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大阪を歩く犬  作者: ぽちでわん
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熊野街道を阿倍王子へ

住吉大社の東の一帯は面白いところがいっぱいだった。一種ミステリアスゾーン。

熊野街道を歩いてみようと思うまでにもその界隈は面白くてたびたび歩いてはいた。でも、意味はほとんど分かっていなかったなあ。

突然古いものが現れたりするのがただ面白くて、あっちやこっちへ歩いてみていた。

そんな中にあって熊野街道沿いにはあまり古いものは残っていなくて、その頃のわたしには退屈な道に思えた。

ただ宝泉寺があって、そこの十三仏が見どころ、というくらい。

街道沿いに小さくお寺があり、門は閉ざされているけれど、その横に十三仏がちょっとした小屋みたいなところ(お堂だな)の暗がりに並んでいらして、地味ながら壮観だった。

そのまま北上すると南海高野線沿いに出て、少し先にはチン電の高架。

高架の上には神ノ木停留所。このあたりに大きな古い松があって「神の木」と呼ばれていたのに由来するのだとか。

古くは古墳があったのだって。江戸時代の頃、壊して田畑にしちゃったのかな? 石棺の一部と思われる大きな石が出てきて、それで造られたのが宝泉寺の十三仏なんだとか。

そんなことも知ったのは、もっとずっと後のことだった。帝塚山古墳も現存するのを散歩しつつ見てはいたけれど、「古墳」とか、まだ半分おとぎばなしみたいに思っていた。

神ノ木の由来にしたって、線路沿いのコンクリートで固められた市街地でそんなこと言われても実感はなかった。

チン電の高架をくぐる前に高野線の踏切を渡って、今度はチン電沿いを北上するのが熊野街道。

チン電は南海高野線と交差するので高架になっていただけで、そのうち地上に降りてくる。というか、地上もだんだん海抜が高くなっていっているんだろうな。上町台地の南の端から。


チン電は住吉大社から北には2本に分かれる。上町台地を走る上町線と、上町台地の西側の低地を走る阪堺線で、こちらは上町線の方。

広くなったチン電通りをしばらく行くと、右手に万代池公園が現れる。

外周を歩くと0.8キロ弱ほどの万代池のある公園で、春は桜が池をいろどり、冬は鴨が泳いで、コースになっている池畔部はウォーキングやランニングをする地元民でにぎわっている。

万代池の名前の由来は、聖徳太子が悪さをする池の主をマンダラを唱えて退治したから「マンダラ→マンダイ」って・・・古い話をおとぎ話みたいに感じてしまうわけだな。

公園の西側に熊野街道の碑(八軒屋浜から8.5キロ)のある道があり、しばしここを北上。このあたりにもかつて古墳があったそうだ。

この頃じゃあ古いものはなるべく残そうという声も多いけれど、かつては片っ端から壊して土地利用するのがよしとされていたんだな。


道はすぐに広いチン電通りに出て、南港通りも過ぎて北上。

ここに来ると、台地の感じがけっこうする。ポアールとかフォルマとか帝塚山のちょっとおしゃれなスポットになっている。

もう少し行くと晴明丘中央公園。上町線の北畠停留所があって、チン電は道路から外れていく。

細くなった道路を北上して行くと、古く感じる源正寺(新しい「経塚」の碑)、小さな晴明丘公園(古い「経塚」の碑)、それから阿倍王子神社と安倍晴明神社。

見所がギュッと凝縮している感じだ。


「北畠」の地名は北畠顕家からきている。「晴明丘」は安倍晴明からきている。

「経塚」は聖徳太子だか空海だかが経典を納めたとされるところに建てられた碑。どこかにあったものを、公園に移転。お寺の碑は新しく作られたものかな。

わたしにはみんなおとぎ話だった。聖徳太子、空海、安倍晴明・・・。北畠顕家なんて知らなかったし。


不確かな聖徳太子と空海はおいておくとして、安倍晴明と北畠顕家はおとぎ話じゃないんじゃないかと今は思う。

平安時代の有名な陰陽師、安倍晴明が生まれたとされる候補地は、たぶん有力なのは京都とここ、阿倍野。阿倍野の阿倍は阿倍氏の阿倍とされていて、ここに阿倍氏が住んでいて、晴明もここで生まれたんだとか。安倍晴明神社は晴明が産湯を使ったという井戸もある。

漢字が阿倍と安倍で違うのはたいしたことではないみたい。阿倍野もいろんな漢字で書かれていたのを「阿倍野」に統一しただけみたいだし。

晴明の父は保名やすなさんで、近くには保名の地名も残っている。

母は信太山に住むキツネ、葛葉。これまたお伽話感が半端ないけど・・・。堺(諏訪ノ森あたり)には保名さんが幼き晴明を抱いて葛葉に会いに行ったという保名道があり、今生の別れをしたという鏡池も聖神社近く(信太山)にあった。信太森葛葉稲荷神社や、葛の葉町もある。


キツネはおいておくとして、阿倍野に阿倍氏がいたのは確かな話で、阿倍さんは氏寺を建て(阿倍廃寺)、氏神も創建。

後に熊野詣が大流行して王子がもうけられると、この氏神を王子としたのだって。それが阿倍王子、今の阿倍王子神社。

八軒屋浜から近いここは、2番目の王子だったり、5番目の王子だったりしたそうだ。王子も増えたり減ったりしていたんだな。今では大阪市に場所も変えずに現存する王子はここだけらしい。

阿倍王子の次の王子は津守王子かな。津守寺(今の墨江小学校)にあったそうだけれど、今は住吉大社に合祀されている。

晴明が亡くなったとき、時の天皇が晴明の生誕地に神社を祀るように命じたのだって。それで創建されたのが安倍晴明神社らしい。


散歩圏に北畠があったので、北畠顕家のことも知ることになった。

南北朝時代の南朝の武将だそうだ。

天皇家が2つに分かれて戦っていたのが南北朝時代。

鎌倉幕府を倒して、天皇による政治を始めようとした天皇がいた。それが後醍醐天皇。

後醍醐天皇は足利尊氏ら武士を使い、鎌倉幕府を倒すことに成功。自ら政治を行うようになった(建武の新政)。けれど世話になった武士のことは無視して、武士の間で不満が噴出。

足利尊氏は後醍醐天皇を幽閉し、新しく別の天皇をたてて、再び幕府による政治を行おうとした。けれど後醍醐天皇は脱出。京を逃れ、吉野で我こそは天皇なりと宣言した。

京の北朝と吉野の南朝、2つの朝廷がうまれ、戦いが始まった。

その南朝の武将として有名なのが楠木正成や北畠顕家なんだって。


北畠顕家は武将と言っても10代とかで、「花将軍」と呼ばれているそうだ。

とっても優れた人で、それだけに家柄もあって早くに武将になり、北朝と戦った。

太平記によると阿倍野で戦死したことになっていて、江戸時代に阿倍野に墓がつくられた。それで地名も北畠に。

阿倍野で戦いがあったのは確かで、今も移転しつつも碑が残る播磨塚も、このとき戦死した播磨軍を弔ったものだったといわれているみたい。けれど北畠顕家は実際には阿倍野では生き延び、次には石津で戦って、そこで亡くなったのだって。このとき、21歳。

阿倍野の墓所は今は北畠公園になっている。北畠顕家公像もあって、彩色された姿で異彩を放っているけれど、ほぼスルーされている。


北畠に阿倍氏の氏神跡に安倍晴明生誕地に。近場の散歩だったけれど、満足しておうちに帰った。

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