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竜人に拾われた奴隷は運命の番でした ~最強種に溺愛されて一人前の淑女になるまで~  作者: 冬月子@書籍化決定!悪役令嬢のダイエット革命5/1発売


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2/2

後編

なんだか、楽しい夢を見た気がする。

生まれてはじめてのことだった。


気がつけば、部屋は朝の光に満ちていた。窓から差し込むやわらかな陽が、白い天井を淡く照らしている。

ふかふかの布団に包まれたまま、わたしはぼんやりとそれを見上げた。ふあ、と小さなあくびがこぼれる。


昨夜の恐怖と警戒心はまだ少し残っている。けれどはじめて、ぐっすり眠れるという感覚を体中で味わった。わたしはもう一度、シーツにくるまって目を閉じた。

ふかふかの布団と、明るい朝の光。

これが、みんなの言う“しあわせ”というものなのかもしれない。


「シスル様、お目覚めですかあ? お部屋に入ってもよろしいでしょうかー?」


扉の向こうから弾んだ声が聞こえた。

その声に、わたしははっと目を開ける。まだ夢の余韻に包まれているようで、現実との境が曖昧だった。シーツの中で小さく息を吸い、慎重に体を起こす。


「……う、うん。はいって、だいじょぶ」


小さな声で返事をして、そっとベッドから抜け出した。足の裏に広がる毛の長いの絨毯の感触が、冷たさや硬さを知らない安心感をくれる。

扉が開き、昨日知り合ったメイドのリリィが部屋へ入ってきた。


「おはようございまーす。体調はいかがですかあ?」


「……ん、へいき」


わたしはまだ眠気混じりに答える。


「それはなにより! まずは、お顔を洗いましょうねー」


リリィはにっこりと微笑んで、水の張った桶を用意してくれる。

両手ですくった水をパシャ、パシャと顔に当てると、ひんやりとした感触が眠気を一気に吹き飛ばした。


「ふぅ……」


「さっぱりしましたねー。それじゃ、お着替えしましょお」


顔を洗うと、次は着替えだ。身にまとっていた服を丁寧に脱がされ、新しい服を着せられていく。脱がされることに抵抗はあったけれど、大人しくしていた。まだ十分に切れそうな、ほつれ一つない服なのに。なぜ、わざわざ着替える必要があるんだろう。首を傾げた、そのとき。上から声が振ってくる。


「それでは、朝ごはんにいたしましょうー」


リリィが微笑みながら声をかけ、わたしをダイニングルームへと案内する。

テーブルには、まだ湯気の立つ温かな料理が並んでいた。ふっくらと焼き上がったオムレツに、香ばしいウインナー。みずみずしくシャキシャキした野菜。具がいっぱいのスープに、それに果物まで!

どれもこれも美味しそうで、唾液が口のなかに溢れてくる。そこにはメイド長・ジェーンの姿もあった。


「……おいしそう」


机の上に並ぶ料理を見つめ、つい、ごくりと喉を鳴らした。

促されるまま、わたしは椅子に座った。


心の奥に張り付いた疑念は、まだ完全にはぬぐえない。――肥え太らせるため、食べ物を与えているのではないか。そんな不穏な考えは、消えずに残っている。

それでも、腹の奥をきりきりと締め付ける飢えの方がはるかに勝っていた。

指先が勝手に伸び、まだ温かい塊を鷲掴みにする。


――その瞬間。


ぴしゃりっ!


