第八話 凍てつく街・湯ヒゲ
目下に広がる、石炭紀の川。
焦点距離が狂ってしまった私の水晶体が、スキャンするかのように地表を舐めていく
――まただ。新しい自然に遭遇した時、いつもこうなる。
情報負荷で、頭の奥が痛くなる。時間がゆっくり過ぎ、周囲の光がカッと明るくなる。
川は、無数の水路に分かれている。川幅は――とにかく広い。
広い、というよりも、無数に分岐していて、あちこちで再合流している。
どこから川で、どこから湿地なのかよくわからない。
河川というより、沢山の水路を含む湿地というべきかもしれない。
川床が、海面みたいに波打っている。
青灰色の川面の色合いも――あちこちで濃くなったり、淡くなったり。
無数の中州はさながら、白波か。
中州には、ときおり植物が生えている。
まるで葉が全部とれた柱や緑の枝が立ち並んでいるよう。
――おそらく、リンボク類か、木本性ミズニラ類の一種だろう。
それにしても、この距離で見ても、全然わからない――緑の鉛筆が立ち並んでるみたいだ。
ゴンドワナのリンボク類は、全然わかっていない。研究者が少なかったせいである。
未知の植物。できれば、近くで観察したい――しかし、旅程は恐らく、許してくれないだろう。
それにしても、青白い濁りというのは、おもしろい――春先に出る、雪代を思わせる。
いまは真夏の筈なのに。この水は、真夏でも雪が解け続けている地域から出ているのだろう。
そう、私たちは、氷河の街に向かっているのである。
――網状河川だ。
氷河から流れ出る河川は、網状河川になりやすいといわれている。
現在でも、アラスカやシベリアでは網状河川が多い。土砂供給が多く、水量の変動が多いため、らしい。
その中に、1本だけやけにまっすぐな浚渫路があって、白い舟が何隻も航行しているのだった。
…環境破壊だが、しかたない。あの浚渫路、そうとう作るのに労力が費やされたのではなかろうか。
かなりまっすぐだということは、何らかの浚渫パイプか何かがひかれていて、その上が航路になっているのだろうか。もしくは、定期的に掘削船が通るとか。
――案外19世紀のユーコン川みたいに人力で浚渫している、というのもこの星の文明水準ではありえなくもない気がする。
そんな浚渫路には、あちこちに水路が合流している。
水路の中にはショートカットになっているものもある。
そして、そうしたところはしばしば、妙に深くなっている——横着者があそこを通るのだろう。
――もしくは、ボートレースとかあったらアツい展開になるかもしれない。
それにしても、石炭紀に来て、初めて見る川が網状河川、か。
正直、アマゾンのような、熱帯雨林を流れる蛇行河川を想像してしまっていた。寒い時代だといわれてはいたし、たしかに網状河川の記録もそこそこあるのだけど。
――まあ、氷河なら無理はない。
ほかにも、ゴンドワナらしい、古植物学的な要因も絡んでいるのかもしれない。
かつて、地球の川の大部分は網状河川だったといわれている。
それが、大きく根を張る植物の繁茂により流速が遅くなり、蛇行河川にかわっていった――らしい。
しかし。ゴンドワナのリンボク類は、ユーラメリカ熱帯域のものと比べると根はりが著しく弱い。
まるで吸盤でへばりつくかのように、丸みを帯びた根茎が地面に突き刺さって、そこから細い根が出て幹を固定していたようだ。それでどうして倒れないのかというのもじつに不思議だが――すくなくとも、流速を遅くするほどにはなりえなかったと見える。
目下に広がるリンボク類もまた貧弱。
大きく育つ前に流されてしまうか、もしくは小型種なのだろう。
流路の周囲には、より大きなリンボク類がみられる――それは、だだっ広い流路の端を意味していた。
すくなくとも、ゴンドワナの木々は、どうも流路を変えるほどのパワーを持っていないように見える。
流路から外れると、あっという間に荒野だ。
植生はまばらになり、灰色の大地にぽつぽつと、黒々とした緑が点在するようになる。
どうも、この時代の植物はまだ水から離れられないのか――そんな風にも見えるが、おそらく事情はやや異なっている、はずだ。陸上性のグループもすでに様々な種が出現しているはずの時期である。それにもかかわらず、植生が少ないというのは――なにやら、別の事情があるのだろう。
