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「間抜けなことにはまりました」/泥濘 (Day6)

航法装置は、複雑怪奇だ。

計器飛行にあたり、どこにどの計器があって、どういう挙動をするのか、一目見てまず間違えないくらいには覚えねばならない。

この植民惑星には半導体製造技術など勿論ないので、一部の構造はいまだに真空管頼み。

そう、自動回復装置なんて望むべくもない。


手垢にまみれ、黄色くなったマニュアルを読み返しながら、リリィはため息をついた。

2人はどうしてるだろう。


沈木回収業者はさっきがたやってきて、驚くほどの沈木を積み上げて帰っていった。

水路の底にあんなに沈木が沈んでいたとは、あらためてぞっとした。

同行してくれた漁師さんは、回収業者と一緒に帰ってしまった。


川の水に揺られながら、静かな勉強時間。

黒い水、と思っていたけど、たしかにケイが言っていたように「紅茶みたい」だ。

そう思うと、なんだか美味しそうな気がした。

アリアが土産に持ってきてくれたお菓子をついばむ。

この星では信じられないくらい、甘かった。


そんな折、突然の電信があった。

「泥にはまった 舟は漂流 停泊所から南南西に2㎞、太くて深いクリーク」


短い。情報量があまりに少ない。

まるでSOSというより、「見つけられるなら来てくれ」くらいの温度感だ。発信者の名前もない。

だが、文体からしてアリアだと察しがついた。

句読点の使い方、ちょっとした語順の癖。最初に何が起きたかを簡潔に書いてある。

それに――ケイなら、もっと細かく座標を書こうとするはずだ。

あと、「泥」って書いてる。ケイなら絶対に「泥炭」と譲らない。

でも、同時に謎も深まった。

「なんで音声じゃなくて電信なんだろ…」


小さく呟きながら、リリィは操縦席に身体を沈め、スイッチを押した。


タグボートの推進器が低くうなり始める。

誰もいない水面が、さざ波を立てた。


この場で助けに行けるのは、私だけ。救助は呼んでも数時間はかかる。


「…どうせ、また変なことしてたんでしょ」


苦笑しつつも、胸のどこかがざわついていた。なにかが――いやな感じがする。

下手に助けようとしたら、道連れにされるのが石炭林の底なし沼だ。


タグボートはゆっくりと、指定された「太くて深いクリーク」へと進んでいく。


その途中で、視界の端に何かが浮かんでいた。細長く、小さな、見慣れたシルエット。


「あっ…」


小舟だ。機材を積んだまま、岸から数メートルの位置に、ゆらゆらと浮かんでいた。

確かに、漂流していた。


エンジンを止め、タグボートを慎重に寄せる。波で転覆しないよう細心の注意を払う。

リリィはデッキに出て、ロープで小舟を引き寄せた。中身は――無事。

ドローンも積みっぱなし。コントローラまで放置。誰もいない。

ただ、少し泥が跳ねていた。人が慌てて抜け出したかのように。


そして、対岸の岸辺、シダの葉の隙間――


そこに、2人の姿があった。


泥まみれ。全身ずぶ濡れ。岸辺に2人して座っている。


「……」


「……」


なんだろう、この空気。


リリィは深く息を吸い込んで、言った。


「……なんか、説明してもらっていい?」


ケイとアリアは、同時に口を開いた。


「間抜けなことにはまりました」


「助けるのにちょっと苦戦してました」


まるで、練習していたかのようにぴったり重なった。


リリィは舟の縁に手をかけ、片眉を上げた。

水面を見下ろしながら、しばし沈黙してから言う。


「ほんとに、それだけ?」


ケイは視線を泳がせ、アリアはさも楽しそうに笑っていた。


「ええ、ほんとにそれだけ。ちょっと、泥が想像以上だっただけ」


アリアが肩をすくめる。

「でも、ケイも、無事だったし」


リリィはしばし無言で2人を見つめたのち、ため息混じりに肩を落とす。


「……ま、無事ならいいけど。後でちゃんと報告書には書いとくからね。私が引き上げたって」


「ありがとう」

ケイが言った。短く、それだけだったが、思ったよりも素直な声だった。


リリィは顔をしかめたままタグボートの方へと向きかけるが、ふと思いついたように振り返る。


「で、あんたたち、何してたの?」


ケイとアリアは、ぴたりと呼吸を合わせた。


「私が間抜けでした」


「引き上げようがないのでオールと、曳航用のロープを使いました、そしたら舟が流れました」


「……うん、もういいや。」


リリィは再びタグボートのデッキへ歩き出しながら、言った。


「全身洗ってから乗ってよ。あと、泥の片付けは自分たちでね」



「それにしても化石になれそうとか、あの場でいう?」

「…思いついちゃったんだもん」

「ほんと、あんたたちって……」

リリィは呆れたように笑い、そしてタグボートの甲板に戻っていった。


空が黒くなっていく。

「機材、積み込んどくわ。天然のシャワーが来るから」

今日のスコールも、もうすぐだ。



2.

