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第九話 湯けむり



そろそろ、日が陰ってくる。

計画的に作られた町は碁盤の目のように整然と区画され、灰色の舗装路が無機質に延びている。建物はどれも機能性を重視した無骨な造りで、厚さ10㎝はあろうかという外壁が、小さな窓の外側に張り出しているせいで、窓がまるで壁に空いた穴のように見える。おもちゃのような直線的なデザインだった。そこには、錆びとすすけがあちこちに見られる。

そんな町並みに似つかわしくないものがあちこちに存在していた。


それが温泉だった。


この町では、主な熱源はパイプラインで泉源から運ばれてきた温泉だ。

いたるところに湯煙が立ち込めている。

たとえば、足湯のように浅い温泉が道路の脇をゆっくりと流れている。これは暖房として少しでも家の前を温めるとか、寒い日にちょっと手足を温めるとか、そういう用途に使うのだという。建物の暖房もまた、温泉の熱を利用している。

どの建物にも1つは温泉を利用した風呂がある。露天風呂として整備されているものもあれば、室内のお風呂に温泉を使うところもある。こうした管理された温泉だけではない。

パイプラインの漏れから生じた、熱い水溜まりもあった。

建物の裏手には、岩場の隙間から蒸気が立ち上り、白く変色した湯の華――バクテリアマットかもしれない――と青緑色の藻類が地面を彩っていた。

狙うとしたら、こういう野良温泉だ。

何かがありそうな気配がプンプンする。

ただ、以前の旅では、宿の温泉でそんなものを見たかもしれない、とアリアが言うので、まずそちらを見ることにしよう。


粉雪が舞っていた午前中から比べると、だいぶ気温が上がっていた。

それでも外は気温10度と、かなり肌寒い。

殺風景な町の中、宿もまた例外なく、他の建物とほとんど同じ工法で建てられた規格品だった。しかし、さすがに温泉宿としての体裁を保ちたかったのか、"庭"には竹の代わりにCalamitesの樹皮を立てて周囲を囲った、少しは見た目に気を配った露天風呂があった。

——とはいえど、形だけまねしたようで、隙間だらけだ。

ほかの建物の風呂といえば、外に解放された四角い水溜まりか、プライバシーがあっても便所と見まがうばかりのセンスのなさである。

どうもこのあたりでは、風呂に入るときに身を隠したり、室内で風呂に入る習慣が、ろくにないらしい。


「お湯、お借りしていいかしら?」

リリィは宿の主人に声をかけた。

主人はカウンターの奥でタブレット端末をいじっていた。画面にはニュースのようなものが映っているが、時折指を動かしていることからするに、ゲームかなにかかもしれない。

彼はちらりとリリィを見たが、面倒ごとを嫌がるようにわずかに眉をひそめたが、すぐに無表情に戻った。「いつでも好きに使っとくれ。」とだけ言った。

それ以上、何か言葉を交わすつもりもないらしい。

「それくらいの方が長く入れていいわ」

アリアは笑ったが、主人は適当に頷くだけだった。

リリィが横で肩をすくめる。

この町の閉そく感は、こういうところにも表れている。誰もが必要最低限のことしかしない。サービス業でありながら、もてなす気などこれっぽっちも感じられない。

だが、それでも——彼はまだ"マシなほう"なのだ。

カウンターには埃っぽい雑誌が放置され、飲みかけのコーヒーのカップが置かれたままではあるが、それでも床は清潔に保たれているし、客室も最低限の片付けはされている。宿として必要な清潔さは、なんとか維持されているのだ。