そして――飛行を続けるうちに、外の景色は次第に白に染まっていった。
雪と氷に覆われた大地。
氷床の割れ目から黒い岩肌が覗き、白と黒のまだら模様を描いている。
世界そのものが色彩を失い、モノクロームに閉ざされていくようだった。
やがて、緑がかった川が現れる。
そして、その川からは――湯気が立ちのぼっている。
温泉の湧き出しによるものだろう。そんな川辺に、小さな町がしがみつくように存在していた。
コンゲラード──氷の世界に築かれた、かろうじての人間の拠点。
町並みは無骨で、装飾らしいものは一切ない。
機能だけを追い求めたような、四角い建物が無言で並んでいる。
窓は小さく、配置も無駄がなく、まるで工場か軍の施設のようだった。
そこには、人の営みのぬくもりも、感情の入り込む余地もない。
植民の過程で計画的に築かれた都市。
「町」というより――人間が、生活をどうにか成立させるための拠点。
そして、もうだいぶ、荒れていた。
建物にはひび割れと黒ずんだ染みが浮き、舗装は剥がれ、道端には錆びた車両が打ち捨てられている。
滑走路脇の整備工場には、部品を剥ぎ取られた輸送機の残骸が無造作に並べられていた。
その光景に、ケイはふと、かつて訪れたシベリアの町を思い出した。
人が住むには厳しすぎる場所。
そこに形だけ与えられた「居住地」が、手入れもされぬまま、老朽化し、沈黙していた――まったく同じ構図だった。
そういう町は、どこの辺境にもあるのだろう。
アリアも言っていた。
火星の植民都市もまた、無音で、無機質で、無表情だったという。
暮らす場所というより、「生命の維持を許された空間」にすぎなかったと。
極限環境に人間が切り込むとき、最初に削ぎ落とされるのは、余白と無駄。
だが、切り詰めすぎたその先で、ひとは失うのかもしれない――
たとえば、感情や文化といった、見えないものを。
滑走路が、すぐそこに迫っていた。
その瞬間、アリアはふと、リリィの表情がわずかに曇ったのに気づいた。
「ここ、懐かしいね」
そう言って、小さく笑いながら、彼女の肩をぽんと叩いた。
――あの表情の理由を、アリアは知っていた。
前回の長旅のときに、リリィが話してくれたのだ。
石炭紀の開拓者たちは、朝起きると眉に霜が降りていたり、天井からつららが垂れていたり、胸の上に二十センチのゴキブリが載っていても、なんとも思わない。
そんな環境で育ったリリィが、初めて違和感を抱いたのは、五年前。
偶然立ち寄った他惑星の来客から、外の植民都市の暮らしを聞かされたときだったという。
自分たちの町が、他所では到底「当たり前」とは言えないほど劣悪であることを、初めて知ってしまった。
それ以来、リリィはずっと考え続けているという。
この町を、少しでも住みやすい場所に変えられないかと。
副業で始めた観光案内も、その思いの延長だった。
ヘリの操縦のかたわら、わずかな旅行者を町に案内し、歓迎しようと努めている。
けれど今のリリィには、旅人たちに自信をもって勧められる宿すら、ひとつもない。
それでも、町の現実に文句を言うこともできない。
だから今も、黙ってボロ宿へと案内するしかなかった。
「そうね」
リリィはそう答えた。その顔に、暗さはなかった。
ガクン、と機体が跳ね、タイヤが滑走路を叩く。
着陸の衝撃が全身を突き抜ける。
周囲の気流が乱れていたのか、かなりのハードランディングだった。
タラップを降りると、ツンとした寒さが肌を刺す。
機体後部からは荷物が取り出され、トラクターにけん引されていく。
そのトラクターの運転席から、運転手がドアを開けて手招きしていた。
「寒いでしょう、乗ってください」
そう言われ、押し込まれるように荷台へ詰め込まれる。
アリアは「はい、コレ」と言って、ポケットから飴玉を取り出して渡した。
運転手は目をぱちくりさせてから、
「ありがとさん、ホントはだめだけど、宿まで乗せるぜ」
と、ぽつりと言った。
――チップ、的なものか。なんだか20世紀のドラマみたいだ。
