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第四話 宇宙旅行

I. 宇宙空港のこと


宇宙空港の天井は、巨大なドームになっていた。

人がごった返し、背の低い私は、上を見上げることしかできなかった。

大荷物もあって、人に酔いそうだ。

しかしそれでもなお、胸に浮かぶ言葉があった。

「神聖」──

かつての教会や神殿は、こんな感じだったのだろうか。

どこかカイロウドウケツを思わせる、透明で複雑なトラス構造。

太陽から降り注ぐ直射日光は建材の表面で反射と屈折を繰り返し、空間全体をすっぽりと、木漏れ日のような柔らかな拡散光が包み込む。


目を凝らせば、透明な建材の上を、何かが動き回っている。

一つ気が付くと、どんどん見つかる。100を超えたところで数えるのをやめた。

最初は虫のようにも見えたが――よく見ると、ロボットだ。

建材には、塵ひとつ積もっていないし、ひびや黄ばみすらみられない。

おそらく、あのロボットたちが修復と清掃を常に行い続けているのだ。

まるで、細胞骨格と、その上を走るモータータンパクのようだ――ケイはそう思った。


高分子キチンやセルロースメガフィラメントを用いた、透明な高強度有機建材は、特に珍しいものではない。新市街の建物は大抵それでできているが、二十年もすれば建て替えが必要になる。

自己修復する建物も珍しいものではない。

”礁”こと、旧市街を構成する巨大建造物もまた、自己修復能力を持ったセラミックコンクリートがひび割れを消してしまう。数百年にわたって持続しえた理由はそこにある。


だが、目の前のこの建築は、全く違う。

修復し、再生し、常に更新し続ける――まるで生きたシステムーー育っていく建造物。


こんなの、見たことがない。

私は思わず、周囲をきょろきょろと見回してしまう。

そして、ふいに、声がこぼれていた。

「人類は、まだこんなもの作れるんだって感じだ」


アリアがすかさず返す。

「そう。これからなのよ。……ここ、初めて?」

「うん、白亜紀のときは格安だからって、何時間かかけて地方空港まで乗りに行ったんだよ。ここからの便はちょっと割高だから。地方まで夜のうちに移動したほうがだいぶ安かったんだ、給料1週間分くらい」


私は少しだけ眉を寄せた。

言い方によっては嫌味に聞こえたかもしれない、と思ったからだ。


でも、アリアはむしろ、誇らしげに微笑んだ。

「じゃあ、昼間だけじゃもったいないわ。夜になると、建材に光がきらめいて――本当にきれいなのよ」


あの複雑なトラスに光がともる様子は、想像するだけで息を呑む。

帰りの便は夜着になるらしい。今からでも、楽しみだ。



2. ときに繋がる場所

忘れていたが、こういう場所を前にも見たことがあった。


それは、忌むべき封印された記憶――

軽々しく「格安で宇宙に行ってみよう」と思い立った挙句、軌道エレベーターに一週間閉じ込められ、しかも体調を崩して帰ることになった、あの馬鹿馬鹿しい夏の日々だ。


どうして忘れていたのだろう。

あまりにもつらい思い出だったからか、それとも、あまりにもくだらなかったからか。


あのときも、天井の高い構造物の中を、無数の整備ロボットが這い回っていた。

その様子が、いまふたたび目の前にある。


――そう、ここには、宇宙が降りてきている。


こんな素晴らしい建造物でも、空港の構造そのものに気を取られている人々はわずかだった。

普通の人間にとって、空港は通過点であって、目的地ではない。

透明感で統一された宇宙航路のターミナル。

巨大なホログラムディスプレイには、びっしりとフライトスケジュールが並び、見上げる人々の顔ぶれも多様だ――きっちりとスーツに身を包んだビジネスマン、旅に浮かれた観光客、あからさまに油の染みた作業服のままの労働者まで。

