古市街道を一日で
前に奈良街道を歩いた時、今宮戎からスタートして、泥堂口から平野郷に入った。
すぐのところに道標があって「ふるいち」とあり、そこは古市街道の始点でもあった。平野を出ると松原市、藤井寺市、羽曳野市の古市へと進んでいくのだって。古市では東高野街道に合流して、古市街道は終わるそうだ。
藤井寺、羽曳野、古市、どんなところかなあ。なにも知らな過ぎて、イメージももてなかった。
散歩するのにちょうどいい季節で、平野から歩けるところまで歩いてみようと家を出た。
バスで平野まで行き、始点ではないけれど南港通から南下して行った。
本当は泥堂口付近で奈良街道から分かれたあと、平野郷の中を通って田畑口から出ていくらしかったけれど、開発などでほぼ旧道が残っていないらしい。
平野東4丁目交差点から府道186号大阪羽曳野線で南下して行った。186号線は常盤会短大を過ぎたあたりから南東方向に向きを変えた。本当は田畑口からここまで南東に旧道が続いていたけれど、消滅したみたい。
長吉出戸公園の入口のある交差点も過ぎて進むと、186号線はまた南に向きを変えて出戸駅(地下鉄谷町線)を目指す。南東を目指す道も別にちゃんとあって、そちらに進むのが古市街道。
このあたりは古くて面白い道だった。
特に出戸池への道標が指している方向が気になった。けれど、どこまで行けるか先を急ぎたい気分が勝って、池までどれくらいの距離かも分からないしとスルーした。後で知ったことには、ほんのすぐのところに出戸池公園や産土神社やお寺があったみたい(池はもう無い)。
長居公園通りを過ぎて、地名が長吉出戸から長吉長原に。郵便局や小学校の横を歩いて行った。
街道沿いによくあるもの、1旧家、2地蔵、3郵便局じゃないかと思い始めていた。あと小学校も多い気がした。街道沿いには寺や陣屋などがあって、そこが小学校になったようなケースが多いのかもしれない。
長吉小学校を過ぎてしばらく行くと、振り返った場所に地蔵堂があって、このあたりも気になるところだった。ちょっと東に行ってみると緑が見えて、あそこまでだけ行ってみようと進んでいったら志紀長吉神社だった。
赤い旗がはためいていて、思いがけずここは真田幸村縁の地のようだった。
大坂夏の陣の時、道明寺でも戦いがあったのだそうだ。道明寺はこの南、古市街道より少し東に行ったあたり。
真田幸村も道明寺の戦いに向かっていたのだけれど、濃霧で遅れ、その間に大阪側(豊臣側)が惨敗。この時、豊臣側の猛者、後藤又兵衛も亡くなったそうだ。
幸村らには大阪城に引き返すよう指令があって、後藤又兵衛の死を知った幸村らは大阪城へ。その途中、ここ志紀長吉神社で休憩し、幸村は勝利を祈願して六文銭の軍旗を奉納したんだそうだ。
天王寺で亡くなる前日のことだった。奉納された軍旗は今も残っているのだって。
志紀長吉神社については詳細は不明だけれど、平安時代初期の創建で式内社。藤井寺あたりまでの氏神だったそうだ。
古市街道の続きを歩いて行くと、大和川に近づいていった。
一帯が古い感じになってきて、ときどき味わうタイムスリップ感。なに時代だ?っていう。古い町並みで、カーブした街道に沿って大きな旧家が並んでいた。
そして右手に川邊八幡神社が現れた。
無人だったけれど、親切が伝わってくる神社だった。ウェルカムな感じがあって、要所要所に丁寧な説明も添えられていた。獅子と狛犬がいて、その意味なんかも教えてくれていた。
江戸時代、大和川付け替えの時、新しく川筋になったところには神社だってあったのだそうだ。この神社も新しい大和川の底に沈むことになっていた。すると暗雲たれこめて雨が降りやまなくなった。そこでご神体だけでもと、ここに退避させられたのだって。
神社では毎年秋には花火大会も行われて、賑わうらしい。神輿が出て町を回り、大和川に入る神事が行われる中、大和川で花火が打ち上げられるのだって。ただ今年(2020年)はコロナのため中止みたいだ。
大和川にかかる明治橋は、元は古市街道にかかっていたのだって。けれど今は少し西に移動していた。大和川もこのあたりまで来ると東に山が近かった。
それは素敵なのだけれど、橋を渡った向こうでは、小型機が何度も轟音とともに上空を飛んでいった。爆音をたてて、わたしの上を影が横切っていく。
河川敷では「ラジコン禁止」と書かれた中でラジコンをする人、一人グランドゴルフをやっている人がいた。わたしには広々としたところで走らせる禁止されているラジコンより、公認されている小型機の轟音のほうがよほど迷惑に思えた・・・。それとも電波とかの問題で禁止されているのかな?