鋭い音と共に、甲を叩かれた。驚きのあまり、掴んでいたウインナーを取り落してしまった。ころころと転がっていくウインナー。

はっとして振り向けば、そこには冷ややかな表情のジェーンが立っていた。


「お行儀が悪い。ここでは獣のように食べてはいけません。ちゃんとフォークとナイフを使いなさい」


その声音は怒鳴りつけるものではなかったが、冷たい水を被らせられたように容赦がない。

わたしは手を引っ込め、赤くなった手を胸元へ引き寄せた。


「ふぉーくと、ないふ?」


「はあ、そこからですか……皿の横に置いてあるでしょう?」


そう言われて、わたしは机を見た。

確かに皿の両脇に、細く光る刃と、先が割れている金属の道具が並んでいた。


「左手でフォーク、右手でナイフを。ウインナーを押さえて、一口サイズに切ってから口に運ぶのですよ。淑女が大口を開けてはいけません」


彼女は手本を示すように、フォークとナイフを手に取った。

その手元の動きは流れるように滑らかで、小さな銀の刃が光を受けてきらりときらめく。刃先が肉の表面をすっとなぞると、音も立てず切り分けられていった。


「理解出来ましたか? それでは、実際にやってみましょう」


わたしはフォークを無理やり握らされた。


「いやっ!」


けれど、次の瞬間、手の中のフォークを放り投げていた。銀の音が甲高く響き、わたしは皿に手を伸ばす。ウインナーを指で掴み、口に運ぶ。いつも通り、フォークもスプーンも使わずに。


――ぴしゃり。


乾いた音と共に、ふたたび甲の上に小さな衝撃が走る。ウィンナーは口に入らず、床に転がった。反射的「うーっ」と喉を鳴らし、思わずジェーンを睨みつけた。


「なにするのっ!」


「行儀が悪いと何度言ったら分かるんですか!」


冷たい声音が、心の奥を突き刺す。

わたしは負けずに言い返した。


「……ぎょうぎわるいって、なに? 意味、わかんない! 昨夜までは好きに食べさせてくれたのに……、やっぱりここでも命令するのっ? わたしは今までこうやって食べてきたの。好きに食べさせてっ!」


ジェーンの眉がぴくりと動いた。


「……。……あなたがどんな場所で育ったかは存じません」


けれど彼女は怒鳴らなかった。ただ、ゆっくりと息を吸い込み、静かに吐き出す。


「ですが、貴方がここで世話になる以上、マナーは身につけていただきます」


「なんでそんなことをしなきゃならないの!」


わめくわたしに諭すようにジェーンが言う。


「良いですか。食事のマナーとは、相手に敬意を示すためのもの。食材を育て、用意してくれた人に感謝を示し、そして今こうして同じ席で食事をともにする相手に、心を込めて敬意を払う――それが“作法”というものなのです」


マナー? けいい? かんしゃ? そんなこと言われても、わたしには分からない。

どうして、窮屈な思いをしてご飯を食べなきゃならないの……。ここでは、好きにしていいのだと思ったのに、違ったの?

信用していたわけではないのに、胸の奥に広がったのは、裏切られたような感覚だった。行き場のない不満が、顔ににじんでいたのだろう。ジェーンはわたしの表情を静かに見つめて、深いため息をついた。


「……今はまだ、その意味が分からなくても結構。形だけでも、まずは真似をしてください」


彼女はわたしの手を取って、フォークを握らせる。次に、ナイフを添えた。


「こう、押さえて……そう。切って……はい、これで食べられるでしょう?」


「やだ、わかんない!」


口をとがらせ、耳まで真っ赤になって身をよじる。だが、ジェーンは一切動じない。繰り返し、辛抱強く、何度でもわたしの手を導いた。


「いやっ!」


フォークを放して手を伸ばすたびにぴしゃり、ぴしゃりと叩かれて、わたしはついに椅子の上でふてくされた。


「うぅー……!」


喉の奥で小さく唸り、膝を抱え込むように丸くなって、猫のように背中を丸める。

それでも目の前の皿からは、香ばしい匂いがふわりと立ちのぼって、わたしの鼻をくすぐって誘惑してくる。


ぐぅうう……!

お腹が切なげに鳴り響く。わたしの中で、空腹と意地がせめぎ合う。


「うぅっ、ひっく……しょおがない……」


このままではお腹が空きすぎて死んでしまう……!