行き先を告げるアナウンスは絶え間なく響き、靴の立てる音がざわめく。

「L1マーストリヒチアン第二ゲート便、出発十五分前。ご搭乗の方は──」 「木星航路は遅延発生中、乗り継ぎ予定の方は──」

宇宙空港で流れるのは、様々な地質年代。

そう、この宇宙空港の先にあるのは、ラグランジュ点に並ぶ時空の扉——

それこそが、衰退を続けた人類に再興の力を与える、富の源なのだ。

地上の鉱山は殆ど掘りつくして、もう何十年も前に閉山している。

いまや、超時空ゲートからくる資源がなければ、ボールペン一本作ることすらできない。

超時空ゲートができるまでは火星からの資源で何とかやりくりしていたらしい

――が、輸送コストや輸送時間的にコストが見合わず、めっきり見なくなったのだという。


それくらい、私たちは超時空ゲートに依存している。

まさに、化石燃料という形で過去を前借りした、かつての人類のように。



3.チェックイン

チェックインゲートは、いくつかの区分に分かれていた。

「学術関係者」「報道関係」「商用技術者」「観光」「一般」──

アリアは迷いなく「学術関係者レーン」へと進んだ。

私はそのまま彼女についていこうとしたが、手前で係官に制止された。

「そちらのレーンは、教育機関に所属中の方または研究機関登録者に限られます」

「……えっと、一応、学籍は3年前までありました。生物系の学位は取ってます」

「ですが、現在は所属が確認できません。失礼ですが、一般レーンをご利用ください」

静かな口調だったが、揺るぎはない。

私は小さくため息をついて、隣の「一般」レーンへ足を向けた。

──ああ、そうか。私はもう、どこにも所属していないんだ。

どこにも、というのは正確じゃない。

でもこの世界において、“個人”というだけでは、何の資格にもならないのだ。


アリアのほうを見ると、やはりというか、彼女も止められていた。

「火星圏出身の方は、追加照合が必要になります。申し訳ありませんが、出生記録とDNA登録コードを提示願えますか」

「またそれ? いいけど、何回出せば済むのよ……」

そう言いながらも、アリアは端末を操作してコードを表示した。

係官がそれを読み取って、照合。

数秒の間を置いて、ゲートが開いた。

「ありがとうございます。火星圏ご出身の方は、地球渡航規制と生体識別照合の二重確認が必要となりますので……」

「わかってる。いつものことだもの」

彼女はそう言って、ちらりと私の方を見た。

私も同じタイミングで、一般レーンのゲートをくぐる。

──ああ、変な話だけど、ちょっと嬉しい。

止められたのが、私だけじゃなくて。


それでも、彼女の足取りは軽かった。

正面ロビーで合流すると、アリアはまるで何事もなかったかのように言う。

「やっぱり、ケイも引っかかった?」

「うん。学生証、期限切れてた」

「わたしはDNA照合で待たされた。地球ってほんとに面倒よね」

「……火星人がいう?」

アリアは笑う。

「ま、そうね。火星なら今頃銃口突き付けられてるわ」

「冗談?」

「半分だけね。──もう半分は、回想」


そう言ってアリアは視線を逸らした。

彼女の表情は変わらなかったが、その声の温度が一瞬だけ下がった気がした。


4.

残念ながら、石炭紀への直行便はない。

直行便があるのはジュラ紀と白亜紀への数航路のみである。

「石炭紀は需要が少ないからね」とアリアは内心で苦笑した。

彼女たちの行き先はモスコビアン期。そこへ行くには、まず中軌道を回るサイド4宇宙ステーションに立ち寄り、数日後の超空間ゲート便に乗り継ぐしかない。今回は2日待ち。そして、宇宙ステーションから月に1度しか出ない「モスコビアン第1ゲート便」を逃すわけにはいかなかった。


目当てのサイド4便の出発情報が聞こえてきた。

「前便の遅延によりサイド4宇宙ステーション便、ゲートC-12に変更」

はっと気づいてC-12へと足を速めたが、同時に「離陸準備まであと約一時間」と聞いてほっと息をついた。

「こういう遅延があるから直行便は流行らない」とぼやいた。

遅延が発生すると直行便はしばしば目的地に着くことができなくなり、宇宙港に乗り継いで次の便を待つ羽目になる。



駐機する旅客機の中でひときわ目立つのが宇宙旅客機「ストラトソアラー」

——宇宙に行くためのもっとも一般的な手段として普及している大型旅客機だ。

陽光を浴びて、機体は白く輝いていた。

双尾翼が影を落とし、24時間稼働するエンジンは、どうん、どうんと鼓動のような重低音を響かせている。

鶴が鎌首をもたげるようなフォルム。

白地に淡い灰青のパネルラインが走り、どこか静かな誇りを感じさせる。

背中は正中線に沿ってこんもりと盛り上がり、前傾したような印象を与える。

そして、なんとそこが分離して貨客室を積載した再突入型宇宙機として機能するという、奇怪な構造をとっている。”翼だけ”の機体はいつか見てみたいが、整備基地に直接帰るらしい。


ランウェイでは巨大な可変翼がゆっくりと開閉し、動翼をひとつひとつ動かしてチェックされていた。

主翼の基部に収められた、2つのエンジンポッド。

サメの頭を思わせる可変インテークがゆっくりと、パクパクと顎を動かしている。

旅客機だが、見た目は戦闘爆撃機に近い。

飛ぶことに洗練された結果の収斂、あるいは戦争のための技術の応用だった。

事実、隕石爆撃に対抗するための迎撃機としても運用されている、とも聞く。


私は思わず息を止めていた。

その流線型の機体を視線がなぞり、手もとも無意識に動いてしまっていた。

「主翼の付け根、LERXのカーブが少し違う。──あれ、最新ロットだ。初めて見た。」

その声がつい、上ずっているのに気づく。

「…いわれてもわからない」

「ほんのちょっとの違いだけど、大違いだよ。とくに、機首分離時の迎え角が変化する。多分、分離後の後部スラスター制御応答が改善されてる。それに合わせた微調整だと思う。──多分だけど。」

「……私にはさっぱりだけど、要するに改善されてるってことね?」


「そ。ちょっとした姿勢制御スラスタでも、変えるってのは簡単じゃないんだ。」

「こういうときのケイ、本当に楽しそうだよね」

「こんなの見せられたら、当然だよ」

そんな姿が、アリアの構えるカメラに映る。

アリアは思う――多分意識はしていないのだろうけど、ケイは、とても感情豊かだ。「感情なんて脳が生み出す情報の重みづけに過ぎない」なんて言いだしそう、と思われがちなのに。いや、実際いうのだろうけど。いや、むしろ、だからかもしれない。カメラのフレームに収まるケイは実に「自然に」楽しそうだ。「これはどこかで使えるかも」と思いつつ映像をチェックする。


だが、ケイはそれに気づいたとたん、急に言葉を止め、顔を真っ赤にして振り返った。

「ごめんね、いい表情してたからつい…」

アリアは申し訳なさそうに笑いながら、そっとカメラの削除ボタンに指を添える。

ふだん、ケイはこういう時何も言わない・・・いやむしろ、とっさに言い出せないのだ。

けれど、その時ばかりは、違った。

「い、いいよ!消さなくて!」

「どうせ顔出しするんだし…その…別に撮られるの、嫌じゃないから…」

私は思う。

もうどうなってもいいや。

動画企画に乗った時点で、私のプライベートは死んだのだ。


「Attention, passengers boarding Strat-Soar 349C, destination Side 4 Orbital Station. Final boarding call at Gate C-12.」「サイド4宇宙ステーション行き、C-12便。最終搭乗案内です。乗客の方は搭乗通路へお進みください」