それが、この町ではどれほど珍しいことか。


更衣室の隅に、煤けた作業着が無造作にかけられていた。

その下に置かれた端末が、淡く作業ログの通知を光らせている。

アリアは一瞬、戸口で立ち止まった。


「いるんだ?」


「いるわね」と、リリィが何でもないように答える。「この宿にしては珍しいけど」


宇宙港からこの町へ旅客を運んでいるのは、リリィただ一人だ。

外部からの訪問者はもともと限られているし、いたとしても同じ時間に鉢合わせる確率はそうとう低い――というのも、この星では温泉に朝入る人は多くても、これから冷える夕方に入る人はそう多くないからだ。だから、こうして先客がいるというのは想定外だった。


ケイは更衣室に現れた。大きなリュックサックを背負ったままで。

――完全に、サンプル採集の準備である。

先客とおぼしき作業着を一瞥。

しかし何も気に留める様子はなかった。

着替えをする気配もなく、黙ってリュックを開き、怪しげな器具を広げはじめた。


リリィとアリアは顔を見合わせた末、先に風呂に行くことにした。


アリアは胸の奥にうっすらと、いや確実な危機感を抱えていた。

ケイは、何をしでかすかわからない。

まず間違いなく露天風呂で採集を始める。虫取り網を振り回すくらいならまだ可愛い。

みるからに怪しい機材を取り出し、環境DNA分析をするのはほぼ確定だ。さらに、泥を掘ったり、怪しい培地に温泉水を接種しだしたり……。もしかすると、湯船につかりながらメスで何かを解剖しはじめるかもしれない。

ケイは風呂に入りに来たのではない。サンプルを取りに来たのだ。


なかなか出てこないのは、きっと更衣室で「色々調べたいから」と、装置の準備に余念がないせいだ。


――ケイはしばらく、ほおっておこう。

更衣室から出てすぐには、足洗い場と称した温泉水路が流れていた。

それも納得だ――

露天風呂は、石を乱雑に積んで、セメントでそれっぽく固めたような――実に粗野なしろものだった。

なんというか、和風の露天風呂をそれっぽく再現”しようとした”けど、出来なかった感じだ。”竹垣”は竹じゃなくてCalamitesとおぼしき大きなトクサ類の茎でできているし、なんだかぼろっとしていてあっちこっちに隙間と穴だらけ。庭園を作ろうとしたはいいが、土が露出したところに粗雑な湯舟か配管から漏れた温泉があちこちに水溜まりを作っていて、青紫の藻が繁殖している。

足元はタイル敷きだが、そこから少し踏み出せば、ぐちゃっとした、ぬめりけのある感触とともにバクテリアと藻類を肌で感じることになるだろう。

帰りには足を洗ってから更衣室に入らないと、宿中青緑のしみがついてしまうことになるだろうから。


「良くも悪くも、前に来たままね」と、リリィが言った。


「そうね……でも、先客がいるのは初めてよ」


立ち昇る湯気の向こうに、ふたりの人影が見えた。

湯に身をゆだね、頬を赤らめ、湯気をまとっている。まるで湯の一部になってしまったかのようだった。


一人は髪をまとめ、背筋をまっすぐにして肩まで浸かっている。目を細め、長旅の疲れをほぐすようでもあり、何かを考えているようでもある。

もう一人は若く、濡れたタオルを頭にのせて、縁にもたれかかっていた。湯けむりの向こうをぼんやりと眺め、半ば眠っている。


こちらに気づいても、視線をちらと投げただけで、また元の沈黙に戻っていった。


その静寂の中、更衣室から微かな声が漏れ聞こえる。

「pHメーター、導電計、硬度計、DNAサンプラー、プローベの替え、マイクロチューブ…」

・・・やる気だ、困ったことに。

「——ちょっと止めてくる」


アリアは踵を返したが、リリィは楽観的だった。

「まあ、いいんじゃない?せっかくここまで来たんだし。それにこの町、変な人なんて珍しくないわ」


この宿は、観光客向けではない。仕事帰りの作業員が泥を落としに来たり、物好きな旅人がふらりと立ち寄ったりする。客層も設備も、バラバラで、滅茶苦茶で、雑然としている。