わたしは観念して、フォークとナイフを握りなおした。ぎこちなく刃を押し当てると、ギィと不愉快な音を立てながら肉が切れる。切り分けた小さなひとかけらを、ゆっくりと口に運ぶ。


「……っ」


その瞬間、唇がとろけるようにほころんだ。

ジェーンの目元がわずかに緩んだのを見て、なんだか悔しくなったけど、お腹はすっかり正直者になっていて、もっともっとと急かす。

わたしはふたたびフォークを握り、ステーキを切り分けた。


――こうして、食事をするたびに、わたしはマナーを学びながら食べるようになった。

ジェーンが言うには、まだマナーと呼べるほどのものではない作法らしいけれど。


フォークとナイフの持ち方を教えられ、肉や魚を切って口に運ぶ。手や指で直接つかむことは許されない。

それは、とても窮屈だった。つい我慢できずにフォークを投げ飛ばしたくなることもあったけど、そのたびにジェーンにきつく叱られ、泣きながら、言われた通りに食べるしかなかった。


食事のマナーと同時に、わたしは“文字”というものも教えられるようになった。


朝ご飯を食べ終えると、今度は別室に連れていかれる。

その部屋には小さな机と椅子が並べられていた。木の机の上には白い紙、そして立派な羽と黒い液体で満たされた小さな壺。見慣れない道具たちを前に、わたしは思わず首をかしげた。


「今日から、文字の読み書きを覚えましょう」


ジェーンはそう言って、椅子を引き、わたしを座らせた。

羽の先を黒い液体につけて、紙の上に線を引いていく。これは羽ペンとインクといって、文字を書くための道具らしい。


「これは“A”。こちらは“B”。――公共語の最初の文字になります」


ペン先が走るたびに、かすかにインクの匂いが漂う。

黒い線が形を結んでいく様子を、わたしはぽかんと見つめた。それが「文字」だと説明されても、良く分からなかった。


「さあ、シスル様も書いてみましょうか」


叱られるのは嫌だから、言われるままに机に座り、羽ペンを握る。

でも、やる気なんて、まったくない。どうせまた、食事の時みたいに変な決まり事を押しつけられるんだ。

けど、逆らえば叩かれる。だから、言われた通りにするしかない。


「シスル様、これが“A”です。同じように書いてみてください」


「……わかった」


生返事をして、見様見真似でペンを動かす。

けれど、描かれた線はぐにゃぐにゃに曲がり、形にもならなかった。ジェーンの書いた文字と並べてみると、その差は一目瞭然だ。

気づけば、指も紙も真っ黒になっていた。


ジェーンはわずかに眉をしかめたけど、叱りはしなかった。わたしが大人しく言う事を聞いてるからだろう。


「……羽ペンの使い方も練習しないといけませんね。まあ、それは文字と一緒に覚えていきましょう。次はこの文字を――」


わたしは言われた通り、次々と文字を書いていった。

けれど、頭の中には何一つ残らない。奴隷だった時と同じ、何も考えずに命令に従ってるだけだ。


そして授業の終わり。

「では、覚えられたか確認してみましょう。まずは“A”から――」とジェーンに言われても、わたしの手はぴくりとも動かなかった。

ずっと、紙は白いまま。

だって、最初から覚える気なんて、なかったのだから。見本なしでは一文字も書けはしない。


それは何度も授業を受けても一緒だった。

ジェーンは、わたしが何度同じ間違いをしても、根気強く教えつづけた。

けれど、やがてその忍耐にも限界が来たのだろう。

ある朝、わたしの書いた文字を見つめながら、眉間を押さえ、深いため息をついた。


「……シスル様。どうして、こうも覚えられないのですか」


声は叱責ではなく、困惑そのものだった。彼女は何度も首を振り、黒板の前で頭を抱えた。

わたしはただ、膝の上で両手を組み、俯いたまま黙っていた。怒られるのは嫌。叩かれるのは、もっと嫌。でも、やる気も出ない。そんな曖昧な気持ちのまま、日々は過ぎていった。