他に乗客がいなかったせいもあるが、これは相当な“無茶”を通したことになる。
とはいえ、ここでの飴玉の価値が、いまひとつわからない。
もしかして、この町では飴玉がものすごく貴重なのだろうか。
ふと気づく。
この運転手は、この星で出会った、二人目の人間だった。
そう気づいたのは、トラクターから降りてしばらく経ってからのことだった。
そういえば、ここまで操縦してくれたパイロットとも、結局一度も顔を合わせなかった――。
宿は、常識的に見れば、どう考えてもボロ宿だった。
けれど、アリアはほっとしていた。
前回の旅でも世話になったこの宿が、あいも変わらず、全く変わらず、そこにある。
そのこと自体が、なんとも心強かった。
――ただ、ケイのことは、少しだけ気がかりだった。
彼女がこういう環境を気にするタイプではないのは、分かっている。
むしろ――気にしなさすぎる。
だからこそ、この荒れた町と、奇妙に共鳴してしまうのではないか。
そんな予感が、アリアの胸をかすめた。
宿の内装は、言うまでもなく簡素だった。
壁は結露し、ところどころにカビが浮いている。
ベッドらしき寝具は、スプリングが自重に負けて中央がへこみ、沈んでいた。
窓の外では、粉雪が静かに舞っている。
その凍てつく景色とは裏腹に、
この小さな部屋のなかだけは、
奇跡のような温もりに、そっと包まれていた。
壁のあちこちには、温水パイプが張り巡らされていた。
――寒さをしのげるだけでも、この場所では、十分すぎる贅沢なのだ。
部屋の中は、驚くほど暖かかった。
ケイは、窓についた露を指で払いながら、街の向こうに広がる氷の海を眺めていた。
――そもそも、なぜこんなところに街があるのだろうか。
その理由は、氷河の下に眠る天然ガス資源にある。
ここで暮らす住民の多くは、氷河縁辺に設置されたメタン採掘基地のエンジニアや管制官たちだという。
この地にメタン回収基地が成立しているのは、石炭紀特有の事情による。
石炭紀は、氷河期だ。
温暖化と寒冷化が交互に訪れ、氷が南へ北へと行き来していた。
そして――その氷河の縁をたどって移動を繰り返したのは、植物も同じだった。
石炭紀後期からペルム紀にかけての湿地帯では、一部のリンボク類、たとえばブラジロデンドロンやブンブデンドロンが、氷河縁辺を好んで群生し、石炭層を形成していた。
さらに時代が下り、石炭紀末からペルム紀前期にかけては、有名なグロッソプテリスやスキゾネウラが、氷河に沿った陸地に大規模な群落をつくるようになる。
こうした森林は、氷河の進退によってたびたび押し潰され、膨大な量の有機物が地中に埋もれた。
そして――氷河の下では、長い時間をかけて分解し続ける植物遺骸が、今もなおメタンを放出している。
これを、回収する。
メタン採掘基地は、非常に簡素な構造をしている。
氷河末端に点在する回収基地は、まるで氷河に吸いつくアブラムシのようだ。
長大なパイプが氷河を貫き、その先端は氷河の下に広がる堆積層へと届く。
パイプ先端に組み込まれた電熱線が、氷河下の堆積層を温め、メタンハイドレートの融解やガス化を促進する。
回収されたガスはパイプを通り、パイプラインへ集められる。
氷河の中を通る冷却パイプによってプレ冷却されたのち、冷媒システムでさらに冷やされ、真空断熱高圧タンクに液化天然ガス(LNG)として貯蔵される。
この基地のエネルギー源は地熱だ。一部のプラントは火力が使われていたというが――酸素濃度30%を超える大気で運用するにはいささか危険として、代替が進んでいるのだという。
ただ、どちらにしても——結局、人類はどこまでいっても、
熱でお湯を沸かしてタービンを回す以外の発電方法を発明できないらしい。
掘削、圧力管理、ガス回収。
すべてのプロセスは高度に自動化され、人の手が必要になることはほとんどない。
人間の役割は、万が一の異常への対応に限られている。
そして、広大な氷原と点在する回収基地を結ぶためには、空からの移動手段が不可欠となる。
町にはヘリの整備基地と格納庫が常備されている。
パイロットはわずか4人。
そのうち、唯一この町の出身で、最年少でもあるのがリリィだった。
