16 熱中症
置き去りにされたのかと思ったけど、レイはすぐに戻ってきた。左手に水の入ったコップ、そして右手に同じく水の入った桶を抱えて。
レイは桶を置くと、まず私の上半身を起こして水を飲ませてくれた。
「ありがとう」
「いいから、飲んで」
レイに支えられながら少しづつ水を飲む。
「もっと欲しい?」
「ううん。もういい」
かすれた声で答えてまた目をつぶる。レイは私を再びベンチに寝かせて、今度は桶の中に入っていたタオルを絞り、私のおでこに乗せた。冷たくて気持ちいい。
タオルはもう一枚あるようで、次はそれを絞って私の首に巻いてくれた。今日着ているのは夏用のドレスで、鎖骨が見えるくらい首元が開いているので襟が濡れる事はない。
首筋はおでこよりも冷たさを敏感に感じるのか、とてもすっきりする。体にこもっていた熱が一気にタオルに吸い取られていくようだ。
タオルはすぐに温かくなってしまうので、レイはこまめに水につけ直してまたおでこや首筋に当ててくれた。
私はレイに介抱されるまま、しばらく黙ってじっとしていたけど、少しづつ気分が良くなってきた気がするのでそっとまぶたを持ち上げた。
レイは水に触れて冷たくなった手で私の熱い手を握ったまま、心配そうに言う。
「気分はどう?」
「マシになってきたかも。ありがとう」
「抱え上げてもいい? 城の医務室に行こう。一応医者にも診てもらわないと」
「そこまでしなくても……」
かすかな抵抗も虚しく、私はレイにお姫様抱っこされ医務室まで運ばれた。すれ違う使用人たちが何事かと見てくるのが恥ずかしい。
レイは美形な上にダリオ殿下の近衛騎士をやっているからか目立つ存在で、一緒にいると嫌でも注目を浴びるのだ。
「失礼します」
医務室に着くと、レイは私を抱えたまま片手で扉を開け、中に入った。そこにいたのは、四十代くらいの少しだらしない格好をした――無精髭を生やしているし、シャツにも白衣にも皺がある――医者らしき男性だった。
「お、レイ・アライド君じゃないか。そのお嬢さんはどうした?」
「熱中症になったんです。診てください」
「熱中症? 珍しいな。随分ひ弱な竜人だ」
「竜人じゃなく、花人なんです。早く診てください。このベッド使いますよ」
「おい、勝手に……。まぁいいけど。水は飲ませたか?」
「ええ」
レイが医務室にあったベッドに私を寝かせると、先生がやってきて、タオルを取ってから私のおでこや首筋に何度も触れた。
するとレイが不機嫌に言う。
「あまり触らないでください」
「お前が診ろって言ったんだろ」
先生は一度怒った後で、私の容態について「まぁ問題ないだろう」と言った。そしてタオルをひらひらと揺らして続ける。
「応急処置が良かったな。お前がやったんだろ、これ? この前、熱中症になったらどうしたらいいか俺に聞きに来てたもんな」
レイが? と思って、私は視線を彼に向けた。先生は続ける。
「バクスワルドの夏の炎天下でも竜人はめったに熱中症にならないのに、一体何を思ってそんな事聞きに来たのかと思ったが、その子の事を心配してたのか。花人ねぇ……」
「もう少しここで休ませてもいいですよね?」
レイは先生と会話をする気がないのか、有無を言わさぬ口調で自分の聞きたい事だけを尋ねた。
「それはもちろん構わんさ」
と、そこで医務室に怪我をしたらしい騎士がやってきたので、先生はその手当てを始めた。レイはベッドを囲むカーテンを閉めた後、ベッド脇の椅子に座って私の手を握る。
ちらりと見ると、レイは最初は心配そうな顔をしてくれていたのに、今は何故か眉間に皺が寄っていっている。
そして怒っているような口調でこう言った。
「僕らが想像しているより花人は強いだって? よく言うよ」