食事のマナー。文字の授業。意味もわからぬまま、同じことを繰り返す毎日。

朝に顔を洗い、昼に食べ、夜に寝る――それだけがわたしの日常になっていた。

叱られたり、たまに叩かれたりするけれど、おいしいご飯はもらえるし、奴隷だった頃の暮らしに比べたらずっとマシだった。


けれど、ある日。

その退屈な日々に、少しだけ違う風が吹いた。


「シスル様、今日はご主人様とご朝食ですよ。いつもより丁寧に身なりを整えましょう」


そう言った、ジェーンの声はいつもより少しだけ張りつめていた。

その一言に、空気がぴんと張り詰める。

屋敷のどこかで扉が開き、遠くで誰かが駆け足で廊下を渡る音がした。


……“ごしゅじん”って、わたしの首輪を外してくれた人だよね。

アシュレイが帰ってくる――。

この屋敷はアシュレイのものなのに、仕事で長く国外に出ていてずっと不在だった。会うのは、あの時以来。はじめて出会ったあの日ぶりだ。

胸の奥がざわつく。痛いわけでも、苦しいわけでもない。ただ、知らない感情がくすぶっていた。


ジェーンに手を取られ、鏡の前に立つ。

細い櫛で丁寧にとかされるたび、さらさらとした音が耳に心地よく響く。

リボンで髪をまとめられ、明るいエメラルドグリーンのドレスに着替えさせられる。

布の感触がくすぐったくて、思わず肩をすくめた。


「……まあ、見た目はだいぶマシになりましたね」


その声音は、皮肉でも冷笑でもなかった。

ただ、ほんの少し驚いたような響きを含んでいた。


鏡の中には、見知らぬ少女が立っていた。

かつて泥と埃にまみれていた小さな奴隷の姿は、はどこにもなかった。

頬は柔らかく、子供らしい丸みを取り戻している。薄紫色の髪もつややかに光り、目の下の影もすっかり消えていた。いつの間にか、頬にほんのり血色が差していた。

鏡越しに、ジェーンが満足げに目を細めている。


「さあ、参りましょう。アシュレイ様が待ってますよ」


ジェーンに手を引かれ、食堂へ向かう。

主の帰還に、屋敷全体がざわめいていた。磨かれた床を踏みしめる靴音、銀器の触れ合う澄んだ音、給仕たちの押し殺した声が重なり合って、いつもよりも少しだけ屋敷のなかが騒がしい。


食堂に着くと、アシュレイはすでに席に座っていた。

朝の光が高い窓から差し込み、金色の縁を描く。その光の中で、アシュレイはゆっくりと顔を上げた。


「シスル。……元気そうだな」


落ち着いた声が響いた。それだけで、心臓がきゅっと縮む。

どう返せばいいのかわからず、喉が少し乾いた。


「……はい」


やっとの思いで答えると、アシュレイは柔らかく目を細めた。


「随分と血色も良くなったな。……安心した」


その言葉が、胸の奥にじんわりと広がる。

なにを安心しているのか、どうしてそんな顔をするのか――わたしには分からなかった。

ただ、見慣れない優しい表情に、心がそわそわと落ち着かなくなる。


「お腹が空いているだろう? 朝食を食べよう。さあ、座りなさい」


促されて、わたしはぎこちなく頷く。

長いテーブルの上には、湯気の立つスープと焼きたてのパン、香ばしく焼かれた肉と色鮮やかな果実が並んでいる。

美味しそうな臭いが鼻をくすぐり、思わず喉が鳴りそうになった。


――同じテーブルで誰かと一緒に食べるなんて、はじめてだ。


ジェーンが引いた椅子に、背筋を伸ばして腰を下ろした。

その向かいで、アシュレイが優雅に食事を始める。

口元へと運ぶ動作、手を置く位置、背筋の角度、視線の向け方。どれを取っても洗練されていて、ひとつの無駄もない。フォークとナイフを持つ指の先まで完璧で、わたしは息を詰めて、その所作の一つひとつを目で追ってしまう。


わたしはというと、ジェーンに何度も叩き込まれた作法の通りにしようとするけれど、ちっとも上手くいかない。相変わらずナイフを引くときには不愉快な音を立ててしまうし、スプーンからスープを零してしまう。アシュレイと並ぶと、わたしの所作なんて見ていられないほど不格好だった。

これまで他人からどう見えるかなんて気にしたことはなかったのに、今になってジェーンが「まるで獣のよう」と言ってた意味がようやく分かった。


――その瞬間。


「あ……っ」


ナイフが手から滑り、床に落ちて甲高い音を立てた。

ああ、やってしまった。背筋が凍る。けれど、叱咤の言葉が飛んでくると身構えたわたしに、アシュレイはただ静かに微笑んでいた。行儀の悪さに眉をしかめたりせず、穏やかに見守っているだけだった。