音声は同じ文を三か国語で繰り返した。

興奮で感覚がいかれてしまったのだろうか、声というよりも、遠くの鐘のように聞こえた。


アナウンスが終わると、前方の乗客たちがゆっくりと動き出す。

鼓動が、遅くなった気がした。


フライトデッキへの通路に立ったとき、ふと足が止まる。

透明な隔壁越しに、搭乗ゲートへと伸びる渡り廊下が見えた。


その奥で、ストラトソアラーのエアロックが静かに、息をひそめていた。


「…行こう」

一言だけ言って、私は一歩、踏み出した。


ついに、宇宙に旅立つ。

ストラトソアラーの機内は、いわゆる“座席”ではなかった。

乗客たちは、それぞれ専用のライフカプセルに収容される。

全周囲モニターに囲まれた、ラグビーボール型のシェル。

高G対応の医療用クッションに、リブ付きの骨格支持材。

アナウンスに従って力を抜くと、背中がゆっくりと沈み込んでいく。

見た目はそれなりに未来的だが、発想はだいぶ古い。

汎用ヒト型血栓兵器、的な。軌道戦士とかにも近いものが出てくる。

まあ、古すぎて誰にも通じないネタなのはわかってる

――もう何世紀前の作品だよ。


カプセルが閉じられる。

密閉音の直後、世界から音が消えた。

無音。気圧すらなくなったかのように、耳の内側がしんと静まり返る。

呼吸音すら、自分のものではないようだった。

そして、カプセルの全周囲ディスプレイが、ぱっと光を放つ。

気づいたときには、私はサンゴ礁の中にいた。

あたりを見回せば、海。

まるで古生代の海の中に飛び込んだようで、水の感触すら錯覚するようだった。直角貝が泳ぎ、ウミユリが腕を広げ、四方サンゴが角のように林立している。どこまでも緻密で、色彩豊かで、そして静かだった。


