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聖遺物《レリック》は語らない――勇者殺しの九つの断片  作者: 水縒あわし
【序章】不帰の玉座

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【序章】 第4話



 極彩色の旗が、抜けるような青空を背景にして無数にひるがえっている。



 ラインハルトの視界を埋め尽くしたのは、王都の中央広場。


かつて彼自身が、先代魔王を討ち果たした直後に凱旋がいせんの歩みを進めた、豪奢ごうしゃな石畳の連なり。



 だが、空間を支配する空気の質が、記憶とは決定的に異なっていた。



 彼の身体はそこに存在しない。


分厚い鋼の篭手の重みも、背中に負った大剣の冷たさも、一切の感覚が完全に切り離されている。


彼はただの透明な観測者として、広場の中央に固定されていた。



 生温かい風が、大量の汗と泥、そして安っぽい香水の匂いを混ぜ合わせて運んでくる。


広場を埋め尽くすほどの、おびただしい数の群衆。


そのすべてが、円を描くようにして一人の少女を取り囲んでいる。



 聖女、エレン。



 純白であったはずの法衣は泥に汚れ、彼女は荒い石畳の上に両膝を突かされていた。


彼女の細い肩が、小刻みに、そして不規則に上下を繰り返している。



(エレン)



 ラインハルトが手を伸ばそうとしても、幻影の指先は空を切るだけ。


彼の存在など感知することなく、耳を劈くような歓声が広場を揺るがし始めた。



『早く、あの魔王を殺してくれ』


『我々に、本物の平和を返してくれ』


『英雄なら、できるだろう?』


『早く!』『早く!』『『早く!!』』



 声、声、声。


群衆の顔は不自然にのっぺらぼうに歪み、口の動きだけがどす黒い染みのように蠢いている。



 無責任な期待という名の泥濘でいねいが、エレンの華奢な身体へと次々に投げつけられていく。


その声の波には、彼女の身を案じる響きなど一滴も含まれていない。



 ただ自分たちの日常を、盤石な平穏を取り戻すため。


都合の悪い「強すぎる力」を排除し、安心という名のぬるま湯に浸かり続けるため。


そのためならば、一人の少女がどれほど心身をすり減らそうが知ったことではないという、圧倒的なまでの無関心。



 祈りという美しい皮を被った、純粋で残酷な暴力。


無数の見えない手が、エレンの首筋に絡みつく。


彼女の呼吸が極端に浅くなり、ヒュッと甲高い鳴りを立てる。


両手の指の関節が白く変色するほどに、強く、強く組み合わされていた。



 彼女の足元に、ポツリ、と暗い染みが落ちる。


透明な涙の粒が、石畳の埃を散らした。



 情景が、鋭い破砕音と共に唐突に切り替わる。



 青空と極彩色の旗が崩れ落ち、視界は重く淀んだ暗闇へと一気に沈み込んだ。



 濃厚な没薬もつやくの匂いが、鼻腔の奥にべったりとへばりつく。


空気が極端に冷たく、呼吸をするたびに肺を圧迫されるような地下空間。


壁に掛けられた松明の炎が不規則に爆ぜ、血のような赤い影を石の床に這わせている。



 王都の聖教会、地下尋問室。



 エレンはここでも、冷え切った石畳の上に膝を突かされていた。


彼女を取り囲むのは、豪奢な祭服に身を包んだ高位の聖職者たち。


彼らの顔は深いフードに隠され、ただ冷ややかで硬質な声だけが頭上から降り注いでくる。



『お前が魔王を討たねば、お前もまた同罪だ』


『教会の教えに背く異端者として、あの孤児院の子供たちごと炎にくべることになろう』


 パサリ。



 エレンの目の前に、丸まった羊皮紙が投げ捨てられる。


古びた紙が擦れる、ひどく乾いた音。



 そこに記されているのは、彼女がかつて育ち、今も愛してやまない子供たちの名前。



ラインハルトにとっても、かつて不格好な木剣を握らせた記憶のある、無垢な命の羅列。



 羊皮紙を這うように見つめるエレンの瞳孔が、極限まで収縮していく。


ガタガタと、彼女の歯の根が合わない音が響く。