そのまなざしに、頬を熱くなるのを感じた。


「フォークとナイフを使って食べるのはまだ難しいか? どれ、食べさせてあげようか」


アシュレイがやわらかな声でそう言った。


「アシュレイ様。甘やかすのはお止めください。マナーを習得出来ず困るのはこの子です」


ジェーンが呆れたように言う。その声音には、なかば諦めのような色も混じっていた。


「だが、人の子は俺達より早熟だと聞いている。シスルは竜人に換算すればまだまだ赤ん坊くらいの年頃だろう」


「……たべれる。わたしひとりで、ちゃんと……できる」


ああ、わたし赤ん坊扱いされているんだ。

顔は真っ赤のまま、手の震えが止まらない。これが「恥ずかしい」という感情なのだと知るのは、もう少し後の事だった。


「そうか、ひとりで食べれて偉いな」


アシュレイが熱心に見つめてくるなか、わたしは食事を続けた。

なんとか食べ終えると、ジェーンが食後のお茶を淹れてくれる。立ちのぼる香りが、緊張でこわばっていた身体をほぐしてくれた。


「ここでの暮らしに不便はないか?」


アシュレイはカップを手に取りながら、問いかけてくる。

わたしは一瞬迷って、小さく首を振る。


「……ない」


「なら、良かった。マナーの勉強は頑張ってるようだが、他はどうだ?」


「……」


わたしは答えられずに黙ってしまった。

食事のマナーはまだまだだし、文字の勉強なんて何度やっても頭に入らない。

なんにも、うまくできていない。一生懸命に頑張っていると答えれば、嘘になる。


「全然駄目ですよ。そもそもこの子、やる気がないんです。一切覚える気がありません」


「……!」


わたしは思わず、ジェーンをにらみつけた。

だが彼女は眉一つ動かさず、涼やかにこちらを見返すだけだった。


「そうなのか? ……勉強はきらいか?」


アシュレイが少しだけ目を細める。その声に、わたしは視線を逸らした。


「……いや。すきじゃない」


「そうか」


言葉の間に、静かな沈黙が落ちる。

わたしは言葉を選びながらゆっくりと口を開いた。


「なんで、べんきょしないとダメなの……わかんない……」


アシュレイは少しだけ目を伏せ、やがて立ち上がった。


「そうか、成程な。学ぶ必要性が分からないまま、勉強するのは難しいな」


その声は、叱るでも慰めるでもなく、わたしの言葉をまっすぐに受け止めてくれているようだった。

彼の穏やかな金色の瞳が、まっすぐにわたしを映す。


「よし、今から一緒に庭を散歩しよう」


アシュレイはすっと席を離れて、わたしのそばまで歩み寄った。

大きな手のひらが差し出される。


「おいで、シスル」


その言葉と同時に、ためらう間もなく身体が宙に浮いた。

彼の腕に軽々と抱き上げられて、思わず小さく息を呑む。驚くほど近い距離から伝わる体温と鼓動。

それは不思議なほどに安心する音だった。


「わ、わたし、ひとりであるけるっ!」


「うん? でも、俺がお前を運びたいんだ。だから、このままで庭園まで行かせておくれ」


助けを求めるようにジェーンを見ると、彼女は苦笑して首を振るだけだった。


「庭園にはもう行ったか?」


「ちょっとだけ……ジェーンが、さんぽにって……」


「そうか。たまには外に出ないと身体に悪いからな」


屋敷の外に出ると、朝の光が目に居たいほど眩しかった。