この地において、少しくらい変わった行動をしたところで、咎める者はいないだろう

――普通なら。



湯気が濃くて、顔の輪郭が滲んでいた。

ふだんより少し、声の通りが気になる。

声を張るには近すぎて、黙っているには遠すぎる――そんな距離感。


湯気と熱気と、温もりからくる脱力感が、言葉を交わすことの必要性すら、どうでもよくしてしまいそうだった。


その微かな間を、リリィが破る。


「こんばんは」と、湯気に溶けるような柔らかい声。


ひとりが目を開き、わずかに頷いた。

「どちらから?」と、落ち着いた声が返ってきた。


リリィが応じる。

「この町の出身で、旅の案内をしています」


それを聞いた若いほうの女性が、アリアの方に目を向けた。湯けむり越しの視線が、こちらを探るように揺れる。


「じゃあ、あなたは?」


アリアは微笑みながら、答えた。

「私は地球から。」


その言葉に、先客のふたりは顔を見合わせた。


「地球……!」

年上のほう――エルザと名乗った――が、驚きを隠せない声でつぶやいた。


「私はエルザ。こっちはナタリー。仕事でここに来てるんだけど……まさか地球からの人に会うとは思わなかったわ」


「遠くから、大変だったでしょう?」と、ナタリーが心配そうに首をかしげる。

移動は労働の一部。彼女たちにとって“旅”は、休養ではなく、業務と直結するものだった。


アリアは少し肩をすくめて、湯気の向こうを見やりながら笑った。

「まあ、慣れてますから。……旅というより、まあ、仕事みたいなもので」


湯気の中、アリアが体をずらした拍子に、胸元から小さなふくらみが覗いた。

淡い光に透けて見えたのは、肌に埋め込まれた医療機器――CVポート。


そのとき、湯気の向こうから、小さな声が漏れた。


「……スペースノイド?」


一瞬、空気が揺れた。


“スペースノイド”――宇宙出身者、特に火星系移民を指すその呼称は、いまだに差別的な響きを帯びている。

かつての紛争や事故、そして制度の隔絶。そうした負の記憶が、今もなおこの言葉の奥に沈殿している――いや、そもそも戦争はまだ終わっていないと、多くの人々は信じているのだ。

「いつか火星人が攻めてくる。彼らは地球や植民惑星に恨みを持った戦闘民族なのだ」と。

――あながち、間違ってもいない。それが、アリアにはつらかった。


エルザがわずかに微笑み、目だけでナタリーを制した。

「たぶん、医療上必要なのよ」

その口調には、柔らかながらもはっきりとした含みがあった。

“察しなさい”という声にならない言葉。

あるいは、“言葉を選びなさい”という、大人の注意だったのかもしれない。


アリアは小さく笑い、肩まで湯に沈んだ。

「まあ、間違えられることは、たまにあります」

ただ、どこか遠くへ投げるような調子だった。

湯気がまた濃くなって、彼女の表情はかき消えた。


短い沈黙が、湯気を凝固させてしまったようだった。

だが、ほんの数秒の後、ナタリーがぽつりと口を開いた。


「……地球にも、温泉ってあるんですね」


アリアは少しだけ目を見開き、それからふっと笑った。

「もちろん。日本とかアイスランドとか、温泉だらけよ。どこ掘っても出るくらいの場所もあって、温泉街なんてのもあるくらい」


「えっ、ほんとに?」


ナタリーが目を輝かせる。湯気の向こう、頬がほんのり赤く染まっていた。


「私、地球ってコンクリートとガラスの塊かと思ってました。人が多くて、空が狭くて……」


リリィが笑いながら口をはさんだ。


「火星人もそんなこと言ってたわ。都市部の密集地だけを切り取ったイメージに過ぎないのよ……そうでしょ?」


アリアは湯にあごまで沈みながら、遠くを見るように言った。


「たしかに、そういう場所ばかりかもしれないわね。けど……温泉も、森も、火山も、まだある。そういう場所を旅してまわる人もいるのよ――それこそ、温泉巡り、とか」


「温泉を、巡る?」

「沸かした水じゃなくて自然に温められた温泉に入るのが何というか、地球人にとっては特別なイベントなのよ――まあ、どこどこの温泉は微量元素を含んでるとか、放射線が出てるとか、そういうのにこだわる人もいるわ」

