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聖遺物《レリック》は語らない――勇者殺しの九つの断片  作者: 水縒あわし
【序章】不帰の玉座

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【序章】 第1話

はじめましての方もそうでない方も。


本作は、かつての英雄が魔王となり、救ったはずの世界の悪意と対峙していくダークファンタジーです。


救済なき世界に響く、冷たく重い物語をお楽しみいただければ幸いです。




 謁見えっけんを支配するのは、分厚い氷盤ひょうばんの底に沈み込んだような重い静けさ。



 天井近くのひび割れたステンドグラスから、青白い月光が斜めに差し込んでいる。


光の帯の中を、微細な石の粉塵が雪のようにゆっくりと舞い落ちていく。



 呼吸をするたび、肺の奥を刃物で撫でられるような鋭い冷気が忍び込んできた。


むき出しの石壁に覆われた空間には、長年放置された古城特有のカビの匂いに混じり、全てを凍てつかせる冬の匂いが満ちている。



 並び立つ巨大な石柱の影は黒々と濃く、光の届かない空間の奥底に底なしの深淵しんえんを形作っていた。


床の大理石には薄っすらと霜が降り、月光を反射して鈍い光を放つ。



 部屋の最奥さいおう、数段高くなった大理石の台座。



 そこに据えられた冷酷なほどに直線的な意匠の玉座に、一人の男が腰を下ろしている。



 漆黒の重鎧じゅうがい



 光を一切反射しないその装甲は、まるで周囲の闇を凝縮して固めたかのよう。


兜の奥に隠された双眸そうぼうは、微塵の揺らぎも見せない。



 彼は指先一つ動かさない。


巨大な彫像のように、ただそこに存在し続けていた。



 ラインハルトは、静かに目を閉じる。



 鋼鉄の篭手こてで覆われた指先が、傍らに突き立てられた身の丈ほどもある大剣の柄に触れる。


柄に巻かれた古びた革の擦れた感触。


指先に伝わってくるのは、凍りついた鉄の鋭い温度。



 彼の耳は、城の奥深くから響いてくる微かな異音を正確に捉えていた。



 コツ、コツ。



 石畳を叩く、硬質な響き。



 これまでこの城を訪れた「七人の挑戦者たち」のそれとは、明らかに異質の音色。



『第一の傭兵が鳴らした泥臭い重い足取りでもない』



『第二の騎士が誇示した規則正しい行進でもない』



『第七の修道女が引きずっていた鎖の鈍い摩擦音とも違う』



 ひどく軽やかで、しかし同時に、致命的なまでに震えている歩み。



 近づいてくる。



 一歩進むごとに、細かな足の震えや、それを無理やりねじ伏せようとする強ばりが、空気の振動となって伝わってくる。



(……来るのか)



 暗闇の中で、ラインハルトが静かに息を呑む。



          ◇



 謁見の間へと続く、長く薄暗い大回廊だいかいろう



 かつては英雄たちの偉業を讃える極彩色ごくさいしきの壁画で飾られていたその場所も、今は何者かの手によって無残に削り取られ、荒々しい石肌を晒している。



 床には無数の傷跡。


深い斬撃のあと、魔法によって焦げた石畳、そして乾いて黒ずんだ血の染み。



 それらは、ラインハルトを討とうとして散っていった者たちの痕跡きずあと


欲深き者が落とした硬貨の欠片、騎士の鎧の破片、そして狂信者が振り撒いた乳香にゅうこうの残り香。



 死に満ちた空間の記憶が、沈殿したおりのように回廊の隅々にこびりついている。



 その陰惨いんさんな道を、一つの影が進んでいく。



 第八の勇者、聖女エレン。



 純白であったはずの彼女の法衣は、幾度もの戦闘を潜り抜けてきた証として、裾のあちこちが泥と魔物の返り血で赤黒く変色している。



 足元を覆う白革のブーツもまた、無惨な汚れにまみれ、本来の輝きを完全に失っていた。



 彼女の歩幅は一定ではない。



 数歩進んでは立ち止まり、壁に手をついて荒い呼吸を繰り返す。



 吐き出す息は白く、その細い肩が不規則に上下を繰り返している。



 カチャ、カチャ。



 彼女が一歩を踏み出すたび、胸元で硬質な音が鳴る。



 銀の鎖で繋がれた、涙滴型ティアドロップの水晶。


『誓いのペンダント』。



 それが冷たい胸当てに打ち付けられ、悲鳴のような微かな金属音を奏でていた。



 エレンは、強く唇を噛む。



 血が滲むほどの力。


その鈍い痛みを起爆剤きばくざいにするかのように、彼女は再び前へと足を踏み出す。



 握りしめた白木の杖の表面には、手汗が冷たく滲んでいる。



 杖の石突いしづきが床を叩く音が、静まり返った回廊に空虚な反響を生み出した。



 彼女の視界は、暗い廊下の先へ向いている。



 魔王城の奥深くへ進むにつれ、物理的な冷気とは異なる、どす黒い圧力が肌にまとわりついてくる。



 呼吸をするたびに、冷たい空気が喉を焼き、肺を刺す。



 それでも、彼女の足が止まることはない。



(行かなければ)