庭には露を含んだ花々が咲き誇り、石畳の道に朝靄が薄く漂っている。鳥のさえずりが響き、風が草の香りを運んでいった。


アシュレイの腕の中で、わたしは息をひそめてその景色を見つめた。

広い庭園の中を、彼はなにかを探すようにゆっくりと歩いていく。

やがて、色鮮やかな花の群れの前で足を止めた。


「あの花の名を知っているかい?」


アシュレイの指先が示したのは、咲き誇る花ではなかった。石畳の端に咲いた、小さな紫の花。

誰にも見向きもされず、けれど確かにそこに根を張り、花を咲かせていた。

わたしは首を横に振った。


「あの花はシスルという」


わたしは目を丸くして、彼を見上げた。


「シスル! 名前、いっしょ!」


「そうだ、同じだな」


アシュレイは穏やかに笑いながら、小さな花に視線を戻す。

朝の光が彼の横顔を照らし、その微笑みはまるで春の陽射しのようにやわらかかった。


「なんで、いっしょ?」


わたしが小首をかしげると、アシュレイはすこし遠くを見るような目で答える。


「きっと――お前の母親は、あの花から名をとったのだろう」


「もっと、ちかくで見てみたい」と言うと、アシュレイはゆっくりと地面に降ろしてくれた。

わたしは道端に咲くその花の前でしゃがみ込んだ。


「シスルはこの国では“あざみ”と呼ぶ。その花言葉は、高潔だ」


小さな手で茎をそっと撫でる。淡い紫の花びらが、陽の光に透けてきらきらと輝く。風に揺れるたびに、ふわりと甘い香りが漂った。


「……こう、けつ?」


「心がけ高く、清らかなこと……」


アシュレイの言う言葉は難しく、わたしはむっと眉をしかめた。意味がすぐには理解できない。


「分からないか……うーむ。つまり、立派な人のことだな」


「りっぱな、ひと……」


わたしはその言葉を舌の上でゆっくり転がしながら、目の前の小さな花を見つめた。


「きっと、奴隷であっても、誇りをもって生きてほしくて、この名前をつけたんだろう……」


胸の奥に、じんわりと温かいものが広がる。

母親の顔はほとんど覚えていないけれど、わたしに“ほこり”を託してくれたのだと、ふと思い知らされる。知らぬ間に、目の端がじわりと潤んだ。


「……さあ、今だけで知らない言葉を、お前はいくつも学んだな」


アシュレイの声は風のように穏やかで、それでいてどこか誇らしげだった。わたしは涙を拭いながら、ぱちりと瞬きをした。


「学んだ?」


「そうだ。花の名前、花言葉、“高潔”という意味。ほんの少しの間に、いくつもの新しい言葉を覚えた。これが学ぶということだ」


アシュレイはわたしの頭に大きな手を置き、優しく撫でる。手のひらの温かい温度が伝わり、胸の奥の不安を少しずつ溶かしていくようだった。


「……シスル」


アシュレイはわたしの名前を、まるで大切な宝物を呼ぶように静かに口にした。

揺るがぬ強さと包み込むような温もりが、その声には宿っていて、思わず顔を上げてしまう。


「お前はもう奴隷じゃない。鎖も檻も、今はない。お前は自由だ」


その言葉に、からだがふるりと揺れる。

自由――その響きは、やっぱりどこか遠くの知らない国の言葉みたいで、現実味がなかった。

アシュレイは、わたしの小さな肩に手を置いて、さらに続ける。


「自由だからには、選ばなければならない。どこに行くのか、何をするのか、誰と生きるのか。すべてを決めるのはお前自身だ」


わたしは無意識に唇を噛んだ。選ぶ?