「じゃあここは?」

「——他にはない、という評判はつきそうね」


ナタリーは目を瞬かせたあと、吹き出すように笑った。

「それって褒めてるのか分からない……!」


アリアは肩をすくめる。

「地球の温泉街は何千もあって、互いにアピールしあってるのよ?印象に残れば、勝ちよ」

「プロデューサー目線ね」

「旅人だからよ。旅なんて、匂いと温度とニュアンスで全部決まるもの」

「それ、いいですね」とナタリーが言った。

「なにが?」

「全部が、印象でできてるっていうの」


和やかな空気が流れていた。

だがアリアは、気が気でならなかった。


――ケイが、来る。

この、せっかく打ち解けた空気を、台無しにしてくることはほぼ必至だ。

申し訳ない気持ちでいっぱいだった。


その証拠に、更衣室の方から、小さな金属音がした。

カチャ、と何かを組み立てているような……嫌な予感しかしない。


リュックサックに詰め込んだ機材と、限りない好奇心を抱えて、あの小さな変人が湯けむりの中に現れるのは時間の問題だ。

アリアはちらりとエルザとナタリーの様子を見やった。

二人はまだ何も知らない無防備な顔で、温泉の湯に体を預けている。

その穏やかな空間に、ケイの奇行が叩き込まれる未来が、手に取るように予想できた。


アリアはひそかに考えを巡らせる。

どうやってケイを止めるか。

もしくは、どのタイミングで彼女を回収すれば、最小限の被害で済むか。

いや、そもそも回収できるのか。

ほんのりとした温かさと安堵に包まれた空間に、見えない緊張が一人だけ漂っていた。


脱衣所の扉が開き、バスタオルを巻いた小柄な影が現れた。

ケイだった。


タオルの下に何かを隠しているらしく、動きが妙にぎこちない。

きょろきょろと周囲を見回し、不審な様子で湯船を覗き込む。

そして、ぴたりと足を止めた。

先客がいる。

——そのときだった。

湯に浸かっていたエルザが目を見開き、ナタリーが白濁した湯にさっと身を隠した。


「ちょっと待って! ここ、女湯よ!?」

「あっち行って!」


二人の声が重なり、湯船が波立つ。

アリアとリリィは顔を見合わせた。

アリアは肩をすくめて小さく笑い、リリィは頭を抱えた。


ケイはポカンとした顔で、取り乱す二人を眺めていた。

そして、きょとんとした声で問いかける。


「……え? 何?」


エルザとナタリーはなおも警戒を解かず、指を突きつけた。


「出てって!今すぐ」

確かにケイは、短い黒髪に、やたら肩幅のある細身の体格、女性にしては低めの声、そしてバスタオルの下にはまったく起伏のないシルエット。

ぱっと見では、どうあっても女には見えなかった。


ケイはまばたきしながら、アリアとリリィに視線を向ける。

アリアは吹き出しそうになりながら応じた。


「うん、まあ、よくあることよね」


リリィは溜め息をつきながら手を振った。


「落ち着いて。彼女、よ。見た目のせいでよく間違えられるけど、安心して」


エルザとナタリーは、まだ信じがたいという表情をしていた。

そんな中、ケイは一言だけつぶやく。


「……少なくとも、ついてなかったみたいだ」


リリィが苦笑しながら付け加えた。

「ちょっと変わってるけどね」


その瞬間だった。

ケイはバスタオルの中から何やら取り出し始めた。

コンパクトな検査機器や試験用マイクロチューブだ。

ちらりと見えた体は、肩幅こそ広いが不自然なまでにフラットで、幼さすら感じさせた。


そして——

バスタオルを纏ったまま、何の躊躇いもなく、湯船に電極を差し込んだ。

マイクロチューブで湯を掬い取り、真剣な顔で成分分析を始める。

さらに、ドブめいた熱水の溜まりを見つけると、コンパクトカメラを取り出してバシャバシャと写真を撮りはじめた。


「おほぉ……すごい……素晴らしい……ポコォ……」


変な声を上げながら。


エルザとナタリーの悲鳴が浴場に響いた。


アリアは顔を覆って笑いを堪え、リリィはもう諦めたように溜め息をついた。


「ケイ、せめて……湯船に入って落ち着きなさいよ……」


リリィが呆れた声で呼びかけても、ケイは聞いちゃいない。

湯船には目もくれず、ぴちゃぴちゃと藻類まみれの泥の上を裸足で歩き、ドブのような水溜りをうっとり眺めながら、観察を続けていた。


(この様子、撮ったら絶対バズるな……)(バズる……絶対バズる……)

