前編
鉄の輪っかは、生まれた時からわたしの首にあった。お母さんの腕に抱かれていた頃の記憶なんて、もうほとんど覚えてないけど、その冷たさと重さだけは、ずっとわたしの皮膚に貼りついている。
痛みも悔しさも、いまではもう、感じることさえめんどくさい。
「でも……ちょっと、さむいな……」
誰も返事をしてくれない。
抱きしめてくれる人はもういないから、代わりに自分の腕で自分をぎゅっと抱きしめる。
そうして小さく丸まって、夜の隙間に身を沈める。眠るというよりも、意識を手放すように。
いつも、夜明け前には叩き起こされる。濁った水で顔を洗い、つめたい地面の上で固いパンを噛みくだいた。
味なんてしない。噛んでも飲み込んでも、お腹いっぱいになることはない。けれど、お腹が空けば動けなくなる。だから、とりあえず食べる。
「おい、働け!」
今日も誰かの声が飛ぶ。
わたしは反射的に腰を上げる。重たい木箱を持ち上げる。背中が痛い。腕が震える。けれど、何も考えない。
ただ命令を聞いて、与えられた食事を食べ、眠って、起きて、働くだけ。そんな毎日。
倒れる奴隷は珍しくない。少し前も、わたしより小さな子が荷物を落とし、そのままうずくまって二度と動かなくなった。大人たちは目を逸らし、監督は鞭を振り下ろした。わたしも足を止めることはしなかった。止まれば次に倒れるのが自分だから。
自由なんて言葉は、わたしの世界にはない。
抵抗も、希望も、持たないほうが楽だ。
鉄の輪は喉元でにぶく光り、うつむくたびに胸の奥を圧迫する。
これがあるかぎり、わたし達奴隷は、逃げることなんてできない。
わたしは今日も、同じ木箱を同じ場所まで運びながら、何も思わないように頑張っている。
息をするように命令に従い、ぼんやりと生きている。
それが、わたしの「生まれてからずっと」の生活だった。
***
ごとごとと、馬車が揺れる。
荷台には奴隷たちがぎゅうぎゅう詰めに押し込まれていた。わたしは膝を立て、縮こまるように座る。
縄で縛られた手首がかすれて痛むけれど、わたしは特に気にしなかった。痛みなんて、もう慣れっこだから。
隣にいる子どもが泣いていた。声を殺してすすり泣いている。わたしは顔を横に向け、目を閉じる。泣いたって、どうにもならないのに。
……どこかに、売られるだけ。
いつものことだ。場所が変わって、主が変わって、でも扱われ方は変わらない。
わたしの生きる意味なんて、誰かの命令に従うこと以外にない。
けれど、その日はいつもと違っていた。
馬車は突然、大きく止まった。
荒々しい叫びと金属のぶつかる音。馬車の外で大勢の人が慌ただしく動き回る。わたしは目を開けたけど、とくに驚いたり、慌てたりもしなかった。どうせ、強盗かなにかだろう。わたしたちは奴隷で、財産にすぎない。勝った側が新たな主となり、わたしたちはまた売られていくだけだ、そう思っていたのに。
「……何だこれは」
低い声が響いた。今まで聞いたことのない声――冷たいのに、堂々とした重みのある響き。
視線をあげると、わずかに開かれた扉の隙間から、鎧をまとった男が見えた。逆光の中、その輪郭だけがくっきりと浮かび上がる。引き締まった影の中で、ひときわ異質なものが目に入った。頭に――角?
