第16話:帰還した日本は、王国だった
俺は、青髪の少女の方へ歩み寄った。
愛斗「……お前は、どうするつもりだ」
問いかけても、すぐには返事がない。
少女は小剣を胸の前へ抱えるみたいに持ち直し、床へ落ちた視線を上げられずにいた。だが、その指先にはさっきよりはっきりと力がこもっている。
やがて、唇がわずかに開いた。
青髪の少女「……あの」
声にしただけで、全身の震えが少し強くなる。
それでも彼女は言い直した。
青髪の少女「わたし……いっしょに、行く」
そこで一度、息を飲む。
それから、ほとんど懇願みたいに続けた。
青髪の少女「……そこ以外、だめ」
言葉足らずなのに、意味は痛いほど伝わった。
彼女は俺たちへ懐いたから一緒にいたいわけじゃない。もっと切実な理由だ。もう一人でどこかへ戻ることができないのだ。戻りたくない、の方が近いかもしれない。
人に裏切られて、囚われて、怯えながらここまで生き延びてきたのだろう。その全部が、短い一言の中に詰まっていた。
瑠香が不思議そうに俺と少女を見比べる。
アメリア姫は、何かを堪えるみたいに静かな顔でその様子を見守っていた。ネリュアはその言葉を否定せず、ゆっくり頷く。
俺は少女の前にしゃがみ込み、できるだけ穏やかに言った。
愛斗「分かった。じゃあ……今さらだけど、名前を聞いてもいいか」
少女の唇がかすかに震える。
青髪の少女「……アズ」
愛斗「アズ?」
少女は、ほんの少しだけ顔を上げた。
前髪の奥で、翡翠色の瞳が揺れる。
アズ「アズリナ・ドリュアス」
その姓を聞いた瞬間、俺の思考が一拍止まった。
愛斗「ドリュアスって……」
瑠香が俺とアメリア姫の顔を交互に見やる。アメリアもまた、信じられないものを見るように目を見開いていた。
アメリア「……アズリナ?」
その声は、姫のものというより、妹の名を呼んだ姉の声だった。
アズリナはびくりと肩を震わせる。けれど、逃げなかった。震えるまま、その場に立ち尽くしている。
アメリアが一歩、また一歩と近づいた。
アメリア「アズリナ・ドリュアス……それは、わたくしの妹の名です」
広間の空気が静かに張りつめる。
アメリアは、アズリナの前で足を止めた。今にも手を伸ばしそうなのに、触れてはいけないものに触れるみたいに、そこで躊躇う。
アメリア「幼い頃、城から姿を消したまま、行方知れずになっていた……。ずっと、見つからなかった……」
アズリナは何も言わない。
だが、その小剣を抱く腕の力が強くなる。
アメリアの声には、驚きと痛みと、取り戻したい過去への震えが混ざっていた。
アメリア「あなたが……本当に、アズリナなのですね」
その言葉に、アズリナはようやくごく小さく頷いた。
ただ、それだけだった。
けれど、その小さな頷き一つで、失われていたはずの時間が、無理やりここへ繋ぎ直された気がした。
俺は、何も言えずにその光景を見ていた。
アメリアにとっては、奪われたはずの妹だ。アズリナにとっては、長いこと手の届かない場所にあった姉なのだろう。なのに、その再会は抱き合うでも泣き崩れるでもなく、痛みごと息を潜めたままそこにあった。
ネリュアが、その沈黙をやわらかく断ち切る。
ネリュア「妾の力で、道を開こう」
彼女は俺と瑠香、そしてアズリナへと視線を向けた。
ネリュア「来たときと同様に、世界と世界のあいだへ道を通す。時のずれも最小限に抑えられるはずじゃ」
俺たちは顔を見合わせる。
戻るのか。戻った先に何があるのか。まだ何も分からない。けれど、この世界の問題を抱えたままでも、一度は元の世界を確かめる必要があった。
ネリュアが静かに詠唱を始める。
足元の空気が揺らぐ。光が薄く広がり、広間の床に緑の輪が描かれていく。その中心が深く、やわらかく歪んだ。
瑠香が俺の袖をぎゅっと握る。
その力には、もう恐怖だけじゃない。帰れるかもしれないという期待も混じっていた。
俺たちは、その門をくぐった。
視界が揺れる。身体が何度もひんやりとした膜をすり抜けるみたいな感覚。城の石の匂いも、湿った地下の空気も、だんだん薄れていく。
次に足裏へ返ってきたのは、柔らかな土ではなかった。
固く、ざらついた感触。
アスファルトだった。
