【第1章】 第3話
吹き荒れる乾いた風が、転がる異形の肉塊から死臭を剥ぎ取り、荒野の彼方へと運び去っていく。
ガルスは分厚い革靴の底で、ピクピクと痙攣を続ける魔物の腕を無造作に踏み潰した。
鈍い骨の折れる音が足元から響く。
彼は血と泥にまみれた視線を上げ、眼前にそびえ立つ巨大な障害物を見据えた。
王都の城壁すら凌駕する、魔王城の外郭門。
黒ずんだ鉄の扉は、数え切れないほどの戦乱の記憶をその表面に深く刻み込んでいる。
太い腕を振り上げ、閂に手を掛けようとする。
その指先が表面に到達する、ほんの数センチ手前。
巨大な鉄扉が、まるで自らの意志を持っているかのように、内側へ向かってゆっくりと後退し始めた。
長年放置されていた巨大な蝶番は、一切の摩擦音を立てない。
ただ無音のまま、重厚な扉が左右に開かれていく。
開かれた隙間から這い出してくるのは、荒野の淀んだ空気とは全く異なる、研ぎ澄まされた氷の刃のような冷気。
(招き入れてやがるのか。……悪趣味な真似を)
ガルスは腰の太い革ベルトを力強く握り直す。
ベルトに縛り付けられた『黄金の恩賞袋』が、鈍い音を立てた。
ジャラ……ズズン。
彼は深く息を吸い込み、完全に開け放たれた門の暗がりへと足を踏み入れた。
一歩、また一歩。
泥で汚れた革靴が、魔王城の冷たい石畳を叩く。
その瞬間、外界の荒野で吹き荒れていた風の音が、分厚い壁によって完全に遮断された。
訪れたのは、耳鳴りがするほどの圧倒的な無音。
自分の呼吸音すらも空間に吸い込まれ、消滅していくような錯覚。
空気の密度が外とは明らかに違い、肺に空気を送り込むたびに、見えない重石を乗せられているかのような圧迫感を覚えるのだ。
ガルスは眉間を深く刻み込み、警戒の視線を巡らせる。
いつでも右手の呪貨を弾き出せるよう、親指の腹に力を込めた。
そこは、城の奥深くへと真っ直ぐに伸びる大回廊だった。
柱の間に設置された古びた燭台には、青白い魔力光が音もなく灯っていく。
だが、魔物の気配も、罠の起動を知らせる魔力の揺らぎも存在しない。
ただ、底冷えのする静寂だけが、どこまでも均等に満ちている。
警戒を解かぬまま、回廊の中ほどまで進む。
床に散乱している無数の物体が、ガルスの革靴の先端に触れた。
視線を落とすと、そこには漆喰の入った樽や、乱雑に投げ出された筆、そして王国軍の紋章が刻まれた数本の槍が転がっている。
血の跡はない。
抵抗した形跡すらなく、ただ持ち主たちが異常な恐怖に駆られ、命からがら逃げ出したことだけが明白に読み取れる。
(死体がない……だと?)
数多の戦場を渡り歩いてきた傭兵の嗅覚が、激しい警鐘を鳴らす。
死体があれば、まだ物理的な殺戮として理解できる。
しかし、武器や道具をかなぐり捨てて逃げ出すほどの、人間を超越した根源的な恐怖。
その残滓が、冷え切った回廊の空気にべったりとへばりついている。
ふと、青白い光に照らされた壁面が、ガルスの視界の端に違和感として引っ掛かった。
彼は歩みを止め、石柱の間に広がる壁へと顔を向ける。
荒廃した城内にはひどく不釣り合いな、真新しい極彩色の絵の具の跡。
それは、勇者ラインハルトが先代魔王を討伐した直後、魔王城を勝利の戦利品として誇示するために、王国軍が急ぎ持ち込んで飾らせた記念碑の壁画だった。
光り輝く白銀の剣の意匠。
王国の正義と利権の正当性を強調するかのように、意図的に大きく描かれた王室の紋章。
だが、その壁画は見る影もなく破壊されている。
狂乱した魔物が手当たり次第に暴れたような、乱雑な傷跡ではない。
巨大な刃によって、特定の箇所だけが執拗に抉り取られているのだ。
民衆に手を振って微笑む勇者の顔。
王国の騎士と固く握り合う手。
かつての光を象徴する部分が、下地の分厚い石肌が露出するまで徹底的に否定され、削り落とされている。
魔王としてこの城へ帰還した彼が、自分を都合の良い偶像に仕立てようとした人間たちの浅ましさを、物理的な暴力で消去した痕跡。
そこから放たれる声なき拒絶の圧力が、ガルスの動物的な本能を直接撫で上げる。
肌の表面に、びっしりと粟が立つ。
胃袋の底が、じわりと冷たくなる不快感。
ガルスは首を強く振り、脳裏にへばりつこうとする幻影を乱暴に振り払った。
ジャラ……ズズン。
腰元の『黄金の恩賞袋』が、彼の動きに合わせて鳴る。
その鈍く重い痛みが、彼を現実へと強制的に引き戻した。
彼が必要としているのは、壁画に刻まれた陰惨な過去の謎解きではない。
「……英雄も魔王も関係ねえ」
誰に聞かせるでもなく、荒い声で虚空へと吐き捨てる。
「金だ。金さえあればいい」
自らを奮い立たせるための、空虚な強がり。
彼は太い指で袋の結び目をなぞり、その冷たい感触から欲望という名の燃料を絞り出す。
ガルスは再び、大回廊の奥へと体ごと向き直る。
青白い魔力光が、どこまでも続く石柱の影を床に長く引き伸ばしている。
ザクッ、ザクッ。
泥で汚れた靴底が、散らばる極彩色の壁画の破片を無慈悲に踏み砕く。
彼の一歩一歩が、底冷えのする静寂を無遠慮に引き裂いていく。
腰元から響く重低音が、規則的なリズムを刻む。
ジャラ……ズズン。
大回廊の奥深く。
光の届かない闇の向こう側から、ほんの微かな冷風が吹き抜けてきた。
古いカビの匂いに混じって、冷酷な鉄の匂いが漂ってくる。