アリアは湯気の中で天を仰ぎ、口を真一文字に結んだ。

人として、負けるわけにはいかない。

いくらケイがぶっ飛んでいるとはいえ、浴場でカメラを回すなど人間としてアウトだ。

動画配信者としての本能がうずくのを、必死で押さえ込んだ。


エルザとナタリーの休息は、もはや完全に台無しだった。


ここでケイを撤収させたところで、何かが好転する気配はまったくなかった。

エルザはちらちらとケイの様子をうかがいながら、ナタリーに小声で尋ねた。


「ねえ、あの子……何してんの?」

ナタリーも目を細め、湯船のそばで何やら細かい作業をしているケイを観察した。

「汚水の成分でも調べてるのかな?」

「なんかセンサー入れてたし……たぶんそうじゃない?」

リリィは二人の視線に気づき、少し考えてから肩をすくめた。


「うーん、まあ……調べてると言えばそうだし、そうじゃないとも言えるわね」

「どっちよ?」

エルザが眉をひそめる。


リリィは言葉を選びながら説明を続けた。

……この町では、石を投げれば技術者に当たる。

冷却塔の点検に、地下配線の更新、旧式設備の延命処置――町を支えるのは、地味で手間のかかる技術の集合体だった。たぶん彼女たちも、工学系の出身のはずだ。


「ほら、あなたたちも、仕事でデータ取ることあるでしょう? 彼女の場合、それが……趣味っていうか、もう生活の一部なの」


ナタリーはさらに怪訝そうな顔をした。


「つまり……仕事じゃないの?」


「仕事というか……うーん、研究というか……」


「研究者なの?」エルザが食い気味に聞いた。

リリィは困った顔で頭を掻く。


「本人にそう言うと怒るんだけど……まあ、研究者"みたいな"ことをしてるとは言えるかもね」


ナタリーは眉をひそめたまま、首をひねる。本気で理解できないのだろう。


リリィはため息をつき、ちらりとケイの方を見やった。

その小さな背中は、今も湯気の立つ湯船に向かって、寸分の迷いもなく動いていた。


「……好奇心。たぶん、それだけよ」


エルザとナタリーは顔を見合わせた。

二人の顔には「理解できない」という感情がはっきり浮かんでいた。

リリィは肩をすくめ、アリアは苦笑しながら付け加えた。


「まあ、彼女はそういう人なのよ」


浴場の空気は安寧ともパニックともつかない、やや不思議なものに変質していた。

しかし爆心地であるケイ自身はそんなことにまるで気づいていなかった。

彼女はただ、目の前にある「興味深いもの」を、いつものように好奇心の限界を尽くして観察しているだけだった。


露天風呂の周りに溜まった水溜まりには、独特の青緑色で糸状のものが繁茂していた。

「これが"青ひげ"ってやつ?」

アリアが尋ねると、リリィは軽く首を振った。

「いいえ、違うわ。これは青ノロって言われてる。青ひげは温泉まわりの地上に生えるのよね」

ケイはしゃがみ込み、慎重に観察する。指で軽く触れると、ぬるりとした感触があった。

「……シアノバクテリアっぽいけど…そうとも限らないかも」

指先をじっと見つめながら呟く。