もちろん実写である。


アリアから、機内通信でメッセージが届いた。

「これ撮ったの私。ギャラ弾んだわ」と書いてあった。

一瞬、映像の中のサンゴ礁を見つめて、目を細める。

そしてひとこと、「さすが」とだけ返した。

それだけで、十分に意味は伝わる。


映像は“潮が引くように”消え、滑走路のライブ映像が映る。

リアルタイムで機体全周の視界が投影されており、自分が航空機そのものになったかのようだ。

ただ、下方視界はオミットされていた。高所恐怖症の人に配慮してだろうか。

少し残念だ、と思ったが、操作次第らしい。

私は無言でコンソールに指を伸ばし、下方カメラをオンにした。

少しだけ、笑みが漏れた。


ストラトソアラーが、静かに滑走路を走り始める。

原子力ジェットが唸りを上げ、床下から低い震動が這い上がってくる。


ライフカプセルの中で、私は身じろぎもせず、その震動に耳を澄ませていた。

リブ付きの骨格支持材と高G対応のクッションが、背中をぴたりと支えてくれる。

全周囲モニターには機体外の風景──モノクロームに沈んだ滑走路が、じわじわと後方に流れていた。


可変翼は大きく広がり、フラップがわずかに動くたび、陽の反射がちらつく。

なのに、アクチュエーターの音がしない。

唸るエンジンの低周波だけが、内臓の奥を叩くように響く。


──こんなに静かだったっけ。

以前聞いた「機械音」は、演出だったのかもしれない。


やがて機体の周囲が、流れるように加速しはじめた。

轟轟としたタイヤ音とともに、体がゆっくりと背もたれに押しつけられていく。

今、私は機体そのものの加速を、純粋に感じている。


内臓が、一瞬ふわっと浮いた。

タイヤ音がすっと消え、巨体はふわりと宙へ舞い上がった。

耳の奥で、どうん、どうん──とエンジンが脈を打つ。

私の鼓動とわずかにずれていて、それが妙に生々しい。


見下ろせば、地上の風景はみるみる小さくなっていく。

都市は小さな粒に、山並みは細かな結晶のように変わる。

ライフカプセルの全面モニターに、機体外部の映像が投影されていた。


まるで鷹の目だ。

都市も山も、緻密な模型のように見える。


カプセル内のデータフィードが一瞬、点滅する。──アリアからのプライベート通信だ。


「緊張してる? こっちは慣れっこだけど、離陸だけはやっぱりドキドキする。

ふわっと浮きすぎて、風にあおられそうに思うのよね」


私は短く返す。

「可変翼の改良で、離陸速度が下がったからかな」


雲を切り裂き、青空へと突き抜ける。

光が一気に開ける。

それまで乱反射していた白い光が、突如として青に変わる。

雲の上。

そこは静かすぎる世界だった。

風は鳴かず、振動も減り、

ただ、白く広がる雲海の上を、機体は滑るように進んでいた。


遠くに、地球の曲率が見えた。

高度が上がるにつれ、空の色がじわじわと濃くなる。

青、藍、そして群青──

視界の上端に、宇宙の闇がじんわりと滲みはじめている。


そのときだった。

耳の奥を満たしていたエンジン音が、ふっと途切れた。

圧倒的な静寂。

──音の壁を、越えたのだ。

「速さ」という感覚は、不思議とない。

加速はすでに始まっていたし、機体はほとんど振動しない。

あるのはただ、空が深くなっていく色の変化と、

視界の端から宇宙が染み出してくる、この奇妙な現実感だけだった。


地球の空を突き抜けながら、私はその"静かさ"に呑まれていた。

身体はカプセルに固定され、動かない。

なのに、視界だけが、重力から解放されたかのように上へ上へと延びていく。


これだけなら、ただの超音速旅客機でも似たような演出はできる。

──でも、これは本物だ。

この機体は、軌道を目指す旅客機なのだ。



<これより外部との通信が一時的に途絶します>


さらに数秒。

可変翼が静かに折りたたまれていく。

機体は、後退角の鋭い三角形へと変貌し、空気を裂く矢のような姿になる。


そのとき、アナウンスが流れた。

〈皆様、これより“熱の壁”に入ります。以後、周囲の空気がプラズマ化するため、外部との通信は遮断されます〉


次に気づいたのは、主翼の表面が妙に滑らかに見えたことだった。

その輪郭が、かすかな赤いもやに包まれはじめる。

──空力加熱だ。マッハ3を超えたのだ。


空気との摩擦、そして断熱圧縮による過熱。

この速度域に入ると、空そのものが、機体を焼こうとする。

それに対して、主翼のコーティングがプラズマ化し、周囲を薄く覆うことで極端な加熱を防ぐ。


いまでは、軍用の原子力機では当たり前の技術だ。

発想自体は21世紀初頭にはすでに存在していたという。

当初は「プラズマステルス」と呼ばれたらしい。

だが、実用に足る出力と制御精度が得られたのは、ずっと後の時代だった。


ストラトソアラーの原子力ジェットは、飛行中ずっとプラズマ制御を維持できるだけの電力を供給する。

かつて“熱の壁”と呼ばれたこの領域も、いまではただの通過点にすぎない。


機体の外殻が、まばゆい光の薄膜に包まれる。

その内側で、私は身じろぎもできないまま、ただ空を──空のさらに上を──見つめていた。


──この先にあるのは、空ではない。宇宙だ。

空の色は、徐々にその深みを増していく。

蒼から、青。青藍から、鈍い紺へ。

成層圏特有の、澄んでいて、それでいて底の見えないような、凍えるような青。

地平線には、わずかに地球の丸みが浮かびはじめていた。

下方には雲海と薄く光る大気のベール。上空にはもう、星がにじみ始めている。


──地上と宇宙の、境目。

通常の航空機が到達できる、ほぼ限界の光景。


けれど、ストラトソアラーはまだ飛び続けていた。

全面モニターの端にある高度計が、30kmを超えたと告げている。

私は目を細め、外の暗い空を見上げる。


ここは、空気が薄く、通常のジェットでは推力が失われる領域──高高度の限界圏。

だがこの機体には、それを超える仕組みがある。

投下されたのは、軽量で膨張性の高い特殊昇華冷却材だった。

正確な化学構造は機密だが、宇宙空間でも利用可能なほど極めて高い断熱吸熱性を持ち、また炉心に直接注入可能な点が評価された──いかにも、もと軍用機らしい発想だ。

微細な粉末が一瞬で昇華し、原子炉の熱を奪いながら高温ガスとなって膨張する。

その膨張圧が、推力をもう一段階、押し上げる。

体にかかる加速Gが、一つ、増した。

背もたれに押し付けられ、息が浅くなる。だが恐怖はなかった。

冷却剤の量的制限こそあれ、この設計なら、理論上、宇宙空間すら同じエンジンで飛べる。


あの古いアニメに出てきた、人型に変形する戦闘機。

あれも、たぶんこんなエンジンだったんだろうな。

けれど──いや、どうせ誰にも通じない。

私はほんのわずか、口元をゆがめた。



変形こそしない。だが──この宇宙旅客機ストラトソアラーもまた、負けず劣らず大胆な機体である。

なんと、機首にある乗客ユニットは、ドーサルスパインごと機体から分離し、単独で宇宙航行が可能な再利用型宇宙機になるのだ。

シャトル型とも違い、構造の中枢をまるごと分離・運用する発想は、もはや旅客機というより「戦略可変モジュール」に近い。


ちなみにこのユニット、隕石迎撃ミサイルと換装可能だという。

というか、ミサイルを有人宇宙船に置き換えたのが旅客機型といえる。

用途は、火星圏からのIPGM──InterPlanetary Guided Meteor──の迎撃。

数百機が配備されていると聞くが、軍用型はなかなか見る機会がない。いつかお目にかけたいものだ。


その瞬間、機体がわずかに振動した。

直後、表示が切り替わる。

後方カメラに映るのは、胴体部と主翼が後方へ遠ざかっていく光景──

私たちのユニットは、すでに切り離され、単独飛行に移行していた。


そして、スラスターがゆっくりと向きを整える。

ドーサルスパインに内蔵されたメインエンジンが、静かに点火する。

──引力に、最後の別れを告げて。


一方、機体後部は、耐熱コーティングの残光を帯びながら成層圏へと滑空を始めていた。

ゆっくりと姿勢を変え、再突入へ向けて降下していく。

視界の外へと退場していくその影は、まるで──

大きな手が、遠くから手を振っているようだった。


音はなかった。

衝撃もない。

カプセル内では、あらゆる振動が中和され、感覚の基準が消えていた。


ただひたすらの、沈黙。

なにも起きていないかのような、無の時間。


──そして。


重力が、失われた。

端末を取り出すと、それはふわりと指先から浮かび上がった。


わずかに笑みがこぼれる。

そうだ。宇宙に出たのだ。

______________________________________________

II 宇宙ステーション編

1.ドッキング

サイド4宇宙ステーションが、静かに姿を現した。

地球のすれすれを回る、白く光る巨大な環。

直径1キロメートル。遠心力により1Gの疑似重力を生み出している。巨大な環状構造が、地球のすれすれを周回しながら、太陽光を反射して白く光っていた。


その外観は、一見して印象的だ。だが、その構造はさらに複雑で合理的だ。


ドーナツ状の外周部は時速252キロで回転している。遠心力による疑似重力再現のためだ。

外周部に相対速度を合わせて宇宙船を直接接弦させることは困難を極め、疑似重力の再現と接弦の容易さにはトレードオフの関係がある。


しかしながら、ステーションの中心部、回転軸付近は遠心力がほぼゼロである。

そのため、"静止領域"と呼ばれている。宇宙船はこの静止領域に向けて接近し、ドッキングする。だが、ここには一度に一隻しか接続できないという制約がある。


そこで導入されたのが、桟橋──ドッキングタワーと呼ばれる可動式の塔だ。


長さ50メートルのこの塔は、ドーナツ状のステーション中心部から真っ直ぐに立ち上がる。宇宙船が近づくと、レーザーにより誘導されながらバーニヤスラスターによって角度が微調整される。