そんなこと、したことがない。誰かに命令されることしか、知らない。

アシュレイは、その迷いを見透かしたように、低く穏やかな声で告げた。


「だからこそ、お前は学ばなければならない」


「……べんきょう……」


「良いか、シスル。これからは、誰かに言われたことをやるだけじゃなくて、自分で決めていくんだ。

どこに行くのか、何をするのか、誰と生きるのか――全部、自分で選ばないといけない。


でもね、選ぶっていうのは、ただ指さして“これがいい”“これはいやだ”って言うだけじゃないんだ。

この世界にはいろんな場所がある。

山のある国、海のある町、たくさんの人が暮らす街、静かな村。

いろんな仕事があって、いろんな生き方がある。

どんな人と一緒にいるかで、見える景色も、心の感じ方も変わってくる。


それを知らなければ、どこが好きか、何がいいかか分からない。

知らなければ、誰かに言われるままに流されて生きるしかない。

だから学ぶんだよ。学ぶことで、世界がどんな形をしているのか、どんな道があるのか、どんな生き方ができるのかを知るんだ。


そうすれば、お前は自分で“ここに行きたい”“こう生きたい”って選べるようになる。

それが“自由”と言うことなんだよ」


「ここに行きたい、こう生きたい……」


その言葉を、わたしは小さく口の中で転がした。

けれど、“行きたい場所”も、“なりたい自分”も、思い浮かばない。

なにせ今まで、命じられるままに生きてきたのだから。


アシュレイはそんなわたしを見つめ、静かに問いかけた。


「今のシスルに分かるか?」


わたしは、ゆっくりと首を横に振った。


「そうだな」


彼は目を細め、穏やかな声で続けた。


「自由になったシスルには、自分で選べる力が必要なんだよ。学ぶことは、その力を育てるためなんだ」


彼の言葉が、からだの内側にゆっくりと沈んでいく。


――自由。

そうか、わたしはもう、奴隷じゃない。

これからは、自分で選んで生きていかないといけないんだ。

そのことを、今更、実感した。


「分かったなら勉強してくれるな?」


こくりと頷いた。


「……分かった。べんきょう、する。」


小さな声が漏れた。自分でも驚くほど、自然に出た言葉だった。


アシュレイはかすかに口元を緩め、そしてわたしの頭にそっと手を置く。

暖かく大きな手に触れられ、心臓が一瞬だけ跳ねた。まるで、自分という存在が確かにここにあって、守られていいものだと認められたような、そんな気持ちになる。


「シスル……お前は、これから自分の誇りを持って生きていくんだぞ」


その言葉に、わたしは瞼を落とす。

胸の奥に湧いた小さな光を、逃さないようにぎゅっと抱きしめた。長い間忘れていた、ほんの少しの安心感。名前に込められた意味と、そして目の前の彼の言葉が、わたしに新しい世界への扉をそっと開いてくれたようだった。


風に揺れる紫の花びらは、陽の光を受けてきらめき、まるでわたしの内に灯った希望を映すかのように輝いていた。


***


――あの日。

初めて彼女と出会ったときに嗅いだ香り、その時に感じた飢えは、今なお心から消えない。


シスルとの出会いは鮮明に覚えている。

それは人間どもとの会合に向かっている途中のことだった。

俺は、街道で奴隷商人の馬車を見つけた。


助け出した檻の中には、痩せこけた女子供の奴隷たち。

その中で、5歳ほどの小さな人間の娘の目がひときわ俺の視線を引いた。髪は泥と血で固まり、頬はこけ、手足は骨のように細い。赤い瞳には光が宿っていない。生きることを諦めた瞳だ。