「ん? 何か違うの?」

アリアがカメラを寄せると、ケイはゆっくり首を振った。

「順当に考えればシアノバクテリアにみえるけど、ほかのもの・・・たとえば、イデユコゴメってこともありうるかも。ここ、泉質は?」


「酸性泉よ。あ、あそこに青ひげあるわよ。手入れがちゃんとされてない温泉には、だいたいあるのよね。抜いても抜いても生えてくるわ」

”青ひげ”は鮮やかな黄緑色で、太さ1㎜、高さは8㎝ほどで、Y字状に分岐を繰り返している。先ほど見たものとよく似ている。引き抜くと、根元には小さな瘤のようなものがあり、そこからは微細な毛が生えて地面をつかんでいる。これは胞子体で、Y字状の分岐を繰り返し、切り開くと先端に胞子が入っていることは、氷河にあった温泉モドキで確認した通りだ。胞子体だけでなく、小さな配偶体も生えている。配偶体はラッパ状に先端で膨らみ、多数の柱状の構造物がついている。

配偶体には造精器をもつ雄と造卵器をもつ雌があり、受精により雌配偶体の上から胞子体が生じる。胞子体はその後成長し、胞子嚢をつけて胞子をばらまき、配偶体が生じる。

コケ植物の場合、配偶体が大型であり、1つの胞子嚢しかもたない。しかし、維管束植物の場合は胞子体が大型であり、胞子嚢も複数着く。そのため、維管束植物を多胞子嚢植物ということもある。


「おぉ~~~っ!そうそうこれこれ!この時代における「生きた化石」だよ。」


ナタリーが「って、ただの湯ヒゲじゃない?」とつぶやく。


「へぇ……まあ、ここの人たちはそんなに気にしてないみたいだけどね。」

リリィは湯船につかりながら、のんびりとした口調で言う。



ううむ。”青ひげ”はホルネオフィトンHorneophytonに見える。配偶体もそれに対応するLangiophytonにみえる。デボン紀前期の温泉に生えていたというけど、まさか石炭紀後期で出会えるとは思っていなかった。

この間には、一億年近い差がある。その間に、わずか10㎝ほどだった植物は50mまで育つようになり、胞子増殖しかなかった時代から種子植物が発生するなどの大発展を遂げた。

しかしこれほどの長い期間、化石記録に残らず生き残るとは、ありえることなのだろうか?

ここまでのところ、この植物は植民地の人間が活動する周囲のみから確認されている。外来種である可能性はないだろうか?

アリアも懐疑的だ。

「それほどの期間、花粉や胞子にも一切記録がなかったってこと?胞子なら流石に残るんじゃない?」

たしかに、きわめて奇妙な現象だ。しかしながら、この答えに関しては化石記録からいかんとも言い難い。たしかに花粉や胞子は、きわめて保存されやすい。そのため、植物化石が残らない環境においても花粉はよく残され、その古環境を推測するために用いることができる。なぜなら、花粉を構成するスポロポレニンは酸にもアルカリにも強い、生物がこれまで作った分子の中で最も頑丈なものであるからだ。そのため、その時代、化石が少しでも残りうるようなところにに植物が存在する限り、花粉や胞子には何らかの足跡が残るのが普通である。