レイが言っているのは、『レベッカさんたちが想像しているより花人は強いですよ』という、昨日私が言ったセリフの事だろう。
「王妃様に頼まれて仕方がなかったのかもしれないけど、自分の体の弱さを自覚して仕事をしないと」
「……でも、今まで熱中症になった事はなかったのよ」
「それはミュランの気候が穏やかだからだ。バクスワルドでは今まで以上に体調に注意するべきだよ」
レイは厳しい口調で続ける。
「ミュランで会った時、君はあまり自分が花人である事を意識していないと言っていたね。親が花人だというくらいで、周りはみんな人間ばかりの環境で育ってきたし、それに花人は人間とほとんど変わらないからと。確かに見た目は人間と同じだけど、でも体質は違うんだから――」
お説教され、私がしょんぼりし始めると、レイはそれに気づいて言葉を止めた。
私は弱々しく言う。
「怒らないで」
「……ごめん」
レイは私の手を両手でギュッと握って、反省したように言う。
さっきからずっと手を握ってくるけど、レイは私の番をやめたと思ったら、今度は心配性な母親にでもなるつもりなのかしら? と、私は密かに思ったのだった。
翌日。すっかり元気になった私は、パトリシア様の散歩に付き合って城の前庭を歩いていた。前庭は広く、人工的に作られた小川も流れており、観賞魚も泳いでいるので、その小川に沿って歩く。
使用人のレベッカさんやモナさん、サリさんも一緒で、後でお茶ができるように、籠にティーセットやお菓子を入れて持ってきてくれている。
「外は風があって気持ちいいですね」
「ええ、そうね」
私やパトリシア様は日傘を差しているので、日差しは遮る事ができている。普段なら私は日傘なしで外に出ていたところだが、昨日熱中症になってしまったので今日は用心する事にしたのだ。
けれど、後ろから他の近衛騎士と一緒について来ているレイの視線が痛い。いつ体調不良の兆候が出ても気づけるように、何気ない動作や表情をつぶさに観察されている気がする。
レイは昨日からどうしたんだろう。あの心配っぷりが嘘とも思えないし、本当に私の親にでもなったつもりなのだろうか。
――と、私がそんな事を考えていた時だった。
城の正面の門に近づくと、外が騒がしい事に気づく。門まではまだ距離があるが、そちらに目をやれば門の外に人垣ができていた。
門番が追い払おうとしているが、人々は門番を無視して、片手を振り上げながら城に向かって何かを言っている。
「結婚反対!」
「ダリオ殿下とパトリシア王女の結婚反対!」
彼らが何を言っているのか認識して、私はとっさにパトリシア様の耳を塞ぎたくなった。けれどすでにパトリシア様も彼らに気づいて、表情を凍らせている。
「パトリシア王女は良き王女ではない! ダリオ殿下にはふさわしくない!」
日傘で顔が隠れていたおかげか、庭木が障害物になって姿がよく見えないのか、彼らはパトリシア様が庭にいる事には気づいていない。
「城の中に戻りましょう」
レイが近づいてきて、パトリシア様に言う。パトリシア様は日傘に隠れて少しうつむいたまま頷いた。
私はパトリシア様の肩を抱いて言う。
「どうか気になさらないでください。パトリシア様の事を何も知らないのに、良い王女ではないだなんて……。彼らは根も葉もない噂を鵜呑みにしているだけです」
「そうですよ。惑わされやすい愚かな者たちです。ああやって行動を起こすから目立ちますが、ほとんどの竜人は噂を鵜呑みにはせず静観しているのですから。それに私たちはもちろん、パトリシア様の事を素晴らしい王女様だと思っています」
レベッカさんも同意してそう言ってくれた。
けれどパトリシア様は肩を落としたまま、こう呟く。
「みんなから好かれるのは無理だと分かっているけど、嫌われるのは悲しいわ……」




