【第1章】 第4話
光の届かない回廊の奥から、ほんの微かな冷風が吹き抜けてくる。
古いカビの匂いに混じって、極寒の氷の底で削られたような、冷酷な鉄の匂いが漂っていた。
ガルスは立ち止まることなく、泥と魔物の返り血で汚れた分厚い革靴を前方へ踏み出す。
青白い魔力光を宿した古びた燭台が、一定の間隔で石柱の間に並んでいる。
その頼りない明かりが、彼の巨大な影を石畳の上へ長く引き伸ばしては、次の柱の陰へと飲み込ませていった。
極彩色の絵の具が削り落とされた壁面地帯を抜けると、大回廊の様相が徐々に変質し始める。
滑らかに磨き上げられていたはずの大理石の床には、無数のクレーターのような陥没痕。
周囲の石柱には、大木を真っ二つにへし折るほどの深さを持った、巨大な斬撃の痕跡が至る所に刻み込まれていた。
それらは経年劣化によって生じたひび割れなどではない。
圧倒的な質量を持つ鋼鉄が、空気ごと石を叩き潰した純粋な暴力の爪痕だった。
(……なんだ、この傷は)
ガルスの太い眉間が、険しく寄せられる。
彼は幾多の戦場を渡り歩き、死体の山を築き上げてきた歴戦の傭兵だ。
剣や槍が交わった痕跡を見れば、そこでどのような殺し合いが行われたのか、おおよその見当をつけることができる。
だが、この回廊に刻まれた傷跡は、彼の経験則から完全に逸脱していた。
四方八方を囲む壁と柱に、深く鋭い刃の軌跡が縦横無尽に走っている。
床の陥没は、重武装の騎士数十人がかりで一斉に魔法を叩き込んだような広範囲の破壊跡。
それに対し、反撃として振るわれたであろう大剣の軌道は、ただ一つ。
たった一人の人間が、数百という軍勢の波を真正面から受け止め、ただ一度の退歩も許さずにすべてを粉砕し尽くした。
その事実が、声なき石の傷跡から鮮明に浮かび上がってくるのだ。
かつて勇者ラインハルトが『戦列』と呼ばれた所以。
彼が背後に仲間を庇いながら、魔王軍の主力部隊をたった一人で殲滅した凄絶な戦いの記憶が、この空間にはそのまま凍りついている。
ジャラ……ズズン。
腰元に縛り付けた『黄金の恩賞袋』が、一歩ごとに重く鈍い音を立てる。
袋に満ちた死者の呪いが、まるで周囲の空間に共鳴しているかのように、いつもよりひどく冷たく感じられた。
ガルスがさらに数歩、回廊の奥深くへ足を踏み入れた瞬間。
肌の表面を、チリチリとした微細な痛みが走った。
吹き抜ける冷風が、突如として鋭利な刃の形を持ったかのような錯覚。
むき出しになったガルスの太い首筋や、包帯の巻かれた腕の表面を、目に見えない何かが凄まじい速度で掠めていく。
実際には皮膚は一枚も切れておらず、一滴の血も流れていない。
しかし、毛細血管が収縮し、肉の奥底の神経が「斬られた」という誤った信号を脳へと送り込んでくるのだ。
空間にこびりついた、目に見えない剣気の残滓。
先代魔王討伐の折にこの場所で振るわれた大剣の圧倒的な殺意が、時間という概念を無視して、今なお大回廊の空気を切り裂き続けている。
呼吸をするたび、肺の粘膜を細かいガラス片で撫でられるような激しい不快感。
青白い燭台の炎が、風もないのに激しく揺らめき、消えかける。
ガルスは大きく目を見開き、咄嗟に身を低く沈めた。
無意識のうちに、背中に負った大剣の柄に右手を掛けている。
(どこだ。どこから狙ってやがる……!)
血走った眼球をギョロギョロと動かし、薄暗い柱の陰を睨みつける。
しかし、そこには誰もいない。
魔物の気配はおろか、ネズミ一匹の足音すら存在しない。
ただ、絶対的な死の気配だけが、透明な嵐となって彼を包み込んでいる。
右腕の筋肉が、意志に反して小刻みに跳ねた。
柄を握る指先から、嫌な汗がじわりと滲み出す。
数分前、外郭門で魔物の群れを一人で蹂躙した時の万能感は、すでに微塵も残っていない。
彼が今対峙しているのは、肉体を持つ敵ではない。
空間そのものに刻み込まれた、次元の違う「本物の化け物」の影。
もしこの刃の残滓を放った張本人が目の前に立っていたならば、自分は手も足も出ずにただの肉塊へと変えられるだろう。
傭兵として研ぎ澄まされた生存本能が、激しい警鐘を鳴らし、踵を返して逃げ出せと命令を下している。
奥歯が、ガチガチと鳴る。
ガルスは、己の膝が笑い始めていることに気づき、顔を激しく歪めた。
(ふざけんな。俺が、姿も見えねえ過去の幻なんぞに……!)
荒い呼気が、唇の隙間から白く吐き出される。
彼は背中の大剣から手を離し、代わりに腰元の分厚い革袋へと指を這わせた。
太い紐を乱暴に解き、どす黒い染みで覆われた袋の口を開く。
右手をごっそりと中へ突っ込み、ひんやりと冷たい金属の山を力任せに鷲掴みにした。
ジャラリ。
引き抜かれた彼の手の中には、数え切れないほどの呪貨。
泥と血糊にまみれ、王国の紋章すら潰れた汚らしい硬貨の塊。
しかし彼にとって、これこそが世界で最も純粋で、最も確かな価値を持つもの。
掌から伝わってくる氷のような硬貨の温度が、熱暴走を起こしかけていた彼の脳髄を、強引に冷却していく。
(そうだ。どんな化け物だろうが、どんな理不尽だろうが関係ねえ)
硬貨の鋭い縁が、手のひらの皮膚に食い込み、チクリとした痛みを走らせる。
その痛みが、見えない刃の幻覚を上書きし、彼の意識を現実へと繋ぎ止めた。
(死ねば肉切れだ。そして、その首には国が傾くほどの金が懸かってる)
ガルスは強く目を閉じ、深く、重い息を肺の底まで吸い込む。
再び目を開いた時、彼の濁った瞳からは先ほどの震えが完全に消え去っていた。
代わりに宿っているのは、底なしの黄金への執着と、すべてを金に換算する猛禽の光。
生存本能の警鐘を、純粋な強欲の塊が完全に呑み込んだのだ。
彼は硬貨を袋の中へ落とすことなく、そのまま右手の指の間に数枚を挟み込んだ。
親指の腹が、いつでも弾き出せるように金属の縁をしっかりと捉えている。
ゆっくりと、腰を上げて立ち上がる。
革靴の底が、大理石の床を擦る音。
大回廊の静寂は、依然として冷酷なまま彼を包み込んでいる。
肌を焼くような剣気の残滓は消えていない。
だが、彼はもう足を止めることはなかった。
青白い燭台の光の連なりが途切れる、その先の最奥。
底知れない暗闇の中に、巨大な階段の輪郭がぼんやりと浮かび上がっている。
ジャラ……ズズン。
腰元の袋を重く鳴らしながら、ガルスは謁見の間へと続くその階段へ向けて、確かな一歩を踏み出した。