しかしながら、このようなきわめて原始的な植物にとっては、胞子記録があてにならないという、致命的な問題がある。なぜなら、ホルネオフィトンをはじめとしたきわめて原始的な維管束植物においては、胞子の形状が系統関係にあまり影響を受けないだけでなく、構造が単純で同じ種の中でもその形状や大きさが大いに変化するため、種同定と胞子同定がまるで一致しないことが知られているからだ。いうなれば、胞子がいいかげんに作られているのだ。このような段階はホルネオフィトンよりもかなり構造が複雑なゾステロフィルム類などにもいえるようで、しかもその後の他の植物にも似たような胞子をつくるものが色々いる。そのためこれら原始的な植物の残した胞子記録はとてもあやふやなのである。たしかに、シルル紀などから知られる胞子に似たものは石炭紀やペルム紀から見つかっているものがあるのは確かである。しかしながら、こうした”形状が単純な”胞子がどの植物が残した胞子なのかは、誰もわからないし確かめようがない、という問題がある。


湯船の中では、ひそかに「被害者同盟」が結成されつつあった。


エルザが湯の中でリリィにそっと目配せする。リリィは肩をすくめて返す。

言葉は交わさずとも、意思は通じた。

——少なくとも、自分たちはまともな方だ。

そんな無言の合意が、ふたりのあいだに生まれていた。


「……あたしらもさ、もうちょっと頭良かったら、あんな風になれたのかな」


ナタリーが、湯に指先を沈めながらぽつりと呟いた。

その声には、羨望と、ほんの少しの恐れが滲んでいた。


「──なれなくていいよ」


エルザが即答した。その声には、冗談めいた響きと、ほんのわずかな本気が混じっていた。

けれどその視線は、湯けむりの向こうで奇妙な緑を摘み取っている小さな背中から、離れなかった。


ケイはまだ解析を続けている。

青ノロのほうは残念、当初の予想通りシアノバクテリアか。pHは5.5、水温は最高で51。”生きた化石”微生物であるイデユコゴメ類がこういう熱い温泉によくみられるので期待してしまったが、現生種からするに、その生存のためにはちょっとpHは高めである。

”青ひげ”を潰して解析した方では、ステム維管束植物とともに、アーバスキュラー菌根菌をはじめとして、さまざまな現生分類群に比類できる微生物やウイルスのDNAが検出される。アーバスキュラー菌根菌は興味深いことに、植物に「根」が生じる前から植物と共生してきた。というよりも、この菌類は植物より前から地上に住んでいた可能性すらある。

地温は49度。

空中の温度を測ると、空中の高さ5㎝で31度。10㎝では25度まで下がる。無風の条件で放射のみを考慮すると、高さ5㎝で45度、高さ10㎝で40度となるが、若干風があるためにこのくらいの値を示す。CO2濃度は空中で300ppmだが、地表近くでは2000ppmに達する。この気温とCO2勾配により、温泉周囲で”青ひげ”は急激に生育することができるのだろう。

二酸化炭素濃度が劇的に低下し気温も低下していった石炭紀においても、温泉の周囲には気温も二酸化炭素も保たれ、また他のライバルとなるような進化型の植物の侵入をも妨げられたのだろう。ホルネオフィトンの化石からは、この植物は気孔も維管束も効率が悪かったことがわかっている。つまり、水ストレスにも二酸化炭素ストレスにも耐性が低く、植物上陸前の地球に適応しているのだ。

もしかすると、さまざまな共生微生物やウイルスゲノムは単なる共生関係ではなく、温泉という過酷な環境に適応し生き抜くために必要なものなのかもしれない。

現在の植物にも、特殊な共生関係により50度を超える異常な環境に適応できるものがあるからだ。


かつて、イエローストーンに足を運んだことを思い出す。活火山が温泉だけでなく溶岩や毒ガスなどをも吹き出す恐ろしい場所だが、そんな場所にも植物が生育していた。Dichanthelium lanuginosum var. thermaleという地味なイネ科植物はその代表だ。植物が群生するくらいなので冷えた環境なのだろうと思ったら、地温50度以上を示すという事実に驚かされた。さらに驚異的なのは、その高温耐性がこのイネ科植物自体のものではなく、共生菌に、さらに寄生するウイルスによりもたらされていることだった。