最後には機体を支えるためのアームが静かに伸び、船体をしっかりと掴んだ。


振動が止まり、密閉された機内に、ほっとした空気が満ちた。


だが、それはまだ序章にすぎない。


宇宙船を受け入れた桟橋は、ゆっくりと外周へ向けて倒れていく。静止領域から、回転する外縁へ。

遠心力が徐々に働き始める中、別の桟橋が立ち上がり、次の船を受け入れる準備を始める。


倒れた桟橋は、ボーディングブリッジ──放射状に内向きに伸びた橋と接続される。これらの橋は、円盤状に連結されており、構造全体の強度維持にも関わっている。


接続時には、アクティブダンパーが衝撃を吸収し、客室モジュールの移送準備が整う。

宇宙船の客室はモジュール式で切り離され、超伝導体を用いた磁気浮上レールにより、無音のまま滑るように外周へと運ばれる。ようやく、ステーションへの搭乗が可能となるのだ。


外周でようやく搭乗モジュールが開放され、宇宙ステーションに乗り込むことができる。


初めてこの仕組みに触れる乗客は、少なからず戸惑う。

だがアリアは、すっかり慣れた様子だった。ただのじれったい手続き。そう割り切っている。


一方で、ケイは明らかに違った。


顔を上げ、あちこちを見回し、目を輝かせながら情報を詰め込んでいる。

案の定、戸惑うどころか、むしろ興奮気味だった。


とはいえ、まだ旅の半分にも満たない。

サイド4宇宙ステーションでの乗り継ぎには二泊を要する。

そのうち一日は、税関と検疫に費やされるのだ。


2.検疫、税関、消耗

ステーションに足を踏み入れてすぐ、最初に待ち構えていたのは――検疫だった。

古生代の生態系を守るため、現代から持ち込むものすべてを徹底的に滅菌しなければならない。着ている衣服から手荷物、そして身体そのものに至るまで。検疫の手続きは個室で行われる。

人々はまるで厳粛な儀式に臨むかのように、静かに長蛇の列をなしていた。

列に並ぶ誰もが、黙ったまま書類を確認し、手元の小さな端末に視線を落としている。

咳一つ、靴音ひとつさえ、誰かの集中を破る気がして、静けさが広がっていく。

そう――ここまで来る者たちは、ビジネスマンか、すでに覚悟を持った旅人ばかりなのだ。

「終わったら、下剤でお腹の中までクリーンにされるって聞いたけど…」

ケイが控えめな声で言うと、アリアは思わず顔をしかめた。

「ああ、あれがあるってこと忘れかけてた。これが古生代旅行が流行らない理由ね。」

アリアは小声でつぶやきつつ、視線を長い列に戻した。



一か月前に発送しておいた膨大な荷物は、すでに宇宙港に到着している。

カメラやドローン、センサー類、照明機材といった撮影用の装備に加え、撮影用の小道具や説明用の模型、滞在期間中の食料や日用品まですべてリストアップされ、税関と検疫のために丁寧に仕分けられている。膨大な量の撮影機材や滞在用物資を持ち込むため、申告手続きはきわめて煩雑だ。

撮影機材は150㎏にも及び、1か月にもわたる滞在に必要な食料はさらに莫大な量だった。

「……これ全部、お二人で?」

最初は税関職員も目を見開いていた。

だが、アリアの顔とパスポートを見ると納得したようだった。

「これは…まるで小規模な映画撮影隊ですね」

「ええ。すべて、クオリティのために必要なものです。」

すると職員はにこやかに笑みを浮かべた。

「次作、期待してますよ。息子がファンでして。是非楽しんできてください」


ケイは機材のリストをしげしげと眺めながら、わずかに目を輝かせている。

「カメラ、もう一台増やしておけばよかったかな?」

「これ以上増やしたら私たちが持ち運べなくなるわよ。」

アリアはため息をついた。税関処理は本当に、丸一日が費やされた。


税関での手続きが終わった頃には、すでに夜が訪れていた。

検疫所で下剤を渡され、すべてが「クリーン」になるまで長い夜を過ごす羽目になる。

検疫所の簡素なベッドに、二人並んで転がる。

消灯時間が来るとただひたすら静かで、しかし時折、誰かの呻き声だけが遠くから聞こえてくる。


ケイはベッドの上で、丸まった体勢のまま、かすれたような声でぽつりと言った。

「これ、ちゃんと撮っとけばよかったかも……過酷な旅の裏側ってやつでさ。」


アリアは隣で顔を横に向ける。照明の暗い中でも、ケイの無表情に近い顔が、どこか無防備に見えた。


「視聴者に、私たちの悲惨な姿を見せるつもり?」

くすりと笑いながら、アリアは返す。


ケイは、少し間を置いてから、「でも、ネタにはなると思うんだけど」と、真顔で続けた。


そんな話をするには、あまりにも情けない夜だった。

それでも、アリアはそっと笑いをこらえながら、ベッドのシーツを握りしめる。

隣にいるケイの存在が、かけがえのないもののように感じられた。

二人は、どちらからともなく、弱々しく、でも確かに笑った。


――翌日、二人はステーション内で遊ぶどころか、部屋からほとんど出ることすらできなかった。

検疫の影響で弱った身体を休めるため、胃腸に優しく、古生代仕様のプロバイオティクスが配合された流動食が食事として出されるが、その味は散々なものだった。宇宙港の技術は進歩しても、この分野だけは相変わらずのようだ。


ケイがスプーンを口に運びながら、首をかしげる。

「…これ、何の味?」

薄緑色のペースト。何かぐずぐずとした膜が浮いており、悪臭ではないがその・・・言いたくはないけれど一番近いのは草食動物の”臭くない系の”フンのようなにおいが漂っている。