男の目は驚きと怒りを帯びていて、まるで目の前の光景が信じられないかのようだった。
「人身売買……奴隷のようだね」
傍らの魔術師らしき人物が呟く。
「奴隷だと?」
角の生えた男の声が、鋭く跳ねる。
「馬鹿な……奴隷は国連で禁止されているだろう!」
……こくれん? なに、それ。
聞き慣れない言葉に、わたしは首をかしげる。けれど、思考はそこまで。どうせ、どうなろうと、わたしには関係ない。
「……うん、建前の上ではそうだけど、実態は違うようだね。先ほど捕らえた奴隷商人の態度を見るに、この国では人身売買が日常のように行われていると考えていいんじゃないかな」
「国連の加盟国でありながら、このような愚行を野放しにしているとは……」
角の男はわたしたち見回し、拳を握りしめた。その目には確かな怒りが燃えていた。
その熱が、すべてを諦めていたわたしの胸を、わずかにざわつかせる。
馬車の扉が大きく開かれる。光が差し込み、わたしは思わず目を細めた。
手を差し伸べられる。
でも、その手をどうすればいいのか分からなかった。
「……お前たちは、もう自由だ」
自由――。
どこかで、聞いたことのある言葉。でも、それが何を意味するのか、わたしはちゃんと分かっていなかった。
光の中へ引きずり出されるようにして、わたしは馬車の外へ出た。手足を縛っていた縄も外される。
草の匂いがする風が頬を撫でる。久しぶりに吸い込む新鮮な空気は、胸の奥にひりつくようだった。
周りでは、ほかの奴隷の子たちが泣き笑いしている。
生まれてからずっと奴隷のわたしと違って、彼らは攫われたり、借金のかたに売られたりしてきた子たちだ。
「私達、助かったんだ!」
「やっと家に帰れる!」
そんな声があちこちでして、抱き合う姿さえ見える。
けれど、わたしはぼんやりとその光景を眺めることしかできなかった。
家? 帰る場所? そんなもの、最初からわたしにはなかった。
そのとき、角の男がこちらに歩み寄ってきた。
真っ黒な髪がさらりと風に揺れ、同じ色をした瞳は冷たい水みたいに澄んでいた。覗き込めば、そのまま沈んでしまいそうなほど深い。額からは、つやつやした黒い角がすらりと伸びている。人間なのに、どこか人ならざる気配をまとっていて……ちょっとこわい。だけど、息を呑むほど、すごくきれいな人だった。
その冷たい目でわたしを見下ろし、声を掛ける。
「……どうした? 家に帰れるのが嬉しくないのか?」
どうした、と言われても、どうしたらいいのか分からない。
生まれてからずっと奴隷だったわたしに、帰る場所も、迎えてくれる人も、何ひとつなかった。
「かえるばしょ、ない。どうしたらいいのか、わかんない」
わたしがそう言うと、角の男はとても困った顔をした。なんて返事をすればいいか分からないようだった。
代わりに、魔術師らしき人物が口を開く。
「……ずっと奴隷として生きてきたんじゃ、帰る場所もないんだろう。どうすればいいのかも、分からないんじゃないかな」
その言葉に、わたしはこくんと頷いた。
「おかあさん、死んだ。おとうさん、しらない」
角の男は、一瞬だけ眉をひそめる。それからゆっくりと屈んで、わたしと目線を合わせた。
「そうか……」
そのとき、なにか気づいたみたいに、声をひそめた。
「お前……、美味そうな匂いがするな」
「え?」
わたしは驚いて、思わず一歩後ずさった。
「おいしい!? わたし、たべる……? おいしくない! たべるな!」
恐怖と困惑が、頭のなかでぐるぐると渦を巻く。
彼は意地悪そうに笑うわけでもなく、ただ真剣な顔でわたしを見つめている。
どうしてそんなことを言うの……? 問いは声にならず、胸の内で膨らんでいくばかりだった。他の子たちの方が肉付きもよくて、もっと美味しそうに見えるのに。なんで、わたしなんだろう。
その気持ちが顔に出たのか、男はふっと鼻で笑ったように見えた。
「はあ。ガリガリでぼろぼろのお前なんて、食う気しないよ」
そう言いながら、その眼差しはまっすぐ、わたしを離さない。
「その首輪、邪魔そうだな。……取ってやろう。」
男の手が、わたしの首に触れる。
何度引っ張っても外れず、鉄鎖で繋がれてきた首輪。それが――彼の指先に触れた瞬間、かすかな音を立てて崩れ落ちた。
「……えっ!?」
足元に落ちた鉄の残骸を見つめ、わたしは言葉を失う。
今まで、どんなに爪を立てても、泣き叫んでも、外れることのなかったものなのに。
角の男は驚くわたしを見つめて、口の端をかすかに上げた。
「おい、お前の名前は」
「名前……」
名前……。
あった。昔、母がくれた。
でも母が死んでからは、誰も呼ばなかった。呼んでもらえなかった。
それはあっても、意味を持たない音だった。
大切にしまいこんでいた記憶を掘り起こすようにして、わたしは小さく答える。
「――シスル」
男は立ち上がり、わたしの目線より少し高い位置で言った。
「……シスル、か。いい名前だな」
その声音に、からかいも、嘲りもなかった。
ただ、淡々と、けれど確かになにかを確かめるように響く。
名前を呼ばれた瞬間、頬がじんと熱を持ったのを、わたしは必死で隠した。耳まで熱い気がする。
男はわたしを一瞥すると、軽く首を振り、背後に控える魔術師へ短く命じた。
「……おい、こいつを保護してやれ」
その言葉が耳に届いた瞬間、思わず肩がびくりと跳ねた。
ほご? ほごって何? わたしをどうするつもり?