大和川を越えても、まだしばらくは大阪市平野区だった。ほんの一部だけが大阪市で、松原市と大和川とに囲まれているらしかった。
古市街道はここからはしばし大和川沿いを東に向かうのだって。大和川の南の堤防を東に進んでいくと、堤防あたりで工事が行われていた。工事車両が集まり、次々に大型トラックが出入りしているところもあった。わたしには縁がなくてよく分からなかったのだけれど、高速の工事をしていたのかな。阪神高速大和川線が後になって完成していた。
工事の基地になっているスペースもトラックもすごく大きくて、工事は大掛かりで、自分がネズミくらいになった気がした。
工事現場を迂回しつつ大和川を離れずに歩いて行った。高速道路の下を過ぎ、工場地帯がはじまり、ごうごうとトラックが走って行った。工場や大型倉庫が集まっているところのようだった。
「⇒若林」と案内があって、そちらに向かって行った。
工場地帯の中に、突然に牧歌的な集落が現れて、不思議の国のようだった。川に並んでかかった小さな2つの橋、その向こうには未舗装の土があった。小さな子どもと若いおかあさんが小川を見ていた。古そうな家々が建っていた。竹林もある。
だまされているような気分で若林に入っていってみた。川は落堀川で、大和川の治水のために掘られた川のようだった。若林は他の多くの村と同様、大和川が流れるようになって分断されたところで、ここは松原市若林。川の北側は八尾市若林町になっているようだった。
若林は古い集落らしく、弥生時代の遺跡も見つかっているそうだ。戦国時代には陣がおかれ、前線基地となっていたりもした。農村で、周りは田んぼばかりだったとかで、どんどん変わっていってしまったのだろうなあ。田んぼはどんどん工場や倉庫になっていって、若林はその中に取り残されてしまったのかな。
しばし若林を探索。若林神社があって、家々は古くて、みんな遠い親戚、みたいな集落に思えた。
後で知ったことには、本当は古市街道は、若林の西の大堀、南の小川を通って津堂に至っていたのだって。川辺からも南東に向かって街道が続いていたんだな。けれど明治以降に大和川沿いにずっと東に行った後で南下して津堂に至るという道に変わったのだって。
若林探索の後は大和川の堤防上の道路に戻り、てくてくと東に向かって行ったのだけれど、若林から先も倉庫の群れだった。
おまけにこの道には肝を冷やした。分かっていたら、大堀~小川ルートを歩いたのだけれどなあ。
今まで歩いてきた道の中でも、ここが一番怖いところだったかもしれない。生命の危険さえ感じた。
狭い道路なのにひっきりなしに大きなトラックが走って行った。けれど歩道は人ひとりがやっと歩けるくらいの幅が申し訳程度にラインで設けられているだけだった。
大きなトラックがすぐ脇を走って行くので、少しでも脇によけたくなる。けれどよけるようなスペースは一切ない。ぼうぼうと伸びた高い硬い草の向こうは大和川に下りて行く急坂で、そこにも危険が待っていた。一歩踏み出したとたんに転げ落ちそう。いっそ河川敷を歩きたいくらいだったけれど、人の通った形跡の全くない荒れた土の河川敷に下りて行く急階段がときたま現れるものの、なぜが中央部分で切れてなくなっていた。
道路の反対側には細い歩道の他に遊歩道みたいな空き地が続いていた。草ぼうぼうではあるけれど、それでもトラックすれすれの歩道よりはまし・・・けれどなぜかフェンスで囲われていて入れない。なかなか長い距離だったけれど、車以外は誰にも会わなかった。徒歩の人にも自転車の人にも犬にも。そりゃあこんなところ、知っていたら誰も通らないや。
大和川に大正橋が現れるまでおかあさんのだっこで進んでいった。今はもう変わったかな? たとえばあの遊歩道が歩けるようになっているとか、河川敷への階段が作り直されたとか。そうでなけりゃあ決して歩くべきじゃない。
やっと大正橋が現れると、右折してこの府道2号線(旧中環)を南下して行った。
いつの間にか藤井寺市のようだった。
高速の下をくぐる直前の信号で右折して2号線とも別れると、車通りもほぼなくなって、やっと一息ついた。