 背中を押すのは、決して勇気ではない。



 重く粘り気のある、呪いのような義務感。



 歩みを進めるたび、彼女の脳裏には王都の喧騒けんそうが蘇る。


神の裁きを声高こわだかに叫ぶ司祭たちの声。


自分を見る民衆の、すがるような、そして同時に強要するような視線。


 カチャ。



 ペンダントが、再び胸当てを叩く。



 かつて王都の丘で、陽の光を浴びながら二人が笑い合った日の記憶。


乾いた草の匂いと、彼の手の温もり。



 水晶の奥に封じられたはずの時間が、今は冷たい氷の刃となってエレンの心を削り取る。



 やがて、彼女の視界が開けた。



 巨大な両開きの鉄扉。


その片側が、すでに半ば開け放たれている。



 扉の隙間から漏れ出す、圧倒的な密度の冷気。



 そこが終着点。


この世界のあらゆる因果の終着点であり、彼女自身の旅の終わり。



 エレンは扉の前に立ち止まり、大きく息を吸い込む。



 肺が凍りつくような冷たさを飲み込み、そしてゆっくりと吐き出す。



 震える両手で杖を強く握り直し、彼女は開かれた扉の隙間に身を滑り込ませた。



          ◇



 謁見の間。



 エレンが足を踏み入れた瞬間、空間の質が劇的に変貌へんぼうする。



 ただ冷たいだけではない。


肌の表面に微小な針を無数に突き立てられるような、物理的な圧迫感。



 最強の魔王が放つ、無意識の魔力圧。



 エレンの足が止まる。


部屋の最奥、玉座に座る漆黒の影を見据えた。


距離にして数十メートル。


しかしその空間には、到底埋めがたいほどの断絶が存在している。



 言葉の交歓こうかんはない。



 ラインハルトは玉座に身を沈めたまま、微動だにしない。


兜の奥の双眸が、静かにエレンを捉えている。



 かつて陽だまりの中で微笑みかけていたその顔は、今は漆黒の鉄に覆い隠されている。


漏れ出す空気からは、彼女がよく知る光は欠片も感じられない。



 エレンもまた、口を開かない。



 開けば、せき止めていたものが決壊し、立っていることすらできなくなる。



 彼女は奥歯をきつく噛み締め、両手で杖を抱え込むようにして震えを抑え込む。



 静寂。



 先ほどまでの無機質な静けさではない。



 火薬庫の中で火打ち石を擦る直前のような、限界まで張り詰めた、爆ぜるような緊張感。



 空気の密度が極端に上がり、音の伝わり方すら歪んで感じられる。



 自分の心拍音が、耳の奥で早鐘のように打ち鳴らされている。



 エレンの喉が鳴る。



 極度に乾いた粘膜を、無理やり潤そうとする嚥下えんげの音。



 そのわずかな音が、雷鳴のように謁見の間に響き渡った。


チリン。


エレンの胸元で、『誓いのペンダント』が小さく揺れる。


その澄んだ音。


張り詰めた空間に落ちた一滴の水滴のように、静寂せいじゃくの表面に波紋はもんを広げていく。



 暗闇の奥底で、ラインハルトの意識が微かに揺らぐ。



 世界を救い、穏やかな日々を取り戻すための誓い。


それが今、彼自身を殺すための鎖となって彼女の細い首に巻き付いている。



 兜の奥で、ラインハルトはゆっくりと瞬きをした。



 過去の幻影を振り払うかのように、玉座の上の漆黒の鎧が、ゆっくりと立ち上がる。


重厚な金属の擦れる音。


石畳が軋むような、圧倒的な質量の移動。


ラインハルトは傍らの大剣を無造作に引き抜く。


その切っ先が、ゆっくりと斜め下へと向けられた。


構えすら取らない、自然体。


しかしその姿は、あらゆる死角を消し去った完璧な城塞じょうさい



 エレンの視界の端で、月光がステンドグラスの破片に反射し、ちらついた。



 彼女は杖の石突を床に突き立てる。



 祈りの言葉を、声に出さずに唇だけで紡ぐ。



 冷たい風が、二人の間を通り抜けた。



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