「了解。それじゃあ、早速手配を……」
「いや……。このまま俺は、この国の上層部との会談に行く。だがお前は、一度自国へ戻って、こいつを連れていけ。他の者ではなく、お前がだ」
「……え、僕が? いやいや、僕は君の護衛の仕事が――」
魔術師の人は驚きを隠せない表情を浮かべる。
「お前が連れていってくれ」
「……もう、分かったよ」
わたしは混乱していた。思わず魔術師に尋ねる。
「ほごって、なに……? わたしをどうするの……」
そんな言葉、今まで生きてきて一度も聞いたことがない。わたしを、どうするつもりなんだろう。優しそうに見えて、もっと恐ろしい罠を隠しているのかもしれない。
そう、胸の奥でざわつく不安に、体が小さく縮む。
すると、魔術師は安心させるようににこにこと笑った。
「帰るお家を用意する、ってことだよ。ご飯も、お風呂も、生活のすべてを整えるから安心してね」
「ご飯……食べられる……?」
震える声が漏れる。期待よりも、不安のほうが大きくて、声がかすれてしまう。
「そうだよ。安心した?」
「やっぱり……わたし、食べる?」
食べ物をくれると言われても、頭の奥では“わたしを食べるつもりなんじゃないか”という疑念が離れない。素直に喜べない自分がいる。
「えっ、食べる? どうして!? そんな、食べたりしないよっ!」
部下の人が目を丸くする。けれどわたしは、震える声で続けた。
「豚に餌をやるのは……、食べるため。それくらい、わたしでも知ってる」
今のわたしじゃ痩せてて食べるところがないから、太らせて食べるつもりなのかもしれない。
「ええ、そんなお菓子の家の魔女じゃあるまいし……。ああ、伝わないかな。童話は分かるよね?」
「おかし? おかしは知ってる……どうわもおかし?」
「うーん、そっか……これは前途多難だな」
魔術師は面倒くさそうに頭を掻きながらも、視線はやわらかい。
「とにかく、僕達は君を保護するよ。助けてあげるから、心配しないでね」
本当に、わたしを助けてくれるの? それとも、何か企んでいるの?