まあ、ウサギの盲腸便みたいだという前評判よりはだいぶましである。

アリアも眉をひそめている。

「巷じゃこれ、「古生代のの虫がおなかに入らないように」って言われてるらしいね。全く笑えるわ」

「ボクたち自身が汚染源で異物なのにね・・・まったくどうして。」

――そう、私たちの腸内細菌は、古生代の環境を破壊する可能性がある。そのため腸内フローラを全滅させて、古生代の環境に害が少ない菌をかわりに植えつけるための食事――それが、これなのだ。


すると、アリアが喉の奥で一度、わずかに息を詰まらせた。

「ああ、そうだった。味の話ね……でも、味なんて、最初からないんじゃない?」

「人は被害妄想気味だと思うけど、これはまぁ、そう思うのも仕方ないか・・・」


胃腸の機能を「クリーン」にされた二人は、普通の食事ができるまで徐々に体調を整えなければならない。流動食を食べ終える頃には、疲労感も相まって、会話もほとんど途切れがちになる。


ステーション内には観光用の施設もいくつかあり、気晴らし程度のアクティビティも用意されていたが、二人にはどれも手の届かない世界だった。


「まあ、部屋でゴロゴロしてるのも悪くないかもね。」


薄暗い室内に、ただ端末の光だけが浮かんでいる。

ケイがベッドに寝転がりながら、ぼんやりとつぶやく。

アリアはノート端末を操作しつつ、苦笑して応じた。


「石炭紀に行けば、ゴロゴロしてる暇なんてなくなるわよ。今のうちに休んでおいたら?」

——古生代までの旅。

旅そのものが、すでに過酷だった。

はじまる前から、消耗がはじまっていた。


3.納棺

さらに翌日。

二人はいよいよ、超時空ゲートへ向けて出発することになった。


宇宙ステーションへの寄港は、回転軸付近にある「静止領域」で行われた。

だが、発進は違う。石炭紀へ向かう便は、ステーションの外周から出発する。


ラグランジュ点ごとに割り当てられた発進用ブリッジ。そのうちのひとつ──第18ブリッジが、モスコビアン行きの定位置だった。


搭乗橋は、外周へと伸びる整備用レールに直結している。

宇宙船はこのレール上で補給と点検を受けながら、ゆっくりと滑るようにステーション外縁部へ運ばれていく。

宇宙ステーションまでの旅に使われた《ストラトソアラー》は旅客向けの快適な機体だった。

だが、石炭紀──とくに時代を特定したピンポイント便となると、事情が違う。

目的地が絞られるほど需要は落ち込み、専用機を新造するほどの採算は立たない。


そのため、旅客の運搬には、もっぱら汎用の貨物ロケットが使われる。

貨物区画の一角に、人員用カプセル《スヴャーシ(связь)-7》を収めて運ぶのだ。


スヴャーシは、もともと軌道エレベーターや宇宙港での物資移送に使われてきた、信頼性重視の小型機。

極限まで容積を抑え、装備を簡略化し、人を「輸送する物」として扱うための設計だった。


オムツを履き、導尿カテーテルが挿入され、点滴を刺され、全身に電極が貼られ、灰色の耐圧ライフカプセルに押し込まれる。

カプセルの内壁は冷たい金属で、周囲には配管がむき出しになり、まるで軍用輸送機の貨物室のようだ。窓の外を見ることはできず、ただディスプレイに映し出される光景やカプセル間の通信に頼るしかない。