「河畔林にはヘリが降りられるような場所はないけど、上空をクルーズするだけでも気持ちいいかも」
リリィがふと提案した。
ケイは、即座に顔を上げた。聞き逃すはずもない。
「乗らない手はない」と、小さくつぶやく。
「空撮もいいわね」アリアもすぐに応じた。
ボロ宿は、空港のすぐ近くだ。
空港に着くと、リリィは何の迷いもなく、まっすぐ格納庫へと歩いていった。
「リリィ、また飛ぶのか?」
「ええ、今日はクルーズだけよ」
「いい風、来てるといいな」
会話の合間に、ヘリの主機がゆっくりと温まりはじめる。
「それじゃ、管制室にひと声かけておくね」
リリィはそう言いながら、簡単な連絡を入れた。
トラフィックは、ほとんどないに等しい。
それでも、他の便がないことを確認するのは、いつものお決まりだった。
チェックリストにざっと目を通し、
リリィは見慣れたスイッチを、指先で軽やかに弾いた。
この空を、彼女はもう何百回も飛んできたのだ。
――今日の乗客が、少しばかり特別であることを除いては。
リリィが操縦席に座ると、ケイとアリアは後方座席に収まった。
エンジンの振動とともに、ヘリコプターは軽快にローターを回しながら、ゆっくりと上昇していく。
轟音が響き、風が体を包む。
浮き上がる感覚が、背骨を伝ってくる。
高度が上がるにつれ、町の輪郭が徐々に小さくなっていく。
町からは一本の川が伸びており、川面を覗けば、液化天然ガスを満載した船が行き来している。
地熱の影響で川の周囲だけは氷が解け、緑の帯のように見える。
そして、その周囲には河畔林が発達していた。
ケイはヘリコプターの窓に額をつけ、目を輝かせながら変わりゆく風景を食い入るように見つめ、端末の地図に死に物狂いで書き込んでいく。書き込みながら、ぼそぼそとした独り言が漏れる。
「湿地のリンボク群落。コルダイテスの林……いや、パッチ状に木性シダが入り込んでる。土壌が乾燥するにつれて、針葉樹が増える……あ、あそこに違うパッチがある。窪地か。木性シダの群落。湖。このあたりは針葉樹とコルダイテスの混合林かな。シダ種子植物の割合も高そうだ。この辺はいったん単調か。」
アリアはケイの様子を見て、小さく笑いながらカメラを回し続けていた。
その姿をただ撮っているだけで、どこか満たされた気持ちになるのが、不思議だった。
ケイの興奮気味な独り言が録音に入っているが、あとで無音にして編集するつもりなので問題はない。
――「音声だけ」バージョン、作ってみようかな。
そんな邪念が一瞬頭をよぎる。アリアはそれを振り払うように、口を開いた。
「いい観察ポイントは見つかりそう?」
「うーん、ちょうどいい撹乱があって、ヘリが下りられるくらいの環境があるといいんだけど……たしかになさそうだ。」
ケイは端末を操作しながら呟いた。
それは会話というより、応答だった。
その様子をインカム越しに聞いていたリリィが、コクピットからマイク越しに軽い調子で笑った。「いやー、すごい熱心さねぇ。アリアから色々聞いてたけど、ほんとに学者さんだ」
ケイはその言葉に、一瞬、肩を小さく揺らして反応した。
アリアはその反応を見て、背中に冷や汗が流れるのを感じた。
リリィの軽い言葉が、今のケイにとってどれほど重荷になっているか――アリアにはすぐにわかった。
「学者だなんて……そんな高尚なものじゃないよ」
ケイは視線を落とし、言葉を続けた後、
ふと目を閉じるようにして、再び端末に目を落とした。
その仕草に、アリアは胸が締めつけられるような思いを抱いた。
ケイが、何かを無理に押し込めていることが、ありありと見て取れた。
もちろん、コクピットからはその様子は見えない。
「謙遜しないでよ、すごいじゃん! こんなに熱心な人、私には初めてだよ。
私から見たら、立派な学者さんだよ!」
リリィはさらに、無邪気な調子で言葉を重ねる。
ケイは端末を握る手に力を込め、顔に一瞬、硬さを浮かべた。
その様子に、アリアは思わず息を呑む。
ケイが怒るタイミングは、たいていの人にとっては意味不明だ。
しかも、怒っていること自体が伝わらないことも多い。
ケイは、「人に強く当たってはならない」と考えている。