引き攣った空気が、喉の奥から漏れ出した。


彼女の震える指先が、石の床を力任せに掻きむしる。


爪が剥がれ、生々しい赤い血が冷たい石畳に細い筋を描いた。



 選べる道など、最初から存在していなかったのだ。


愛する男の心臓に刃を突き立てるか。


愛する子供たちが灰に変わるのを黙って見届けるか。


天秤の片側には最強の魔王の命が、もう片側には数十の無力な命が乗せられている。



 ラインハルトは、透明な視界の中で声なき咆哮を上げた。


怒りだけで空間を叩き割ろうと腕を振り回すが、観測者の彼には一枚の羊皮紙すら焼き払うことは叶わない。



 エレンの瞳から、再び涙が溢れ出す。


しかし、それはもはや透明な雫ではなかった。


両目からこぼれ落ちたのは、赤黒く濁った鮮血。


彼女の心が完全に砕け散り、人間としての機能が死滅した瞬間の光景。



 血の涙が頬を伝い、純白の法衣の襟元を無惨に染め上げていく。


彼女はゆっくりと立ち上がった。



 その顔から、恐怖の震えも、絶望の澱みも、そして愛の温度も、すべてがすっぽりと抜け落ちている。


ただ、与えられた命令を遂行するためだけの、空っぽの機械。



 血の涙を流し続ける顔無しの人形が、白木の杖を力強く握り直す。



          ◇



 激しい明滅。



 血の匂いと乳香の香りが急激に薄れ、代わりに強烈なカビと冬の冷気が肺の奥へとなだれ込んでくる。


鼓膜を叩くのは、群衆の歓声でも聖職者の呪詛でもない。



 バラバラと、硬質な破片が大理石の床に降り注ぐ、ひどく無機質な音。



 現実への帰還。


謁見の間。



 兜の奥の視界が、瞬きと共に確かな焦点を結ぶ。



 数メートル先には、大剣の衝撃波で吹き飛ばされ、床に両膝を突いたエレンの姿があった。



彼女の胸元で揺れていたはずの『誓いのペンダント』は、すでに欠片も残っていない。



 四散した水晶の残骸ざんがいが、ステンドグラスから漏れる月光を反射し、冷たいきらめきを放っていた。



 ラインハルトの首筋から、ツーッと一筋の熱いものが流れ落ちる。


砕けたペンダントの破片が肌を掠めた、ごく浅い傷。



 そこから溢れた彼自身の血の熱さが、今逆流した記憶が決して幻ではないことを彼に突きつけている。



 大剣を握る鋼の篭手が、限界を超えて軋みを上げた。


指先が皮膚を突き破るほどの圧で、柄に巻かれた革を握り潰す。



 彼の踏みしめる足元の大理石が、音を立てて蜘蛛の巣状にひび割れていく。


兜の奥で、彼の呼吸が極端に遅く、そして深いものへと変わった。



 エレンの肩がビクンと跳ねる。


杖を支えにして、彼女はひび割れた唇から荒い息を吐き出しながら顔を上げる。


その瞳は、記憶の底で見た「機械」のそれと重なり合っていた。


魔力過多で鼻筋から血を流し、生気を完全に失った顔。


愛した女の、悲惨な成れの果て。



(なぜ、などと)



 問うことすら、無意味な虚無。



 世界が彼女をそう作り変えた。



魔王という必要悪を維持するための『システム』が、彼女の愛も尊厳もすべてをすり潰し、彼を殺すための凶器としてこの場所へ送り込んだ。



 自らを討ちに来る者たちが、皆一様に背負わされた歪な運命の終着点。


その中でも、これ以上ないほどに最悪で、残忍な形。



 ラインハルトは、ゆっくりと大剣の切っ先を下げた。


防御の型すら放棄し、だらりと右腕を垂らす。


それは、これから放たれるであろう魔法をすべてその身で受け止めるという、無言の意志表示。


エレンが再び、震える唇で呪詛のような詠唱を紡ぎ始める。


杖の先端に、彼女自身の命を燃やして作られた最後の魔力が青白く瞬いた。



 焦点の合わない濁った瞳が、ラインハルトの胸元だけを機械的にロックオンしている。


重厚な金属の擦れる音が、凍てついた謁見の間に響き渡る。



漆黒の鎧が、自ら死地へ向かうように、一歩、前へと踏み出した。



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