甘党まえだの工場があった。ここは裏口みたいで、自転車置き場には駅前かと思うくらいの自転車が止まっていた。
左手に鳥居が見えてきて、津堂八幡神社だった。
なんだかほとんど野山のようであったけれど、ここが前方後円墳で、津堂八幡神社は古墳を守る神社であるらしかった。
古墳は津堂城山古墳で、古市古墳群の中では一番北にあり、一番古くて、4世紀後半のものだそうだ。帝塚山古墳や酒君塚古墳と同じ頃ね。仁徳天皇陵とかより古い時代のもので、地方の大王の墓ではなかったかってことだった。
古墳って、今でこそ大事にされているけれど、かつては野山とほとんど同じような扱いだったみたい。平らにならされて農地になったり、人が住んだり、盗掘されたり、農耕用水路に用いられたり。ここもそうで、戦国時代の頃には三好氏の砦が築かれていたそうだ。
それで今もこんな野山みたいになっているのかな。明治時代、天皇の権威が高まっていく中、天皇陵を認定して、形の崩れたものは整えるって作業が行われたそうだ。天皇陵に治定された古墳は立入り禁止になって、拝所も設けられたのだろうな。
けれどここは天皇陵じゃないとされて、今も自由に上に上がっていけた。小山になったてっぺんや、芝に覆われた平坦な部分、記念樹の植えられたところとか、他には誰もいない広々としたところを好きに歩けて素敵だった。
「史跡城山古墳ガイダンス棟まほらしろやま」なる新しいきれいな施設も併設されていた。
「まほら」って、「まほろば」とかと同じく、素敵な場所という意味の古語だそうだ。
元の道に戻って、道なりに南下して行った。
産土神社に行き着いた。産土神って、その土地に生まれた人を守る神様のことだそうだ。ここ小山で生まれた人を、転居しようともずっと守る神様。誰もが産土神をもっているのだそうだ。産土神社ってそのままの命名だなあと思ったけれど、その後も散歩しているとときどき産土神社という名の神社に出会った。
産土神社で道が2つに分かれるけれど、右手の南下する道へ。
しばらく行くと小山善光寺。「日本で最初の善光寺」「善光寺の元祖」を自称するそうだ。
ここで初めて善光寺のことを知った。あびこ観音に祀られるのは、ヨサミのアビコが百済の聖王からもらった仏像だった。その頃は聖徳太子のおじいちゃんが天皇だった時代で、同じく聖王が天皇にも仏像などを贈り、これが公的な日本への仏教伝来だとされている。
その頃有力者だった物部守屋は仏教を日本に広げていくことに反対で、聖王から天皇に贈られた仏像を難波の海にうち捨てた、とされている。その仏像を後の推古天皇の時に堀江で拾ったのが本田善光。善光さんは仕事(信濃国司の従者だったんだとか)で住んでいた信濃に仏像を持ち帰って祀った。それが善光寺となったのだって。
善光さんが信濃に戻る前、とある法師の庵に泊まったんだそうだ。そして二人して祈ったら仏像が2体になったので、1体をもらい受けた法師がそれを本尊に開いたのが小山善光寺。
祈ったら2つになったとかは別として、善光さんがこのあたりを通ったか、このあたりに縁があったかしたのは本当なのかな。
お寺は門を閉ざしていることが多いけれど、ここは開放的に開かれていて、ついお邪魔してみた。
トイレも窓口も閉まっていたけれど、入れてもらってうれしかった。
この少し南には長尾街道が通っていたみたい。
藤井寺には古くは河内国の国府が置かれていて、長尾街道、竹内街道、東高野街道など古い主要な街道がみんな通っているそうだ。国府というのはその国に中央から派遣された行政官(国司)が赴任する国庁のあるところ。国の行政の中心部ね。
そのせいもあってか、道中には地蔵や古い道標も多くて、旧家の古い味のある塀が続いていたりもして面白かった。住吉や喜連で「○○家住宅」として紹介されているような旧家がここには普通にごろごろあった。みんな現役で風格があった。
藤井寺駅にたどり着き、時間はまだまだ余裕があった。
こんなに近いんだな、と、思いながらまだまだ行ってみることにした。
駅前商店街の中を通りぬけていくと、葛井寺だった。町中の割には大きなお寺で、わたしはバッグに入って境内へ。大きな藤棚があった。本殿は国宝らしく、人はちらちらいた。参拝客や、買い物ついでの人や、藤棚の下でくつろぐ人など。