――上陸なんて、無茶だった。

水面を揺らす風の音。頭上で木性シダ、Psaroniusの葉がゆったりと揺れる。差し込む陽光は、泥のにおいすらも洗い流すように、ただ真っ直ぐだった。


そして、ただひたすらに静かだった。


ふと見上げれば、Sphenopterisだろうか、タチシノブのような細かな葉をつけた植物が、幹を這い上がり、丸い葉を輪生させるつる性トクサ類、Sphenophyllumが曲がりくねり、ひっかかりながら伸びていた。


間をなにやら、小さな昆虫が歩いている。


葉のあいだからは、赤い川に、Lepidophloiosの黄緑色の根がたなびいている。




......綺麗だ、と思った。




この赤い水も、たなびく根も、そして差し込む光も。


この石炭紀の世界は、静かで、どこまでも美しい。


私はただ、見上げるしかなかった。




私の足は、もう動かない。


胸の高さまで泥炭に沈み込み、周囲の根に手をかけても、体重をかければちぎれるだけ。


そして、定点カメラのようにただ、この世界を見つめるだけ。




あのSphenopterisはシダ植物だろうか、シダ種子植物だろうか。そのくらいは採集して、見ておきたかったかもしれない。


でも、これでいい気がした。


いままで採取し、捕まえ、標本にし、記録してきた。しかしこうしてみると、この素晴らしすぎる自然の前では野暮だった。




こんなにも私向きな場所は、いったい他に、どこにあるだろうか。


こうやって、いつまでも眺めていたって…


悪くない。




「ケイ〜?そろそろ行こうかと思うんだけど、どんな感じ?」




アリアの声がする。水面越しに届くその声は、明るい。


アリアにはまだ、やるべきことがたくさんある。




「化石に……なれそうだよ」




「……はい?」




「軟組織が保存される可能性がある。……でも、たぶん骨は溶ける」




「おお、冗談言ってる余裕あるじゃない。……え、本気で言ってる?」




沈黙。風のざわめき。アリアの声が、すこし低くなる。




「……ケイ? 本気で言ってるの?」


しまった。ついつい、興奮からこんなことを言ってしまった。


気付かれた。そしてもし気づかれれば…




「すぐに行く!」


やっぱり。


私という人格の、終わりが来なくなる。


あるいは、巻き込んで余計な死をもたらすだけだ。


「来ないで。」


私は声をあげた。


「終わらせないよ。ケイ、終わらせるなんて、させないから」


逆効果だ。


人生の目標、それは悟りを開くことだと思っている。


悟りを開く、それは学び、考え…私という面からみた、世界の真理を築くこと。


アカデミアを去ってから、ずっと出涸らしのような人生を送ってきた。


生き永らえるために仕事して、学ぶ時間も足りず、いつしか追い越されていくだろう。


旅に出るたび、気付かされる。訪れるたびに自然は劣化し、文明は衰退していくこと。


今あるものは失われ、劣化版に置き換えられる。


でも、そんな終わりの来ないダラダラとした終わりに囲まれるのは、ちょっとぞくぞくする。


悲しい、んじゃない。いつしか、終わりが楽しくなっていた。


そして、本物の終わりを求めるようにすらなっていた。


コントロールされた、自由意志による、終わり。


勝手に寸断されたり、心を病んだり、じわじわと蝕まれるのではない、終わり。


いまはそれに最も近い瞬間だった。


「来ちゃダメ、アリアもはまるから。ボクですらはまる、どこに穴があるかもわからない、来ないで」




アリアは黙り込んだ。真剣に悩んでいた。


ケイにとって、「終わらせない」と言ったとのは、たぶん逆効果だった。


何か変な解釈をされたに決まっている。


ケイにとって、「誰かが悲しむ」とか、「じゃあ一緒に終わろう」、これも、まるで効かない。


そもそも他人に興味がないし、観測圏外で起きたことはそもそも存在しない、そういう思想だから。


匍匐前進なら多分、ハマらずに済む。でも、結局本人に助かる意思がなければ、助かるものも助からない。


そう…これは、自然状況を使った―――。


やられた。


ほおっておくといつかそうなると思って、ここまで連れ出してきたのに。


まったく、なんでワニに襲われるとかそういうのにはビビるくせに、こういう時は悟ってるのかな…




…ワニ?