「……なんか、こういう狭い空間に閉じ込められると、逆にワクワクしてきちゃうんだよな。」


ケイが、端末越しにぼそりと漏らす。

無機質な視界。静寂。金属音。

そのすべてをまるで味わうように、彼女は目を細めていた。


アリアは手早く通信設定を整えながら、画面越しに静かに応じる。


「落ち着いて。ここからが本番よ。」


2人のカプセルは、それぞれ別々に格納されていた。

端末の画像だけが、互いの存在を知らせる小さな窓だった。


そして……始まった。

端末にうつるアリアが冷静に答えると、ケイは肩をすくめながらも再び目をディスプレイに戻す。

そして…始まった。

体がぐっと重くなり、拘束椅子のようなシートに沈み込んでいく。

この宇宙ステーションは、外周に向けた1G 相当の遠心力に加えて、放射状に突出したリニアモーター式の電磁カタパルトにより出港する宇宙船を加速するのだ。

その重みはどんどん強くなってくる。背中に何か当たって痛い。でもまだまだ重くなる。

カタパルトがもたらす3Gの加速度がカプセル内を襲う。加速度に対して横向きになっており、寝た状態でベッドに強烈に押し付けられる、というほうが感覚として近い。

肺の中の空気が、押しつぶされて、戻ってこない気がした。

声を出そうにも、出ない。目の奥で星が瞬いていた。

首もろくに動かせないが、視界の片隅に端末が映る。彼女もまた必死に歯を食いしばって耐えていた。

そう、この加速は、石炭紀に向けた最後の加速だ。

そんなとき、すっと荷重が消えた。無重力…

さっきまで自重に潰されそうだったのに、いっきに内臓がふわっと浮かび上がった。

…釣りあげられた深海魚のような気分だった。


端末に、「大丈夫?」とメッセージが来ている。

ふうん。端末越しに見えてるし、喋りかければいいじゃん。と思いながら、「無事」とだけ返事した。

正直言うと、本当に無事かはわからない。

しかし、どっちにしたって、同じだ。

もしだめでももう戻れないし、助けを呼ぶことすらできない。

このロケットは、機長もメディックもいない。

つまり、このカプセルを開けられる人間は、誰もいない。

そして、ここからはほぼエンジン燃焼を伴わず、微細なバーニヤスラスタだけで姿勢を保ちながら、超時空ゲートへ向かう。


棺桶のようなライフカプセルの中で、何日も、何日も、静かに漂い続けながら——。



4.漂流思索

無音。

宇宙は、静かだ。

動くものも、語りかけてくるものもない。

ただ、背後に──あまりにも巨大な存在、地球だけが、そこにある。


ラグランジュポイントまでは、約四日。

棺のようなライフカプセルに閉じ込められたまま、ひたすら、無人の空間を漂い続ける。


四日。

それが、このルートでの最短時間だというのだから、冗談みたいな話だ。

19世紀の航海からすればちょっとしたものだが、快適で高速な地球での旅に慣れすぎた私にとっては想像を絶するものがあった。


なにもできることがない。

窓はなく、カプセル内での活動も制限されている。

ディスプレイに映るのは、外部カメラのモノクロ映像。地球の影、暗い空、時折通過する光点。

私はただ、眠っては起き、端末の画面を眺め、また眠り、また読む──それを繰り返していた。


百年以上前の論文、教科書、エッセイ。

20〜21世紀の石炭紀に関する文献は一通り目を通していたつもりだったが、意外にも、18〜19世紀の記述は手つかずだった。

石炭が国家戦略の要だった時代。

あのころの科学者たちは、石炭紀という言葉に、文字通りの熱量を込めていた。


熱く、粗く、だが輝いていた。

19世紀の論文には、文章そのものに、書き手の“火”が宿っている。

精緻さでは劣るかもしれないが、教養と情熱と、そしてまだ見ぬ大地への想像力に満ちていた。


読み進めるほどに、20世紀後半〜21世紀の文献が、いかに整理され、脱臭され、そして忘れ去られていったかがよくわかる。

ある論文の記述は、21世紀末に再発見されるまでまったく引用されていなかった。

私の仕事は、そういうものを拾い上げることかもしれない、とふと思う。


外部カメラに接続された機体備え付けのディスプレイの景色も、ほとんど変わらない。

地球の周囲を周回する小惑星群が映し出されることもあった。

それらの資源用小惑星には、純粋な鉄で構成されたものが多くあり、地球圏の資源開発の命綱となっている。

だが、それらの鉱山小惑星の運営はほぼ火星企業が担っており、地球圏の宇宙開発が仮想敵国である火星共和国連邦・・・通称火連に依存している現状が浮き彫りになっている。

掘りやすい資源は地球上では軒並みすでに枯渇し、今やこの状況をどう乗り越えるかが課題となっていた。さらに安全保障上の問題も大きかった。

火連の小惑星輸送は、小惑星に姿勢制御用のイオンエンジンを取り付け、太陽の重力にアシストされながら地球を目指すことによって行われてきた。

つまり、火連側としてはそれらを地球に落とすこともまた容易である。(軍事用語としては、誘星爆撃(もしくはIPGM InterPlanetal Guided Meteor)という。)

