【序章】 第2話
光が、爆ぜた。
凍てついていた謁見の間の暗闇を、無数の白刃のような閃光が切り裂く。
エレンの震える唇から紡がれた聖句。
それが極限まで圧縮され、物理的な熱量を持った神聖魔術へと変換された瞬間。
杖の石突を中心にして大理石の床に魔法陣が展開し、そこから生み出された七条の光槍が、放射状に広がりながら一斉にラインハルトへと殺到した。
頭部、心臓、両肩、両膝。
それぞれが独立した生き物のような軌道を描き、急所を的確に穿ちに来る。
回避の隙など、一ミリも存在しない。
だが、漆黒の魔王の足は、床から一歩も動いてはいなかった。
斜め下へと向けられていた大剣が、下段から跳ね上がるように虚空を薙ぐ。
重厚な鋼鉄が空気を叩き潰す、腹の底を揺らすような轟音。
刃の腹が、最速で迫っていた第一の光槍の側面を的確に叩き落とす。
弾き飛ばされた光が石柱に激突し、爆発と共に砕けた破片を雨のように降らせた。
右に一歩。
わずかな体重移動。
ラインハルトの身体を掠めるように、第二、第三の光槍が通り抜けていく。
すかさず手首を返し、柄頭で後続の魔法を粉砕。
返す刀で残るすべての光芒を切り捨てた。
ガラスが砕け散るような甲高い破砕音の連続。
飛び散った魔力残滓が、青白い火の粉となって玉座の間に舞い散る。
焦げたオゾンの匂いが、冬の冷気に混じって鼻腔を突いた。
すべてを凌ぎ切るまでに要した時間は、わずか数秒。
ラインハルトの剣戟には、一切の無駄がない。
力任せに振り回すのではなく、魔法の軌道、速度、威力を瞬時に見極め、最小限の動きと最適な角度で「死」のベクトルを逸らしていく。
彼がかつて、勇者時代において『戦列』と呼ばれた所以。
いかなる多勢に囲まれようとも、彼が前線に立つ限り、その後ろにいる者たちへは一滴の血も、一陣の風すらも届くことはなかった。
(……踏み込みが、半歩浅い)
舞い散る火の粉の向こう側。
兜の奥に隠されたラインハルトの双眸が、白木の杖を構え直すエレンの姿を静かに捉え続けている。
かつて背中を預け合った戦友であり、未来を誓い合った女。
彼女の魔法の癖、詠唱のタイミング、魔力を練る際の呼吸の乱れ。
そのすべてを、彼は自身の体の造りのように熟知している。
だからこそ、即座に違和感を拭えなかった。
杖を握る彼女の両手。
その指の関節は血の気を失って真っ白に染まり、微小な痙攣を引き起こしている。
次弾の詠唱を紡ぐ唇はひび割れ、そこから漏れる声はひどく掠れていた。
彼女の瞳。
かつては、陽光を透かした泉のように澄み切った蒼色だった。
しかし今、ラインハルトを見据えるその瞳の奥には、泥濘のような濁りが沈殿している。
それは、世界を救うという純粋な義憤ではない。
魔王という絶対悪に立ち向かう、澄んだ覚悟でもない。
何かに追き立てられるような焦燥。
失敗すれば取り返しのつかないものを失うという、極限の強迫観念。
「――っ!」
声にならない裂帛の気合いと共に、エレンが杖を頭上へと振りかざす。
謁見の間の空気が一気に収縮した。
床の霜が瞬時に蒸発し、彼女の頭上に三つの巨大な光の輪が形成される。
そこから生み出されたのは、意思を持った自律型の魔力刃の群れ。
数十、いや百を超える光の短剣が、蜂の群れのように玉座の空間を埋め尽くした。
◇
一斉掃射。
光の暴雨が、漆黒の巨躯へと降り注ぐ。
ラインハルトは、ここで初めて自ら前へと歩みを進めた。
大理石の床を踏み砕く、重々しい足音。
大剣を頭上で旋回させ、剣風の壁を作り出す。
光の刃が鋼に触れるたび、金属が弾けるような鋭い音が謁見の間に響き渡った。
ガンッ、キンッ、ガガガガガッ!
