕食が始まるまですぐだけれど、前のめりで本を覗くユフィを微笑ましくメイドたちは見つめていた。
♦*♦*
「若奥様。べつにこんなことしなくていいんですよ? これ、若奥様がするような仕事じゃないんですし」
「申し訳ありません……。ですがその、使わせていただくものは自分で用意すべきかと……」
「そうです? なんか若奥様苦労してそうですねえ」
翌朝。陽が昇るより少し早い時間。やはり身に沁みついた時間に目が覚めたユフィは、さて朝は何をしようかと考えた。
洗濯は仕事としてやらせてもらっている。このまま部屋でメイドが来るのを待ち身支度を整えてもらうのも一つ。しかし自分のためにそんなことをさせるのは申し訳ないし、じっとしているのはやはり慣れない。何か仕事をさせてもらうべきではないか。
そう考えたユフィはふと昨日の話を思い出して、簡単な服装に着替えてから外へ出た。
公爵邸の敷地は広い。屋敷は大きく広いがそれ以上の面積が庭である。
美しく整えられた花々が客を楽しませるような庭もあれば、離れた場所では間隔をあけて樹を植えている緑の場所もある。その中にあるはずの生活用水池を探したユフィは、水汲みをしていた騎士に出会った。
昨日も洗濯場で出会った騎士で、公爵家の騎士の制服を身につけ背中からは黒い翼が生えている。
そんな騎士はすぐにユフィに気づき、きょとんとした顔をしてから「リークヴェルです」と挨拶をしてくれた。そして「何かお手伝いをさせてください」と申し出たユフィに「んじゃあ」とあっさりと仕事くれた。
なので現在、ユフィは洗濯場へ向かって水の入った桶を運んでいるところである。ユフィは桶を一つ、リークヴェルは昨日のように両端に桶をつけた棒を肩に担いでいる。
桶の水を揺らしながら、ふるふると震える手で足取りもゆっくり慎重になるユフィを置いていくでもなく、リークヴェルは歩幅を合わせつつゆっくり歩いている。
「若奥様。若に仕事くれって言っていろいろやってんですって?」
「はい…」
「ははっ。ノーティル国ってそういうの流行ってるんですか?」
「いえ。わたしが勝手にしていることです」
面白おかしそうに笑うリークヴェルにユフィは視線を下げた。
公爵家に仕えるリークヴェルの反応から分かる。オリバンズ国の貴族令嬢というものからも自分は外れているのだろう。自分が知る令嬢だってこんなことはしない。
解っている。けれど、してもらうだけにはなれない。
その価値が自分にあると、思えないから。
(なにもないわたしがただここにいるなんて申し訳ない。せめてのご恩返しと、オルガ様と形式上の離縁ができたらちゃんと一人でも生きていけるようにならないと)
ふらふらと昨日も仕事をさせてもらった洗濯場に着くと、今日は丸い耳をもつ熊種のメイドがそこにいた。
「あっ、若奥様やっぱりここに! 水汲みなんてそんな力仕事までっ……」
「申し訳ありません。なにかお手伝いをと……」
「いいんですよ! 水汲み好きなリークに任せておけば!」
「いや好きではないよ? やるけど。羽濡れるのヤだし」
ぼそっと反論が出るがそんなものは聞こえない。ユフィから水桶を取ったメイドはすぐにそれを甕に移す。
担いできた桶を地面に置きながら、リークヴェルは思いついたように言った。
「ってか、若奥様の魔法なら水汲みの必要なくなりません?」
「ちょっとリーク。失礼よ」
「すみません。けどまあ、どうなのかなっと」
ちらりとリークヴェルの視線がユフィを見る。俯きがちの下でもそれに気づいて、身体が固まった。
(た、たしかに魔法ならそれもできる。できる、けど……)
魔法なんてほんの少し前に初めて使えたもの。
リークヴェルの言うように、水魔法なら水汲みの必要もなくなり、ヒーシュタイン侯爵邸で他の皆がやっていたように魔法で雑事をこなすこともできるだろう。
そういう魔法の使用は、ユフィにしかできない。
できれば、屋敷の皆の負担も少しは減らすことができる。
「ユフィ。ここにいたのか」
「お。若様」
「おはようございます。若旦那様」