だからこそ、怒りは内側に向かう。
その矛先は、いつも自分自身だ。
「私は……ただのスティルボーンだよ」
ケイの声は、平然としていた。
アリアは、リリィとの噛みあわないやりとりに、胸を痛めていた。
もともとは「流産」という意味だが、「羽化に失敗して死んだ昆虫」という意味もある。
そしてこの時代、もう一般には使われていない語でもあった。
だから――その意味は、おそらくケイとアリアにしか通じていない。
いや、通じさせないために、その語を選んだのかもしれない。
本音を言いつつ、それが誰に向いているかは、伝えたくなかった。
それは――ケイが専業の研究者として大学に残らず、堅実な道を選んだこと。
ケイ自身、それを劣等感として抱え続けている。
何度も大学に戻るようにと声をかけたが、「食べていける未来が見えない」と聞き入れてはもらえなかった。
もちろん、ケイが研究をしていないわけではないし、それなりに業績もある。
けれど――「学者」とは、それだけで食べていける人のこと。
ケイは、そう考えているのだ。
アリアが思うに、ケイは自己肯定感が低すぎるくせに、プライドが高すぎる。
「ケイ……?」
アリアは、小さな声で呼びかけた。
ケイはそれに答えることなく、ぷいっと窓の外を見てしまう。
しばらく、沈黙が続いた。
「……やっぱ、後悔してる」
声は、風の音に消えそうなほど小さかった。
けれど、アリアにははっきりと聞こえた。
それは――誰にも言いたくなかったはずの本音だった。
ようやく心の内を言葉にできたことで、少しでも軽くなったのだろうか。
それとも、言わざるを得ないほど、心が追いつめられていたのか。
しかし、どちらであれ――
向き合わなければならない問題だった。
そして、向き合ってほしいと願っていた問題でもあった。
機内の雰囲気が氷点下になりそうだったが、外の気温もまた、ぐんぐんと下がっていた。
行きは川沿いのルートだったが、帰りは山を越えるショートカットルートだ。
標高はみるみる上がっていき、窓の外には雪がちらつき始める。
「街はもうすぐ山を越えて、氷河をまたいだらすぐそこですよ!」
リリィの声が、インカム越しに明るく響いた。
“熱帯雨林”の象徴とされがちな石炭紀の森に、粉雪が舞っている。
その光景は、どこか不思議で、新鮮だった。
湖の周囲には、リンボク類の姿が見られる。
だが、どれもミニチュアサイズで、うっすらと雪をかぶっていた。
標高がさらに上がるにつれ、木々はまばらになり、やがて一面の雪原が広がっていく。
そしてその先――
ケイは、思わず息を呑んだ。
そこには、ひときわ目を引く一角があった。
白く閉ざされた雪原のなかに、ぽっかりと緑が広がっている。
その緑の中――
雪上に、湯気を上げる温泉が湧いていたのだ。
「あそこ……行ってみたい」
ケイの言葉に、アリアは少し驚いた表情を見せた。
アリアには、ただの温泉にしか見えなかった。
けれど、ケイは少なくとも、何かをそこに見出しているようだった。
「えっ、何?」
「まだわからないけど……ある気がする」
「何が?」
「それもわからないけど……! 直感が、呼んでる」
「もちろん、ご案内しましょう!」
リリィは明るく笑い、操縦桿を大きく引いた。
ヘリコプターはゆるやかに旋回し、雪原に向けてアプローチを開始する。
アリアは、心の中でひとつだけ決めていた。
――ケイの前で、「学者」という言葉は絶対に口にしない。
……でも、本当は。
ケイがその言葉を、胸を張って受け止められる日が来てほしいと、
心から願っている。
ともあれ、少なくとも今は、この話題は一段落だ。
アリアは、そっと胸を撫で下ろした。
空は晴れ渡っていて、怖いくらいに青い。
――石炭紀の酸素濃度だと、少しは空の青も違うかもしれない、と思って予習した。
けれど、窒素と酸素の分子サイズは、結局、誤差の範囲になってしまう。
窒素分圧がそのままで酸素が多い場合、大気はわずかに厚くなるので、その影響の方が大きい。
けれどそれも、あからさまに空の色を変えるほどではないらしい。
……だから違いがあるとしたら、それはきっと、心情だ。