弾かれた光刃が四方八方へと飛び散り、石壁を抉り、豪奢なタペストリーを無惨に引き裂いていく。
ラインハルトは歩みを止めない。
嵐の様に降り注ぐ魔法の真っ只中を、まるで木漏れ日の下を散歩するかのように、一定の歩幅で前進していく。
大剣の軌道は円を描き、時に直線となり、彼の周囲に絶対的な不可侵領域を構築し続けている。
(なぜ、だ)
エレンの歯が、ギリリと嫌な音を立てる。
彼女の額から止めどなく流れる汗が、顎を伝って床へと落ちた。
どれほどの魔力を注ぎ込んでも、どれほど緻密に術式を構築しても、目の前の黒い鎧にはかすり傷一つ付けることができない。
かつて誰よりも頼もしかったその背中は、敵に回した瞬間、いかなる希望をもすり潰す絶望の壁と化していた。
息が、続かない。
肺が燃えるように熱い。
彼女は杖を手放しそうになる右手を、左手で無理やり押さえつけた。
その瞬間、彼女の視界をよぎるのは、王都の地下室に漂う没薬のむせ返るような匂い。
羊皮紙に記された、孤児院の子供たちの名前。
教皇の冷ややかな声が、呪いのように耳の奥にこびりついて離れない。
『魔王を殺さねば、子供たちはすべて異端として炎にくべる』
彼女の視界が、不自然に歪む。
魔力過多による脳の毛細血管の悲鳴。
鼻筋を伝って、一筋の赤い血がツーッと流れ落ちてきた。
それでも、彼女は魔力の供給を止めない。
止めるわけにはいかなかった。
「まだ……まだ、よ……!」
血の混じった唾液を吐き捨て、エレンは杖を両手で力任せに突き出した。
空中に残っていたすべての光刃が一つに融合し、一本の巨大な光の柱となってラインハルトの胸元へと射出される。
大気が悲鳴を上げた。
空間そのものを焼き尽くすような、規格外の魔力熱。
ラインハルトは、その一撃を避ける素振りを見せなかった。
歩みを止め、両手で大剣の柄を握り直す。
右足を半歩引き、深く腰を落とす。
静寂。
轟音の渦中にありながら、彼を中心とした数メートルの空間だけが、完全に時を止めたかのような錯覚。
光の柱が、漆黒の鎧を飲み込もうとしたその刹那。
大剣が、下から上へ。
一切の魔力を持たない、純粋な筋力のみによる一閃。
空間が、縦に裂けた。
光の柱は真っ二つに分断され、ラインハルトの左右を通り抜けて背後の石壁に激突する。
城全体を揺るがすような爆発音。
砕けた壁の破片がバラバラと崩れ落ちる。
吹き荒れる熱風の中、ラインハルトの巨躯が無傷で姿を現した。
鎧からは微かな白煙が立ち上っているが、彼の呼吸は一分の乱れもない。
その光景に、エレンの膝がガクンと折れそうになる。
足掻くような、短い足音。
彼女はなんとか杖を支えにして踏みとどまった。
しかし、彼女が体勢を立て直すよりも早く、ラインハルトはすでに――彼自身の剣の間合いへと足を踏み入れていた。
数メートル。
大剣を一歩踏み込んで振るえば、容易に命を刈り取れる距離。
兜の奥の冷たい視線が、エレンを見下ろしている。
圧倒的な死の気配。
「あ……」
エレンの口から、乾いた空気が漏れた。
咄嗟に防御術式を展開しようとする。
白木の杖の先端が淡い光を帯び、彼女の正面に半透明の光の盾が形成されかけた。
遅い。
ラインハルトの大剣が、無慈悲な軌道を描いて横薙ぎに一閃される。
形成途中だった光の盾は、ガラス細工のようにあっけなく粉砕された。
魔力が散る破砕音。
大剣の刃はそのまま止まることなく、エレンの身体へと迫る。
エレンは目を強く閉じた。
カチャ。
大剣の切っ先が風を裂く音に混じり、澄んだ金属音が鳴る。
エレンの胸元で激しく揺れる、『誓いのペンダント』。
その透明な水晶の表面に、鈍く光る巨大な鋼鉄の刃が触れる、ほんの数ミリ手前。
ラインハルトの腕の筋肉が、限界まで膨張した。