そのため、その存在自体が火連の外交的な脅しになっているのだ。資源が枯渇してそれに頼らざるを得なくなってから、長らく地球は火星の言いなりになってきたのである。

ふと、ここまでの旅を振り返る。

――これは、私の旅なんだろうか。石炭紀には行きたい、そりゃ当然だ。

でも――今振り返ると、ここまで私にNoと言える瞬間は、なかった気がする。

──*──

アリアもまた、別のカプセルの中で、小惑星の映像を見ていた。

ぼんやりと、なにか言葉にできない感覚が胸の奥でざらついていた。


いつからだろう。

「誰かに見せるための映像」しか撮れなくなってしまったのは。


負けたんだ、と思うことがある。

しょっちゅう、ある。


私は火星で生まれ、火星で育った。

赤い砂、鉱山、軍靴の音。

建国者の遺志を継ぐと自称する独裁政権のもと。

競争することが当たり前で、誰かがいなくなることも当たり前だった。

それが普通だった。

火星人は、過酷な環境に身体ごと順応してきた種族だ。

長命で、老化しにくく、でもそのぶん老いも死も先送りされるだけだった。

宇宙の真空の冷たさには、どんな進化も勝てない。

義務教育に組み込まれていた軍事訓練も、いま思えば奇妙な風景だ。

教室の隣に射撃訓練場。地学の時間に弾道計算を習い、体育の時間に空挺降下。

それでも、みんな笑っていた。たぶん、笑う以外なかったんだ。

ちょうどそのころ、地球がやってのけた。超時空ゲート。

技術的には火星の方が進んでいたはずだった。太陽系外に人を送ったのも、火星だった。

でもゲートは、火星が夢見た星間航行を、笑えるくらい手軽なものに変えてしまった。

うちは零細貴族だった。家業は資源衛星の経営。祖父の代から、宇宙鉱山を細々と継いできた。

だけどゲートのおかげで、一部の鉱物需要が爆発した。

火星軌道でくすぶっていた鉱山が、いきなり地球経済の最前線に引っ張り出された。

だから地球に来た。

家業で。経営判断で。表向きは、そういうことだった。

でも――あのころ火星に残る、という選択肢は、私にはもうなかった。

通貨のレートは暴落していた。

植民市での鉱産業が始まると火星の鉱産物の多くは安く買いたたかれ、企業は次々に買収された。

それでも火星は、威信だけは保とうとした。

超時空ゲートの完成を前にしても、誘星爆撃で虚勢を張り、砲艦外交を行うしかなかった。

国が沈んでいく時、人は声だけが大きくなる。

けれど、いま旅先で見かける火星軍の装備は――誰の背中にも、馴染んでしまっている。

火星軍の外骨格スーツ。鉱山労働者が着ていた。

訓練で使っていた索敵ドローン。植民地の農夫が使っていた。

軌道投下用コンテナ。野ざらしの市場で飼料入れになっていた。

どこに行っても火星の軍用車両や軍用機には事欠かない。

あれは全部、捨て値で放出されたってことだ。

ただの工具として。

あの“世界最強の火星軍”が、今や開拓民の荷運びツールになっている。

それを見るたび、背筋が凍る。

あの装備に、何人の友達が血を流したか。

セール品みたいに積まれたそれは、もう誰の誇りでもない。

あれが、火星の終わりだった。

製造元ですらない。原産地、かつてあったものの切り売り。

誇りは売られ、魂は用途不明になった。

いつの間にか、名前だけが残っていた。

少し違っていたら、私は今ごろ、どこかの軌道艦の中で腐っていたかもしれない。

ゲートはわたしに可能性をくれた。

でも……それだって、ほんの偶然だ。

私の旅は、火星の終わりから始まった。

運命とは、じつに数奇なものだ。

あのころみたいに、心が震える何かに、もう一度触れたくて。

それだけなのに、私のやることは、いつの間にか、誰かの期待を背負うものになっていた。

――この旅は、私にとって目標なのだろうか、手段なのだろうか、経過なのだろうか。

そして、それを知るのは、はたしていつなんだろうか。


5.関門


ここまで、ほんとうに長かった。

カフェで頷いたあの日は、すでに遠い記憶だった。

それが私自身の選択だったかのかどうか。今聞かれると、はっきり答えられない気がした。


二か月前、荷物を詰めた。

一週間前、地球を出発。

宇宙旅客機で大気圏を突破し、宇宙ステーションに入港。

二日間の検疫で下剤を飲まされ、準備食はひたすらまずい。

そして今、宇宙船に詰められて四日。

どこまでが“準備”で、どこからが“旅”だったのか、もはや曖昧だった。


そして、ようやくだ。

遠方に見える超時空ゲートが、次第にその存在感を増してくる。最初は星のような点だったそれが、いまや形をはっきりと認識できるまでに近づいていた。ケイはディスプレイに顔を近づけ、声を上げる。

「すごい・・・!何度見ても本当にこれ、人工物?って感じだ、凄すぎて現実味がない、形容しようもない」

ケイは息を呑んで外の景色を見つめ、手に汗を握る。この瞬間を、4日も待ったのだ。

アリアは静かに目を閉じ、深呼吸をしているが、どこか不安げな表情が浮かんでいる。

内心では「何度やっても慣れないわ」と小さく呟いていた。

声はかすかに震えていたが、それに気づかせまいとするように口角を上げた。


ゲートの内部には、まるで闇に引きずり込まれるかのような歪みが広がっていた。それを見ていると、現実感が次第に薄れていくようだった。

突如、身体がふわりと軽くなる。視界の端で光が揺らめき、輪郭がゆらぎ、中心には光が渦を巻き、空間がぐにゃりと歪んで見えた。耳の奥でかすかなキーンという高音が響いた。頭の奥がじんわりと頭痛を催し、それもまた痺れていく。全身がぞわぞわとした触覚や痛覚に襲われ、そして何も感じなくなっていく。体中の感覚が、異常を検知したのちに失われいき、最後に船内に残ったのは静寂だけだった。


突然、バチッという強烈な電気刺激が走る。いや、走ったように感じた。


その理由をなまじ聞いたことがあるだけに、冷や汗ものだ。ワームホールを通る際にはしばしばその影響で心臓が止まる。外部からの強制ペーシングで心臓を無理やり駆動させるシステムが付いているのだと、以前に聞いたことがある。つまり、私の心臓は一度止まったということになるのだから。

耳鳴りのような音が脳の奥で鳴り、私はゆっくりと重い瞼を開けた。

超時空ゲートを抜ける際、通常、人は猛烈な眠気に襲われる。意識が遠のき、深い眠りに落ちていく。

しかし今回は、ある程度意識を保ったまま超時空ゲートを抜けたようだ。もしかすると、意識がないだけで基本的に心臓は止まるものなのかもしれない。


周囲は暗く、まるで時が止まったかのような静けさが漂っている。音も、振動も、何もない。ただ、心臓の鼓動だけがゆっくりと聞こえてきて、全身にちくちくとした感覚が戻ってくる。

やがて、薄明るい光が差し込み、視界がぼやけながらも焦点を結ぶ。目の前の端末には、青い地球の姿が映し出されていた。


「…地球だ。」

ケイが呟くと、端末越しにアリアも目を覚ました。


しかし、ここからまた4日、宇宙を漂う。

1か月休暇をとっても、行きと帰りに10日もかかってしまうのが時空旅行だ。

帰りに関しても、ゲートが開く5日前に離陸する必要がある。

なので、旅の日程はこうなる。

地球を出発→宇宙港で2日→宇宙船で4日→ゲート→宇宙船で4日→旅行→離陸→軌道上ステーションで1日待機→宇宙船で4日→ゲート→宇宙船で4日→宇宙港で2日→地球。


ゲートが開くのは30日おきなので、実質的に石炭紀に滞在するのは20日。

そして、行きに10日、帰りに10日…

こうして改めて数えてみると、この旅、全行程の半分近くが“旅に行くための旅”だ。

*おまけ*

1.ストラトソアラー

「ストラトソアラーって隕石迎撃型は乗客の代わりに弾頭積むんだって」

「そう、だってもともと隕石迎撃機でしょ?あれ。」

「宇宙に行く目的ですらない高速旅客機としてすら量産されてるのって、そういうことだよね」

「たぶんね」

「量産効果ってやつか、あるいは緊急時は供出するのか・・・」


2.宇宙ステーション

「宇宙ステーション、リニアカタパルトってちょっとだいぶ変じゃない?」

「あれ、元々はレールガンらしいわ」

「…ダヴィンチの戦車かな?撃つのは勿論…」

「ペリット状の微細資源ね。大気圏で燃え尽きるから安全!って触れ込みなんだけど、軌道から外れることが割とあって、そうなると・・・散弾銃・・・ってやつ?」

「ひどい。宇宙ステーションがものすごい数建設されてるのも納得だよ」

「それも火星から送られた隕石がないと作れないのにね」


3.IPGM

「誘星爆撃って、ひどいよね」

「最後の瞬間までわからないからね」

「…最後の瞬間まで?」

「火星から地球に鉱石送るでしょ?軌道に乗せるでしょ?岩迫ってくるでしょ?」

「最終誘導を間違えたら…」

「紙一重なのよ」


今日もまた、数千機の「旅客機」が地球を飛び交う。

そして、数百個の「資源」が地球に向けて飛んできている。



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