生まれてからずっと、誰かに手を出されることはあっても、守られたことなんて一度もなかった。
「そうだ、自己紹介がまだだったね。僕の名前はユグルって言うよ」
「……」
わたしは返事をせず、ちらりと視線を逸らした。少し離れた場所で、部下たちに指示を出している角の男を見る。
「あの人の名前は、アシュレイだよ」
……アシュレイ。声には出さず、口の中でそっと転がす。
どうしてだろう。ただ名前をなぞっただけなのに、落ち着かない。
「アシュレイはね、竜の獣人なんだ。とても強くて、偉い人だよ。……さあ、その人のお屋敷へ行こうか」
促されるまま、わたしは馬車へと連れていかれた。
先ほどまで乗っていた荷馬車のように、ただ荷物のように押し込まれるのではなくて、まるで貴族が乗るような豪華な馬車だった。
「椅子、よごしちゃう……わたし、こんな馬車に乗れない……」
いやいやと頭を振ったけど、なかば無理やり背中を押され、わたしは綺麗な座席に腰を下ろす。ふかふかの手触りにびっくりして、思わず小さく息をのむ。
座面は厚く柔らかく、背もたれに身を預けると、まるで雲の上に座っているかのようだった。
こんな場所に、わたしみたいな奴隷が座っていいのかな。ああ、今はもう奴隷じゃないんだっけ――心の奥で戸惑いと恐怖が入り混じる。
でも同時に、少しだけ心地よい温もりが身体を包むのを感じた。
わたしはいつの間にか目をつぶって、眠っていた。
長い時間、わたしは馬車に揺られ続けた。
揺れに身を任せながらも、視界の端にちらちらと映る景色も頭に入らない。どこに向かっているのか、何が起きているのか、まるで分からなかった。
どうやら、隣国の大きな獣人国へと連れて行かれるようだ。とても遠い場所らしくて、途中で野宿もした。約束通り、食事は用意された。温かいスープにパン。冷たくないご飯を食べるのははじめてで、その美味しさに胸がいっぱいになった。しかもスープには具が入っていて、涙が出てくるほど感動した。
途中、移動門というものを使って、瞬く間に距離を飛ばしたという話も聞こえてきたけれど……わたしには意味が理解できない。いどうもん? ワープ? そんな便利なものが存在するんだ。大きな国はすごいな……と、なかば夢うつつに考えるだけだった。
馬車がようやく止まると、目の前に現れたのは、想像を超えるほど大きな屋敷だった。
壁は高く、屋根は重厚で、木や石で織りなされた威厳ある建築が、わたしの小さな体を圧迫する。
そのあまりの規模に、思わず息をのむ。わたしはただ、馬車から降ろされるのを待つしかなかった。
わたしはそっと肩をすくめ、頭を低くしたまま屋敷の正面に立つ。
足元の石畳が冷たく硬く感じられ、背筋にぞくりとした感覚が走る。長年の恐怖が、まだわたしの身体に深く染み付いているのだ。
胸の奥には、言い知れぬ不安がくすぶる。
ここは本当に“安全な場所”なのだろうか――? それとも、また誰かの手にかかり、殴られたりするのだろうか……。
馬車を降りると、たくさんの人々がわたしの周りを取り囲んだ。
背後には、ユグルが立ち、にこにこした顔でわたしを見守っている。その視線が、どこか安心させるどころか、かえって緊張をつのらせる。
「ただいまー。先触れで伝えた通り、先に帰ってきたよ。んで、この少女は主人の大切なお客様だから、丁重に迎えてあげてねー」
引き締まった声が響くと、周囲の空気が一層張り詰める。
わたしの前に、きびきびとした足取りの女性が進み出た。
「かしこまりました」
背筋をぴんと伸ばしたその人は、落ち着いた声音で告げる。
頭には小さな角と耳。なんの動物の獣人だろう。
「シスル様、私はこの屋敷を預かるメイド長のジェーンと申します」
続いて、彼女の後ろに控えていた少女が、人懐こい気配をまとって一歩前へ出た。大きな耳が頭の上で忙しなく動いている。このメイドはうさぎの獣人…だろうか。
「それから、この子はリリィ。シスル様の身の回りの世話を任せることになります」
「はあい、リリィです。宜しくお願いしますー」
言葉を失ったまま、うつむくわたしに、ジェーンが穏やかだが確固とした口調で言った。
「まずは……身体を清めなくてはいけませんね。今のままでは、とても屋敷には置いておけません」
わたしは言葉を飲み込み、黙って頷くだけだった。
身体をきよめる?
ここで何かされるのではないかと身構える。何かの儀式か、あるいは……料理されたりしないよね?
「どうぞ、こちらへ」
ジェーンが、穏やかな声で促す。
わたしは無意識に足をすくめていたが、背後からユグルに軽く背中を押され、そのまま何処かへ連れていかれる。
「シスルお嬢様、こちらが浴室ですよー」
リリィが扉を開くと、目の前に広がった光景に、わたしは思わず足を止めた。
な、なにこれ……?