そうだ。


「ケイ?あんたまだ、全然知らないわ。何悟ってるのよ。あのね、現代と白亜紀と石炭紀でもう満足したのなら、満足して逝きなさい。私なら、とても満足できないけどね。そんなに「浅く」「知に傲慢じゃ」ないから」


返事はない。


でも、効いている確証はあった。


続ける。


「ケイ……帰ったら、また行こう。そう。別の時代へ。二人で。もっと遠く、もっと自由に。旅費なんて気にしなくてもいいわ」




アリアの言葉は、どこまでも重かった。




「そんなに……行きたいの?私なんかと」




「うん。だって……ケイとなら、どこへだって行けるもの。私もまだ、全然知らないんだもん、世界のこと。私が知りたいから、必要なのよ!」


そう、ここで「ケイのこと」と言ったら、完全にそっぽを向かれてもう帰らぬ人になるだろう。




ケイはそっと、泥に埋まった手を動かす。


指先が根の網に触れた。


もう少し体をねじれば、なんとか抜けるかもしれない――


アリアの言葉が、それを試すきっかけになった。




いける気がする。私はプサロニウスのマット状の、フェルトのような根にそっと体重をかけ、体を起こそうとする。腕が、ズボリと沈んだ。繰り返す。




そして・・・見た。


水からあがり、這い寄る姿を。


一瞬、ワニに見えた。


――アリアだ。


腹ばいになり、体を引きずりながら、猛烈な勢いで匍匐前進してくる。


怖かった。なにか猛獣のように思えた。


本気だ。命を奪いも救いもするような、本気の目だった。


さっきの発言も、いろいろと怖い。というか重い。


私は、狩られる立場。


逃げなきゃ、と思った…


あれ、生きようとしてる。


そう、生きてるんだ。まだ。




匍匐前進、嫌な記憶しかない。


アリアにとって、この状況は心底ばかばかしかった。


義務教育の一環として行われた軍事教練。そこではしばしば、脱落者が出た。


空挺降下は死ぬほど怖かった。結局前線に出ることはなかったけれども、死ぬほどの思いをすることは当たり前だった。クラスメートにも何人か、死者が出た。


悟ったからもう死んでもいい?


安全な世界に、甘ったれている。




アリアは上体を起こし、半ば怒りを込めながら、オールをぶん投げる。


投げ槍のように、力づくで。


もしケイに命中させたら貫通するくらいの勢いで。


泥炭に深々と突き刺さった。


ケイはひっかけてよじ登ろうとするが…やはり根はちぎれてしまう。登れない。


だめか。




今度は、カメラアームだ。


「握って」


「折れるよ、たぶん」


「いいの。」




それでもケイは一瞬ためらう。泥まみれで、その目線が怖い。




仕方なく、握った。


次の瞬間、金属がぎしりと軋む音。


関節が、音を立てて──ボキリと折れた。


体はと言えば、ビクとも動かない。




そして、アリアは今度は縄を投げつけてきた。


どこから。あっ…




流れていく。みんな。


僅かに這い出しはじめ、広がり始めた視界の隅に、係留の外れた小舟が漂流しているのを見た。


そこには機材一式が積まれたままで、対岸に漂着しつつあった。


しかし、そんなことどうでもいいかのように、泥にまみれたアリアは、じっとこちらを見ていた。




呼吸は乱れておらず、目も笑ってはいない。


ただ真っ直ぐ、突き刺すようにこちらを見据えている。


「私怖い?」


「……うん」


それは心からの本音だった。いろいろと怖い。


「なら、受け取りなさい。」


彼女が投げてきたロープは、まるで一切の逃げ場を断つようだった。


ああ――これはもう、仕留められた。


逃げ場もなければ、言い訳もできない。




泥にまみれたふたりは、ただ水辺に座り込む。


「舟、流されちゃったね」


「流されちゃったね」


少しの沈黙。


「どうするの、ここから」


「二人で暮らす?」


「悪くないかも」


静かな笑い。


でも次の瞬間、アリアはすっと顔を上げる。


「嘘よ、もう連絡してあるわ。ここは深いから大丈夫って。じきに迎えが来るはずよ」




遠く、エンジンの音が聞こえてきた。

スフェノフィルムとか、スフェノプテリスとか、このあたりはまた描くのでご安心を。


ちなみにですが、プサロニウスの森に沈むのは、科学的に正当です。

まず石炭紀の腐植堆積は現在を上回るレベルです。現在ですら数メートルの腐植層がある熱帯泥炭域では足を一歩踏み外すと首まで漬かると聞きます。泥炭の密度は極めて低く、そのままでは人間の到達が困難です。

河川周囲の自然堤防では砂質が堆積するため、比較的安全に上陸することができるでしょう。ここは砂質なうえに腐植層が斜面と定期的な水害により除去されるためです。

そもそも、石炭紀の低湿地帯において安定した地面を見つけること自体がきわめて困難であり、メートル~キロメートル単位で泥炭が堆積する石炭紀の森はまさに「地面なき偽りの地面」です。

ここで唯一足場にできるのは長さ数メートルにわたって互いに絡み合いながらマットを形成するリンボク類の担根体スティグマリアであり、そこから離れた点で上陸しようとすればたちまちこのように沈むことになるでしょう。

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