ヘリコプターは温泉に向かって、ぐるりと旋回しながら高度を下げていく。
そして、ついに着陸した。
ハッチが開くと、冷気が一気に機内へ流れ込んでくる。
温泉のすぐそばに、場違いな人工物があった。
それはメタン探索ユニットだった。
地下と地上のメタン濃度を感知し、自動で移動しながら採掘地点を探す、自律式ロボット。
ユニットは一日に数メートルしか進まないが、太陽光を利用して、ほぼ無限に動き続けることができる。
温泉周辺では、メタンハイドレートが溶け出し、メタン濃度が上昇する。
そのため、探索ユニットは自然とこの場所に集まりやすいのだ。
さて。温泉に目を向けよう。
ふつふつと湧く温泉は、氷河がふっと途切れた露出岩から、盛大な湯煙を上げていた。
かすかに硫黄の匂いが漂う。
水面は、不気味な青緑色だ。
その周囲には、5センチから15センチほどの、緑のモヤシのようなものが群生している。
――十八世紀末の文豪ゲーテは、
「すべての植物が同一の基本モデルに基づいていないとしたら、どうして私はこれやあれが植物であると認識できるのだろうか?」
そう語ったという。
そして――
すべての植物の原型、原植物Urpflanzeを探し求めた。
それはのちに明らかになる「原始植物」とはまるで正反対であって、あらゆる植物の特徴をすべて持つスーパー植物であったわけだが――ともあれ、彼は原植物を、地中海の草原や岩山の斜面に実際に見出すことができるかもしれないと考えたのである。
もちろん、それは叶わなかったし、徐々に彼自身もかなわないことを自覚していったのだが――
今。目の前には、最も原始的な植物に極めて近いものが、群生している。
ゲーテの考えたスーパー植物とは全く逆。
むしろ――何もないといっていいほど、虚無。
根元が少し膨らんでいるだけで、上部はひたすら二分岐するばかり。
ゲーテに言わせるならば――「光と空気による洗練が足りずアナストモーシスが不完全である」とでもいうだろうか。
ゲーテは癒合のことをアナストモーシスと言った。
そして――どうも分岐を繰り返すものが癒合して葉状になったと考えた節がある。そして、花の各構成要素や子葉もまた葉由来である――と考えた。植物における連続相同の概念である。
そして、これはツィマーマンのいうテローム説ににおける平面化と合着による葉形成に似ている。
——暴走しすぎた。
息が荒くなっているのが、わかる。
心臓が飛び出しそうで、空気がキンキンに冷えているのか、燃えるように暑いのかわからなくなった。
そして、拡大写真を撮り続けるしかなかった。
リリィは軽く肩をすくめて、「え、これが?ってかここ、鉱山廃水よ?」と小さな声で言った。
アリアも、どう反応すればよいのか分からず、ケイの様子を見ている。普段から好奇心旺盛なケイがこれほどまでに興奮するのは、なにか深い理由があるのだろうとは思うが、目の前にある植物・・・そもそも植物なのか?はあまりにも地味で、二人の感覚には全く伝わってこなかった。
緑のちりめんじゃこ、というサイズ感。
「カメラ!後ドローンも出して!温泉の全体を映したい。これは本当に大発見だよ!」
ケイはザックからメスを出して、現場で解剖を始めている。
「夢みたいだ、こんなものをこんな時代に見れるなんて・・・」
アリアは苦笑しながら、モヤシにも満たない緑の糸くずをどうにかして魅力的に映せないかと悪戦苦闘している。
「これ、そもそも何?どこがポイント?」
「何なのかは今調べてる、けどよくわからない!予想はついてるんだけど」
「DNA簡易チェッカーはなんて?」
「まだ結果出てない。酸素濃度とCO2濃度って測れるやつある?」
「持ってきてない!」
そう騒いでいると、リリィが
「酸素と二酸化炭素だったら、検知器がヘリにあるわ」
と、検知器を手渡した。ついでにパルスオキシメーターも持ってきていたけど、それはいらない。
水面付近まで近づけると、
二酸化炭素濃度 4000ppm
酸素濃度 27%
という値を示した。
「二酸化炭素はやっぱりすごく高い。酸素濃度はなんか低めだけど…火山ガスが地表付近に溜まってる?やっぱりそういう環境か」
「どういう環境??」