石造りの床はつややかに磨かれ、中央には脚のついた大きな桶?のようなものがあった。そこからは白い煙のようなものが立ちのぼっていて、部屋全体がほんのり温かい。鼻をくすぐるのは、どこか甘くて清らかな香り。
「な、なに……? なにするの?」
あまりに理解できない光景に、わたしは口をぱくぱくさせる。
リリィが「ふふっ」と小さく笑った。
「これはお風呂ですよお。身体を洗って綺麗にしましょうね!」
「……おふろ?」
洗う……といえば、川で泥に足を取られながら、震える手で冷たい水をかけることしか知らない。
冬には水面に氷が浮かび、歯が鳴るほど寒さに耐えながら、せいぜい顔や腕をなでるだけだった。
そういえば、大人の奴隷が料理をするとき。まず、泥だらけの野菜を洗っていた気がする……。
「どうぞ、お召し物をお脱ぎください。リリィ、お手伝いして差し上げて」
リリィがわたしの服に手を伸ばした瞬間、わたしは飛び上がるように叫んだ。
「な、なにするの!? いや、やめて!」
必死で服を押さえ、壁際に逃げる。服を脱がされるなんて、罰を受けるときしかなかった。ろくでもない記憶しかない。
「清める」なんて言葉で誤魔化されないんだから。
「ふふっ。大丈夫ですよ、怖がらなくて。お湯に入ると、心も体も温まるんです。気持ちがいいですよー」
リリィがなだめるように声をかけるが、耳に届かない。恐怖が喉を塞ぎ、胸がひゅっと縮まる。それでも彼女たちは容赦なく服をはぎ取り、わたしは悲鳴を上げながら必死に抵抗した。
すると次の瞬間、桶にくまれたお湯をざばっと頭からかけられた。
「――――っ!?!?」
熱い! いや、あったかい!?
思わず飛び跳ね、髪から滴る水滴を振り払う。
「はぁ……これじゃあ、まるで警戒心丸出しの子猫ですね。リリィ、しっかり押さえてください」
「いやぁぁぁぁっ! やめてっ! 料理されるっ! 食べられるっ!」
大暴れで逃げようとするが、メイド二人に両腕を押さえられてしまう。
「意味の分からないことを言ってないで、大人しく湯船に浸かってください」
「いやーっ! いやぁぁぁっ!」
ざぶんっと浴槽とやらに沈められる。
声が浴室に反響し、わたしはまるで獣のように抵抗を続ける。必死に手足をばたつかせれば、浴室中に水しぶきが飛んだ。
「ぎにゃああああああ!!!!!」
その様子にジェーンが深々とため息をついた。
「大丈夫ですよぉ、キレイキレイするだけですからねー」
リリィに言葉をかけられたが、聞いていられない。次の瞬間、メイドの手がごしごしとわたしの腕を擦った。
「な、なにこれ!? 白い……泡……? なにすんのよぉ!」
腕や肩、背中までもがふわふわした白いもので覆われていく。泡立つ音が耳に届き、鼻先に甘いような香りが漂う。
「これは石鹸って言ってね、汚れを落とすものですよぉ。安心してくださいねー」
ばたばたと暴れるわたしをよそに、リリィたちは容赦なく泡を広げ、髪もわしゃわしゃと掻き回していく。
泡が視界を覆い、わたしは必死に口を閉じた。鼻先で弾ける泡がむずむずして、くしゅんと小さなくしゃみが出る。
「おや……。灰色の鼠かと思えば、綺麗なラベンダー色の髪をしてたんですね。栄養が足りてないから乾燥してパサパサしてますけれど……健康になったら、きっと美しい髪になりますよ」
きれい? きれい……わたしが?