イエローストーンではほかにカヤツリグサ科のEleocharis flavescens var. thermalisがリアルタイムで珪化し、いままさに化石化していっている様子も見ている。これはホルネオフィトンがデボン紀のライニーチャートで温泉のミネラル分により珪化し、保存された様子に酷似している。


へっくしょん。

日はもう暮れようとしている。

気温は10度を切っている。ちょっとこれ以上裸同然の格好で行動すると風邪をひくどころか、低体温で死にかねない。そして、この地で風邪をひいてまともな医療を受けられるとも思えない。

「とりあえず風呂、入ったら?」

湯船には源泉に加えて水がブレンドされるようになっており、水温は40度程度になっている。

湯船に沈む。芯まで冷えた体がぬくもっていく。

「まさかホルネオフィトンを見ながら入れる風呂があるなんて、夢にも見なかったよ、いい宿だ」

外気は8度、湯船は40度。

でも、いまこの空間で一番熱いのは、たぶんケイの頭の中だった。


ようやく、バスタオルというヴェールが剥がれる。

ケイが湯に沈むその瞬間、アリアはわずかに呼吸を止めていた。

平静を装っていたけれど、心臓が一拍だけ大きく鳴ったのを、はっきりと自覚していた。

その様子を、エルザとナタリーはちらりと盗み見た。

小柄ながら想像以上にがっしりとしていた。

無駄のない筋肉の線。水を弾くような皮膚。少しだけ少年めいた骨格。

その姿に、エルザとナタリー、そしてアリアまでもが同時に、ごくりと喉を鳴らしかけて、慌てて視線をそらした。


「……あのさ、わかってるんだけど」


ナタリーが、ひそひそ声でエルザに囁いた。


「女の子だって、わかってんだけどさ……無理」


「……まあね、理屈じゃないわよ、こういうのは」


エルザも低く呟いた。ちょっと大人ぶった口調で。

そう、頭では理解している。

だけど、どうしても、風呂場で隣にいるそれは、「男」にしか見えなかった。

気まずさが湯気よりも濃く漂う。二人は目を合わせ、無言で決意する。


「……じゃ、あたしら、先に上がるわ」


「あ、うん……体冷えちゃうし」

湯気の中で視線を彷徨わせながら、エルザとナタリーはぎこちなく湯船を後にした。


その様子を見て、リリィは小さく苦笑していた。

その隣でアリアも笑ったが、少しだけ寂しげな色が浮かんでいた。


浴場の扉が閉まったあと、しばしの沈黙が流れた。

ケイは、ぽつりと呟いた。


「……あのふたり、付き合ってるのかな」


ぽつりとしたその声に、湯気が一瞬だけ、静まったような気がした。

リリィが目を丸くしながら、くすりと笑う。


「え、どうしてそう思ったの?」


「視線の交わし方とか、呼吸の合わせ方とか。恋人同士って、ああいうふうになるよね」


「あはは、なるほどね。うーん、どうだろ。言われてみれば、そう見えたかも?」


リリィは面白がるように肩をすくめた。

そのやり取りを聞きながら、アリアは湯の中で目を伏せる。







ホルネオフィトンは温泉周囲なら石炭紀でもシルル紀~デボン紀のような環境ができるのでは?と思ったのでついついやらざるを得ませんでした。

なぜリニアでもクックソニアでもなくホルネオフィトンを出したのかといえば、サイズ感と温泉付近での生育証拠があるためです。リニアは結構大きい(高さ20㎝くらいあって結構分岐する)し、クックソニアはあからさまに胞子嚢があったりして知名度もあるのでそのまま放置されていなさそう、と思ったからです。

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