にもかかわらず――


ふわりと、甘い匂いがした。


……なんだ、これは。


獣人の嗅覚は人間の何倍も鋭い。腐敗も恐怖も、血の匂いも嗅ぎ慣れている。だが、これはそれらとはまるで違った。

花蜜のようでも、熟れた果実のようでもあるのに、そのどちらとも違う。……もっと濃厚で、甘く、体の内側を焦がすような香り。


あたたかく、やさしく、それでいてどこか不安定で。その匂いは、弱さと危うさ孕んでいた。

嗅いだ瞬間、喉の奥が鳴った。美味しそう――などという言葉が頭をよぎり、自分で驚く。


まるで、本能が何かを訴えているようだった。

近づけば近づくほど濃くなり、じわりと神経に絡みついてくる。


「……お前、名は?」


子供はうっすらと目を開け、唇を震わせた。

赤色の瞳が、まるで霧のように揺れている。


「……シスル」


そのか細い声に、胸の奥が締め付けられた。

何かが――理性とは別の何かが、俺の中で囁いた。


この子を離すな。


そんな言葉に似た衝動が、心の奥底から立ち上がる。

俺は立ち上がり、部下に命じた。


「……おい、こいつを保護してやれ」


自分の事なのに理由もわからず、あの子を放っておくことができなかった。


──数週間後。

会談を終え、条約を結び直して帰国した俺を、屋敷の玄関でユグルが出迎えた。彼は、俺の友人であると同時に専属護衛を務める、魔術師でもあった。

夜明け前の薄明かりが、白い石畳に淡く射し込んでいる。

ユグルは背筋を正し、いつも通りの穏やかな声で言った。


「おかえり、アシュレイ」


「……あの子はどうしている」


口をついた言葉は、我ながら唐突だった。

だが、聞かずにはいられなかった。あの子の瞳が、ずっと頭の片隅に居座っている。


「シスルだったら、つつがなく過ごしてるようだよ」


「……そうか」


短く応じたあと、わずかな沈黙が落ちる。

ユグルは思案するように視線を彷徨わせ、それから顔を上げた。


「ねえ、アシュレイ。ひとつ、訊いてもいいかな」


「なんだ」


俺の声に、ユグルはわずかに息を整え、慎重に言葉を選んだ。


「シスルは……もしかして、君にとっての“運命のつがい”なんじゃない?」


「――は?」


その言葉を理解するまでに、数秒かかった。

静まり返った廊下の空気が、まるで凍りついたようだった。


“運命のつがい”。

竜にとってそれは、血よりも強く、命よりも重い絆。

互いを引き寄せ、拒めば狂気に陥るほどの絶対的な相手。


思考が鈍くなる。

そんなこと、あり得るはずがない。


「馬鹿馬鹿しい。あのぼろぼろの人間が? まだ年端もいかぬ子供だぞ?」


吐き捨てるように言いながらも、自分の声がわずかに震えていることに気づいた。

ユグルは表情を変えぬまま、しかし静かに告げた。


「だけど……アシュレイが人間の奴隷を拾うなんて、それ以外に理由が考えらないよ」


ユグルの声は静かだったが、どこか確信めいていた。


俺は何も返せず、ただ舌打ちをした。

だが、心の奥では――その言葉が、何度もこだました。


まさか、あの子が……俺の“つがい”?


馬鹿げている。あり得ない。

けれど、あの匂いを思い出すと、胸の奥が妙に熱くなる。

心臓が、獣のように暴れ出す。


どうしてだ? なぜ、あの子のことがこんなにも気になる?


その答えが出ないまま、夜は更けていった。

朝の光が、屋敷の大きな窓から静かに差し込む。


そして、朝食の席で――

彼女はメイド長のジェーンに連れられ、ゆっくりと現れた。


「おかえりなさいませ、ご主人様。さあ、シスル様、ご挨拶するのですよ」


「ん……おはよございます」


久しぶりに会うシスルは、以前のように骨と皮ばかりの痩せ衰えた姿ではなかった。

かすかに丸みを帯びた体つきに、柔らかくふっくらとした頬。子供らしい愛らしさが、光に透けるように感じられる。


「……おはよう」


朝の光がカーテンの隙間から差し込み、シスルの髪を淡く照らした。

淡紫の髪が陽を受けてきらめき、ふわりと漂う香りが――あの日の記憶を呼び覚ます。

初めて出会ったあの瞬間。

血と土の匂いにまぎれて、それでも確かに香った、あの甘い匂い。

けれど今、漂うそれは――もっと深く、もっと強く、心を掴んで離さない。


一生懸命に食事をしている姿も、頬をふくらませている顔も。なぜだろう、見ているだけで、胸が締めつけられるほど愛おしい。もし許されるのなら、雛を育てる親鳥のように、その小さな口に料理を運んでやりたい。

惜しみなく愛を注ぎ、守り、満たしてやりたいと思った。


誰かの世話をしたいなど、これまで一度たりとも思ったことはなかったのに。

この感情は、紛れもなく初めてのものだった。


けれど人間は、番の絆が他の種族よりも薄いという。

この子もきっと、「運命のつがい」というものを理解していない。


――だからこそ、いつか知ってほしいと思った。


この世界を見て、感じて、学んで、

その果てに、もし俺を選んでくれたなら。


シスルを壊れ物のように腕に抱えながら思う。


その時こそ、すべてを懸けてこの子を幸せにしよう。

この小さな命が、二度と怯えずに済むように。自分の価値を疑わずにいられるように。


この小さくて可憐な紫色の花を――守り、愛し、咲かせ続けたい、と。


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運命の番って、ロマンチックですよね。唯一無二の存在って惹かれます。それから、身分差×歳の差×種族差も大好きでして……もしも需要があれば続きも書いてみたいですね。シスルの幼い感じ、ちゃんと書けてたらいいな。


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