「この温泉のまわり、シルル紀からデボン紀の大気に近い」
「つまり、もっと古いタイプの植物かもしれないってこと?」
・・・と話していると、DNA簡易チェッカーが計測完了を示す電子音をならした。
系統解析結果を見たケイは、さらに色めき立った。
「簡易チェッカーは全ての現生維管束植物の外群って言ってる!ツノゴケよりは維管束植物より。ステム維管束植物でよさそう。ヤバいよこれ、これだけで一回時空旅行する以上だよ、しかも何種類かいる!」
DNA簡易チェッカーというのは、環境DNAから、現生する種なら目レベルでどのグループに一番近いものがいるのかを判定する分析機器だ。はじめは高額だったが、その場で類縁関係をザックリと判定してくれるため急速に普及し、今では誰でも買える値段になっている。
「・・・!!!!大発見じゃん!ってことは、そういうことだよね⁉」
アリアは全て察する。簡単においそれと断言することができないこともよくわかる。本当に、この時代からは未知のものを見つけたのだ。多分、より古い時代に栄えた系統の生き残りなのだろう。
しかしながら、その分類は原始的すぎるゆえに極めて難しい。
「維管束植物・・・?ツノゴケ・・・?ステムってなに?」リリィには何も伝わっていない。
ここで生まれ育ったリリィにとって、日常的すぎて何も特別なことではなかった。酸素濃度が高いこの惑星では、どんなに寒くても火気厳禁だ。ボイラー?とんでもない。家庭で手に入る値段のものは簡単に爆発する。風呂焚き?まっぴらごめんだ。庶民が温まるために頼る場所と言えば、天然温泉。
そういうわけで毎日のように温泉に浸かっているリリィたち植民地の住人にとって、この汚い温泉モドキの何がそんなに面白いのか、まったく理解できない。こうした温泉はどこにでもあり、珍しくもないのだ。しかもここは、自然の温泉ですらない。自然の温泉はここで湧き出ている水のほんの一部に過ぎず、流量の大部分はメタン採掘用の排水が流れているだけだ。濁って腐臭を放つ水の底には、パイプが突き出している。
ここに彼女たちがそんなに興奮するようなものがあるとは、とても思えなかった。
ましてや温泉にはこういう小さなモヤシのようなものが生えているのがあたりまえだ。青ヒゲとか、湯ヒゲといわれている、ごく当たり前のものだ。綺麗な緑色だけれど、温泉に生えているから湯の華の一種だと思っていた。
「うちのお風呂にも生えてる、ただの湯ヒゲにしか見えないわよ・・・本当にすごいの?」
二人の目が光り、二人そろってリリィを真剣に見つめる。
「湯ヒゲって、何」
普段ならげんなりしつつ通り過ぎるような汚い温泉モドキだが、そこで興奮しているふたりの様子はなんとも面白おかしかった。
ようやく温泉を発ち、ヘリコプターが離陸する。
氷河の上を暫く飛行すると緑が徐々に息を吹き返し、町がみえてきた。
町に戻ってきてから、乗り継ぎまではまだ2日もある。ここは空港から飛行機で1本なので、帰りに寄る可能性もあった。
そこで、住民に聞き取り調査を始める。
客が訪れること自体が珍しいこの街では、思わぬ来訪者に対して妙に歓迎的だった。
もしかすると、これから新たに金を落としてくれる相手になるのでは――と期待を抱いたのかもしれない。
石炭紀の森を題材にした動画を収録するためには、様々な森の姿や森の成長過程を記録する必要がある。洪水や大規模な倒壊、天然ダムの決壊などでつくられた裸地がどのくらいで森林と化するのかは、全く知られていない。先ほどのフライトでもたびたび再生途上の森が見られたが、それらが破壊からどのくらいの年月を経たものなのかはわからない。
そのため、聞き取りを念入りに行い、入植以来どこで洪水などの破壊イベントが生じ、どこの森が破壊から何年目にあたるのかを調べ上げる必要がある。
丁度いいことに、この街の人々は、皆小型機やヘリコプターに乗せられて空を飛んだことがある。
この惑星では、ありとあらゆる拠点が散在している。
航空機がなければ基地の確認もできなければ、隣の街まで移動することもできない。ちょっとした買い物、が数百キロ単位の大移動になってしまうことすらある。