この葛井寺からとって、市の名前も藤井寺になったみたい。
元は葛井連なる氏族の氏寺だったと思われるそうだ。古く応神天皇の頃、百済の王が王仁って博士や、自分の孫の辰孫王って人を天皇に送ってきたそうだ。
その日本に送られた辰孫王の子孫に王シンニって人がいて、その兄の子孫が葛井連だそうだ。葛井寺建立(725年?)の少し前に葛井を名乗るようになったのだって。
葛井寺は行基が創建したことになってはいるけれど、725年より前から寺があった形跡があり、そこは葛井氏が住んでいたあたりだったので、元は葛井氏の氏寺だっのではないかと言われているみたい。藤井寺にもかつて百済郷があり、百済からの渡来人が多く住んでいたのだって。
後に阿保親王が葛井寺を再建。阿保親王って、この西の松原に住んでいたことがあるという人ね。阿保親王の母親が葛井氏だったのだって。
藤井寺は南北朝時代には戦場にもなっていて、楠木正成が葛井寺で写経して勝利を祈願したこともあるそうだ。
もう少し先には辛國神社があった。この時は思いきり工事中で入っていけなかったのだけれど。
物部系の氏族に唐国さんがいたそうだ。どこか海外に行って帰ってきて唐国(韓国・辛国)を名乗ったのだって。その唐国さんたちが関係していると思われるそうで、創建は雄略天皇の時。祭神はニギハヤヒ。
大阪の南部は中臣系が多いのかと思っていたけれど、スムジ曽根神社、辛国神社と物部系もいたんだな。
そのまま続きを行くと道が2つに分かれ、左手に進んだ。右手に並ぶ家々の隙間から時々見える緑は仲哀天皇陵(岡ミサンザイ古墳)らしかった。
仲哀天皇は応神天皇の父親で神功皇后の夫。ヤマトタケルの息子でもある。
仲哀天皇の墓に決められてしまっているけれど、5世紀の終わり頃に造られたと思われ、仲哀天皇には遅すぎるようだった。本当は雄略天皇の墓ではないかと言われているみたい。
このあたりは高台と見えて、もし家々が無かったら東の山々もきれいに見えそうだった。
四つ辻で右に行くと仲哀天皇陵の南の拝所のようだったけれど、左へ。本当は南東に斜めに進む旧道があったのだけれど、開発で消滅したのかな? とりあえず東に進んで府道186号大阪羽曳野
線に出て、186号線を南下して行った。
野中北交差点を通り、広い野中交差点を通り、野中南交差点へ。野中南交差点で左折して東に向かった。
途中左手に緑が見えていて、古墳かもと行ってみた。
公園だった。公園には階段で上っていける高台があって、上ってみると石のベンチと数本の木のある素敵な空間だった。モミジが色づきはじめていた。
静かで、俗世から離れている気分になった。更に階段があって、その上は野中神社だった。ここも小さな空間だったけれど、しんとしていて素敵だった。
野中神社についてはよく分かっていないみたい。けれどここにはかつて満願寺という聖徳太子建立と伝わるお寺があって、そこの鎮守だったようだった。
そしてこの時は知らないままだったけれど、本当に古墳だったみたい。野中宮山古墳なる前方後円墳で、その上に野中神社が鎮座していた。
野中は素敵なところだった。緑あり、旧家あり、面白くてうろうろしながら、誉田八幡宮を目指した。
古市街道は野中神社から東に進んで誉田八幡宮に至るらしく、誉田八幡宮は応神天皇陵の南にあるらしかった。
野中でうろうろしているうちに方向が分からなくなっていたのだけれど、古墳らしき緑に向かって進んで行った。けっこう歩いてたどり着いたところには「白鳥陵古墳」と書かれていて、がっくり。
東の山々がきれいに見えていて、気を取り直した。
改めて応神天皇陵を探しに行った。天皇陵の前に羽曳野警察署を見つけた。ここを東に行くのが古市街道だった。
このあたりは羽曳野市。東に進んでいくと、北側に応神天皇陵があって、時々姿を見せていた。大きかった。
いやはや、応神天皇陵を探している間も、目の前にあったのかもしれなかった。でも大きくて古墳とは思わなかったのじゃないかな。仁徳天皇陵は大きいと知っていたけれど、応神天皇陵もこんなに大きかったのか!