俺は目を開いた。
夜の空気が肺へ入る。けれど、それはさっきまでの異世界の夜とも、俺の知っている現代の夜とも少し違っていた。
そして、足元から顔を上げた瞬間、息が止まった。
そこにあったのは、俺の知っている街の夜景じゃなかった。
アスファルトの向こうに、巨大な石壁がそびえている。幾重にも重なった城壁。その上に並ぶ尖塔。月を突くように高く、冷たく立っていた。
ついさっきまで異世界で見ていたはずの城と、同じ構造だった。
なのに、それが現代日本の街の中へ、不気味なくらい当然の顔で存在していた。
信号の赤い光が石壁へ影を落とす。
コンビニの看板の灯りが、護衛塔の窓を照らしている。
車の排気音が、遠い鎖の軋みみたいに聞こえた。
俺の隣で、瑠香が小さく息を呑む。
瑠香「……え? なに、これ……」
彼女の視線の先にあるはずだったのは、見慣れた交差点だ。だが今、そこには巨大な騎士の石像が立っていた。剣ではなく、光を宿した杖を掲げる騎士。その台座には、さっきまで見ていた王家の紋章が刻まれている。
俺たちの周囲を、人が行き交っていた。
けれど、その姿は見慣れた現代人と微妙に違う。若者たちはスマホのようでスマホでない薄い金属板を操り、その表面には幾何学模様の光が流れている。スーツ姿の男の襟元には紋章があり、女性の服には布では説明しづらい光の意匠が縫い込まれている。
全部が異様なのに、周囲の誰も異様だと思っていない。
それが一番気味が悪かった。
愛斗「……どういうことだよ」
俺の声は、夜気へ吸い込まれていった。
瑠香が、震える指で向こうを指さす。
瑠香「わ、わたしの家……あのへん、だったよね……?」
彼女が指した場所にあったはずの、ありふれた二階建ての家は消えていた。
代わりに立っていたのは、黒い石でできた巨大なオベリスクだった。月光を吸い込むような表面に、見たことのない文字が縦に刻まれている。異邦の記念碑みたいに、そこだけ世界の意味が違っていた。
ネリュアの顔色が変わる。
琥珀色の瞳が、この世界の理がいくつも重なっていることを見抜いているのがはっきり分かった。彼女は額へ指を当て、流れ込んでくる情報を無理やり整理しようとしているみたいだった。
俺たちは、引き寄せられるように城の方へ向かった。
街並みは知っているはずなのに、近づくたびに知らないものへ塗り替えられていく。ビルの壁は石の肌へ。舗道は古い自然石へ。現代日本の景色が、上から別の世界の歴史を被せられたみたいだった。
やがて、城へ続く広間へ足を踏み入れる。
その瞬間、武装した衛兵たちが音もなく俺たちを取り囲んだ。
ただし、彼らの視線は俺たち全員に向いていたわけじゃない。
瑠香だった。
次の瞬間、甲冑の軋む音が一斉に鳴る。衛兵たちは膝をつき、頭を垂れた。
衛兵「おかえりなさいませ、瑠香姫……!」
その声が広間の天井へ反射し、不気味に何重にも返ってくる。
瑠香の身体が固まった。
瑠香「……え? え、えええええええええっ!?」
さっきまで異世界で戦っていたときより、今の方がよほど混乱している顔だった。信じられないものを見ている、という表情そのものだった。
衛兵「瑠香姫。皆、帰還をお待ちしておりました」
その言葉に、瑠香は一歩後ずさる。
ぶつかった背中が、俺の胸へ触れた。彼女は反射的に俺の服を掴み、助けを求めるみたいに顔を上げる。そこにあるのは、初めて知らない場所へ迷い込んだ子どもみたいな恐怖だった。
だが、その直後だった。
広間の空気が、冷えた。
さっきまで跪いていた衛兵たちの視線が、今度は氷の刃みたいに俺たちへ向けられる。敬意は消えていた。そこにあるのは規律と任務だけだ。
先頭の衛兵が、重い音を立てて立ち上がる。
甲の手に刻まれた王家の紋章が、月光を反射した。
衛兵「瑠香姫を無断で城外へ連れ出したこと」
その目が、俺を見る。
衛兵「王族への不遜なる接触」
次に、瑠香の後ろにいる俺たち全員を見た。
衛兵「その罪は、重い」
声は感情がなかった。ただ石板に刻まれた法を読み上げるみたいに冷たかった。
俺は咄嗟に、瑠香を庇うよう一歩前へ出る。
背中へ、彼女の震える指先がぴたりと張りついた。