さいわいなことに、この試される大地において洪水による植生の破壊はごく当たり前のことらしい。
そして、ときに数百平方キロメートルにもわたる大規模な洪水はよく記憶されていた。
「ああ、忘れられんよ……あのときは空から見ると、森の中に巨大な穴がぽっかり開いててな。そこに何十本も丸太が詰まってて、黒い水が渦を巻いてたんだ。『あそこが崩れる』って皆言ってて……ほんとに、二日後に湖になったよ」…こんなふうに、やや内容の解釈に困るものもあったが、より端的に「植民が始まった翌年の大洪水で森が全部流されたよ」「去年の決壊はひどかったな」という情報も多かった。
植民が始まってから30年の間に起きた80を超える洪水イベントが明らかになる。
これらを辿っていけば、リンボク類の謎めいた森がどのように構成されるのかがわかっていくはずだ。
リリィは、「おたくのお風呂に湯ヒゲ、ないかしら?」と、顔なじみの隣人たちに聞いて回っていた。
「あるに決まってるじゃない」「そっちにだってあるだろ」
そう返されるのは大抵このパターンだった。まるでそんな質問がばかげているかのように。
中には「それを生やして平気でいられるような怠慢な人間に見えるか?」と、眉をひそめる者までいた。
風情があっていいじゃないか、などという反応は一つもなかった。
この惑星に「風情」なんて言葉はない。
あるのは、火傷しない湯と、爆発しない燃料と、死なない程度の安全。
それがすべてだ。
前回は石炭紀が寒い話をしましたが、まだまだ寒い話が続きます。
石炭紀後期は顕生代(カンブリア紀からこちら)において最も寒い時代のひとつです。赤道にまで山地には氷河が発達しました。リンボクの群生する湿地性の森林は氷河期の寒冷期に発達し、温暖期には縮小しました。これは新生代氷河期の逆で大変興味深いです。そのため、本作は最終氷期なみの寒さに襲われた時代を描いています。
*本作は未来技術を除いては化石から知られる証拠をベースに書いています。どうしても仮定せざるを得なかった内容と嘘に関しては創作と後書きに書くことにします。
温泉は創作です。湯ヒゲたちについては時代は異なるものの実在する化石植物です。(次回以降紹介)
温泉の”生きた化石”植物の元ネタはライニーチャートです。デボン紀のライニーチャートは、温泉に形成された地層で当時としては時代遅れのシルル紀型植物を保存しています。
そうしたレフュージアに生育する生き残りは、その後も長らくいたのだろうと思いこのエピソードを作りました。
石炭紀の氷河下のメタンは創作です。
アイデアはすぐ思いつきましたが証拠がなかなか見つからず悩みましたが、そう仮定した理由について書いてみます。石炭紀は地球史上で最もメタンの多い時代でした。巨大な湿地帯が主な発生原因です。そして、大規模な海退が起きました。氷河の縁で栄えた生物遺骸はしばしば氷河に呑まれ、大量のメタンを発生させたのではないかという仮定に基づいて書いています。
おまけ:*石炭紀後期の熱帯林崩壊イベント*
石炭紀後期(ペンシルバニアン亜紀)の中期-後期間(モスコビアン末期~カシモビアン初期)に生じた絶滅イベントです。このイベントでユーラメリカのカレドニア山脈-アパラチア山脈沿いに発達したリンボク類は全滅し、乾燥化が進行してワルキアなどの針葉樹が幅を利かせるようになります。湿地林はプサロニウスなどの木性シダ類やコルダイテス類、木性トクサ類、そして最後に残ったリンボク類であるシギラリア(フウインボク)によってしばらく存続するものの、石炭産生量は大幅に減少、そして酸素濃度が上昇し温暖化する中で姿を消していきました。
東アジア(カタイシア)ではリンボク類は絶滅を免れ、二酸化炭素がふえ温暖化が進むペルム紀においても、長い期間にわたってリンボク類による石炭が堆積しました。興味深いことに、巨大昆虫はユーラメリカ(ヨーロッパ+アメリカ)においても東アジア(カタイシア)においても存在し続け、この絶滅イベントと大気組成の変化によって滅んでしまったわけではありません。
⁂「20㎝のゴキブリ」はリアルな比喩表現です。生き物知らない人ってサイズをオーバーに言うよね、50㎝のムカデとか。