仁徳天皇陵が長さ525m、応神天皇陵が425m。仁徳天皇に次ぐ2番目の大きさの古墳らしい。だんだん古墳に近づいていって、誉田八幡宮が現れた。大きな神社で、駐車場も広かった。いちいち立派で、なんだか嘘くささを感じた。仁徳天皇陵に参拝用駐車場があるみたいに、こんな立派な天皇陵に参拝することを推奨していた時代の名残みたいなものなのだろう。
559年、聖徳太子のおじいちゃんが天皇だった時に創建した神社で、後には源頼朝が改修したこともあるらしい。
広い神社の中で一番素敵に思えたのは橋だった。八幡宮から北の応神天皇陵に渡れるようにかけられた橋かな? 小さいけれど存在感があると思ったら、鎌倉時代のものと伝えられるらしかった。そのときはバリケードされて、渡れないようになっていた。
鎌倉時代の橋が残っているなんてなあ。鎌倉時代ってそんなに遠い昔でもないのかな、と思った。
昔は、百済などからやって来た渡来人などに教えてもらいながら、税として一般人が働いて物を作り上げることが多かったそうだ。なので職人技とかには無縁だった。
けれど鎌倉時代になってくると、職人が仕事をするようになってきたのだって。この橋も職人がつくりあげたものかな。
応神天皇は仁徳天皇の父で、仲哀天皇と神功皇后との息子。今では神の扱いで、八幡神といったら応神天皇のことみたい。誉田八幡に祀られるのも応神天皇で、誉田はこのあたりの地名だけれど、応神天皇の名前もまた誉田だったそうだ。
よく言われる「○○天皇」は死後につけられた名で、生前には別の名前で呼ばれていたらしい。応神天皇は誉田と呼ばれていたそうだ。ほむた、ほんだとかいう発音で、それに「誉田」などの漢字があてられたみたい。
誉田八幡宮の東の道が東高野街道で、薄くカラー舗装された素敵な道だった。カラー舗装されているという扱いで、東高野街道が重要視されている街道なんだなというのを感じた。
古市街道はここで東高野街道に合流して終わる。
平野から一日でこんなところまで歩けるもんなんだなあとびっくりした。
東高野街道を南に行くと線路があって、古市駅(近鉄南大阪線)がすぐだった。
駅近くには白鳥神社なる神社があって、行ってみた。大鳥神社と似た名前だなあと思ったら、少し関係のある神社みたいだった。
ヤマトタケルが亡くなった後、白鳥に姿を変えて飛び立ち、最後に降り立ったのが大鳥神社という話だったけれど、その前に降り立ったのがここ。そしてまた「羽を曳くがごとく飛び立った」そうで、そこから羽曳野の地名になったのだって。詩の世界だなあ。記紀にも書かれていることらしい。
ここは「鳥」の地名の多いところで、ヤマトタケルにも縁があったから、そんな伝説が生まれたのかもと今は思う。応神天皇陵を目指していて間違って行き着いた白鳥陵古墳はヤマトタケルの墓ということになっているのだって。実のところはもっと後世につくられた墓だそうだけれど。白鳥神社は元はその古墳の上に鎮座していたそうだ。
古市駅から帰途についたのだけれど、古市駅の南の道は竹内街道だって。羽曳野ってただの田舎かな?みたいに思っていた。それがこんなすごいところだったんだなあ。また来ることになるだろうな、と思いつつ電車に揺られて爆睡した。
窓の外には古墳がいくつも見えていたそうだ。山みたいな応神天皇陵、仲津姫陵。仲津姫は応神天皇の妻で、仁徳天皇を産んだ人。
まだ百舌鳥古市古墳群が世界遺産になる前だったし、わたしは何も知らないトイプーだったし、古市あたりにもこんなに古墳があるなんてびっくりだった。
ヤマトタケルとその子孫たちの土地って感じのところだなあと思った。