悠々と姿を見せたオルガに気づき、ユフィもすぐに頭を下げる。そんな姿勢を見つめつつも、きゅっと握られた手を認めたオルガはユフィの傍に立った。
「ユフィは朝が早いな。また皆が探していた」
「申し訳ありません」
「謝らなくていい。……それで、どうかしたのか?」
俯いている身体がなにやら強張っているのをすぐに見て取り、オルガはその視線をメイドとリークヴェルに向けた。
「リークが、魔法なら水汲みしなくていいなって言ったんです」
「ノーティル国ではそういう使い方してるって話です」
甕に水を移しながら言うリークヴェルにメイドが眉を吊り上げている。しかしてリークヴェルはけろりとしたまま。
そんな両者を見て、なるほどとオルガは納得した。
リークヴェルの言うことは一理ある。ノーティル国では魔法は日常生活に使われているそうだ。
しかしオリバンズ国はそうではない。便利になることはよいことではあるが、人頼りで楽をしていいとはオルガは思えない。
それに、ユフィにそれを求めるのは酷だとも思う。
自分が魔法を使えたこともまだ信じがたいだろう。自分に戸惑っているからこそ、ユフィはこうして屋敷の雑事で自分を安定させようとしている。
「あ、あの、若旦那様」
「うん。どうした?」
「国王陛下は魔法についてお知りになりたいのですよね? わたしが魔法を使えれば、少しは、お役に立てますか……?」
きゅっと握りしめた手。自分にできることを必死に探す健気な姿。
そんなユフィを見つめ、オルガは優しく頭に手を置いた。
(役に立とうとそればかり。悪いことではないが、あまりにも背負いすぎだ)
頑張りすぎで。けれどそれを無にしたくなくて。無理をさせたくなくて。
リークヴェルもメイドもじっと黙って二人の成り行きを見守る。視線は感じつつも、オルガはユフィだけを見つめる。
「ユフィ。そう思ってくれること、俺はとても嬉しい。生活面に関して君を頼るつもりはないんだ。これが俺たちの暮らしであり、君にだけ頼るようなことはしない。陛下も長い目で待つおつもりだ。だから、焦らなくていい」
「……はい」
生活面をユフィに頼っても、ユフィが動けなくなればそれは保たれなくなる。一人にだけ頼るなんてことをオルガはさせない。
なによりも、その頼ることになるユフィがまだまだ未熟で無頓着だ。
優しく頭に触れるぬくもりをユフィが感じていると、少し離れて声が飛んできた。
「でも若。陛下に魔法についてお伝えするにしても、若奥様が魔法を使わないとどうにもならないんですよね?」
「急がないと言っただろう」
「んじゃ、練習からでも始めたらどうです? 教師はいないし完全若奥様の独学で、ですけど」
思わぬ方向からの助けにユフィはリークヴェルを見る。平然としたその顔は助けを出したつもりなどない、何気ない一言だったのだと分かる。けれどその言葉はユフィにとって光になった。
確かにそのとおりだ。それに、ちゃんと使えるようになれば屋敷の助けにも、オルガの役にも立てるかもしれない。国王陛下の目的を果たすのも言わずもがな。
しかし、それを聞いたオルガは眉根を寄せた。
「それについて考えてはいる。だが、ほんの二日前までユフィは魔法を使った影響と思われる眠りについていたんだ。すぐにそんなことはさせられない」
「あ、あの、わたしは大丈夫です」
「だが……」
「んじゃんじゃ、若奥様。ここでちょこっと魔法使って、それで倒れなきゃちょっとずつ始めるってどうですか?」
「リーク」
咎めるようなオルガの声音だが、リークヴェルの言葉にユフィははっとオルガを見た。
オルガは心配してくれている。それは充分に伝わる。もうすでに我儘を言って屋敷の手伝いをさせてもらっている。
それでも、自分の立場にはあまりにも不相応でもったいないものをたくさんもらっていて。だからせめて、自分にできることをちゃんとしたい。
オルガの心配を、ちゃんと大丈夫だと言って、信じてもらえるように。
(でも、わたしにできる? 魔法を使うなんて)