やがて、お風呂を終え、体を温かい布で包まれると、リリィたちは丁寧に髪を拭き、着替えの衣服を手渡してくれた。
まだ胸の奥に緊張は残っている。手渡される服の手触り、布の感触ひとつでさえ、心がざわつくのだ。
「こちらでお食事です」
リリィの声に従って、温かい部屋へと案内される。木製のテーブルには、湯気の立つ皿が並んでいた。白く輝くパン、暖かなスープ、香ばしく焼かれたステーキにゆで野菜……。
わたしは思わず息を飲む。こんな、見たこともない立派な食事……本当に食べていいのだろうか。
「……食べていい、の?」
声がかすれてしまう。ジェーンは穏やかに微笑み、うなずいた。
「ええ、どうぞ。安全な食事ですから、ご安心ください」
許可を得ると、わたしは我慢できずに手を伸ばした。
パンをがしっと掴むと、そのまま口元へ運び、頬いっぱいに詰め込む。
噛みしめると、これまで食べてきた固く乾いたパンとはまったく違うことに驚いた。温かく、ふわっとやわらかく、じんわりと甘みが広がる。
あまりの勢いでかぶりついたため、のどに詰まりそうになり、思わずむせ返る。
慌てて、スープの器に口をつけ、一気にごくごくと飲み込むと、のどに引っかかっていたパンもすとんと胃の中に落ち、苦しさは消えた。
口の周りにこぼれたスープを手の甲でぐいっと拭う。
「まあ……」
困ったような声が、そっと周囲から漏れる。
わたしは気にせず、次に皿に盛られた肉を手で掴む。熱さにびっくりして落としそうになり、思わずぎゅっと握り直す。
――こんなに温かくて、柔らかくて、美味しいものがあるなんて!
小さな恐怖と警戒心はまだ残っているけれど、口に広がる味に、わずかに心が揺れる。
わたしはパンと肉を交互に口に運び、目の前の食事に夢中になった。
「お行儀が悪いどころじゃないですね。これじゃあ、まるで野生の獣ね……」
ジェーンがなにか言ってたけど、腹の底から湧き上がる空腹には勝てない。
皿の肉を手に取ると、熱さにびっくりして落としそうになる。慌ててぎゅっと握り直し、ようやく口に運ぶと、柔らかさと肉汁の香りに、思わず目を閉じてしまった。
小さな恐怖と警戒心はまだ胸の奥にある。
食べていても、これで本当に大丈夫なのだろうか。
この温かさは、罠じゃないのか。
けれど、口に広がる味は、確かにわたしを安心させた。
パンの甘み、肉の旨味、スープの温かさ——どれも、これまで知らなかった感覚だ。
わたしはもう一度、パンを頬いっぱいにほおばり、次にスープで流し込む。
そのたびに小さくむせるけれど、少しずつ、体は食べることに慣れていく。
わたしは夢中で食べ続けた。
パンも、肉も、スープも――今まで腹を空かせていた分だけ、全てをからだに取り込むようにして。
けど、満腹になると、力が抜けていくのを感じた。
目の前の世界が少しずつ揺れ、意識がぼんやりとしてくる。食事中だというのに、まぶたが重くなり、こくり、こくりと自然に眠りに落ちていった。
「こんなところで寝ちゃダメですよぉー」
慌てて肩を揺すられるけれど、もう身体は言うことを聞かない。とろとろに溶け切って、まぶたは開きそうになかった。
「あらあら、まだ歯磨きもまだなのに……。仕方ないわね」
呆れた声と共に、ふわりと腕で抱え上げられる。
わたしは抵抗する力もなく、ただ抱えられたまま安心感に包まれた。
手足の力を抜き、彼女に委ねる。いつも感じたことのない、温かさと柔らかさ。
しばらく揺らされると、ぽすり、と柔らかな地面に落とされた。
頬に触れるふかふかの温かさ、身体が沈んでいく感触――それは、長い間味わったことのない安心そのものだった。
……まるで、お母さんの腕の中みたい。
「この野良猫を躾けなければならないのですか」
「うん、お願い。立派なレディにしてあげて」
「……相当な手間になりますよ。本当に必要なのでしょうか」
「……必要だよ。――ようやく見つけた、アシュレイの番かもしれないんだからね」
ジェーンと、ユグルが何やら会話を交わしている。声は聞こえるけど、会話の内容までは分からない。
心はまだ警戒しているけれど、それでも布団の暖かさに、体は自然と重さを任せていく。
深い眠気が意識を完全に包み込む。ふかふかの布団、温かい手のぬくもり、満腹の余韻……それらに身を委ねながら、わたしは、長い夢の中へと静かに沈んでいった。





