六十銅を、手渡す日
【人物のおさらい】
・ノア:父の工房で修理を続ける青年。前世の設備保全の経験を生かす。
・フィーナ:ノアと協働する刻印職人。自分の技術と仕事の対価を大切にする。
・イリス:町の費用や設備の手続を扱う行政官。
清書の角は、金属の角より先に丸くなっていた。
フィーナが差し出した図を受け取り、ノアは指でその端をなぞった。昨日の朝まで工房の机へあった紙型とは違う。何度も折って確かめた跡を、清書では必要な線だけへ置き換えてある。
「そっちは、持つ所」
彼女が指したのは、線の太い方だった。
「こっちは、乗ったか見る所。昨日、私が止まった所ね」
ノアは図を受け座の横へ置いた。
金属へ引いた印と、紙の印が同じ位置に来る。自分が知っているから分かる線から、次に触る人が目を置ける線へ変わっていた。
「これなら、途中と終わりが違います」
「途中でも持てちゃうから。持てたら終わり、じゃ困るのよ」
フィーナは自分の工具袋を机の端へ寄せた。昨日の午後は家へ戻り、今日は清書を持って来ると決めた時間だった。その通りに来た彼女へ、ノアは勝手に次の作業を足す言葉を飲み込んだ。
机の上には受け座一組と図と試験記録。今日渡す物は、まずこれだけだ。
金具を包む前に、二人はもう一度、記録を読んだ。
留めの頭が抜く経路へ出たこと。向きを替えたこと。ノアが外したあと、フィーナの最初の手では、どこまで受けへ乗せるか分からなかったこと。
成功した最後の一回だけを清書すると、間違えた理由が消える。
「ここの、説明を追加して実施、って」
フィーナがペンの軸で一行を示す。
「私が読めなかったから、教えたみたいに見える。図が足りなかった所も入れて」
ノアは頷き、その下へ線を引いた。
「受け位置の終端表示が不足。図を修正して再実施、にします」
「うん。それなら、私も、この印でいい」
彼女は自分の名の隣へ、小さく確認の印を置いた。
失敗を書けば技能が減るのではない。誰の手で、どこが分からなかったかを残すから、二人分の仕事になる。
ノアはその紙を一番上へ重ねた。
*
町の窓口まで、受け座は布で包んで運んだ。
金属が鞄の中で揺れるたび、彼は歩幅を少し縮めた。作った品を持って行く朝は、材料を買って帰る朝と、同じ重さでも違った。
隣を歩くフィーナが、彼の鞄を見る。
「落ちないよ。さっき包んだの、私も見た」
「分かっているんですが。持って行くと、急に、直したくなる所が増えます」
「じゃあ、今やる?」
彼が立ち止まりかけると、彼女は首を振った。
「ここで開ける方が危ない。直したい所は、着いてから書く」
ノアは笑い、鞄の口から手を離した。
通りには、朝の買い物客が増えていた。桶を持つ人と行き違い、二人で端へ寄る。共同井戸の前を通る時、彼は遠目に、水を汲む手を見た。
あの設備へ取り付ける許可は、まだない。
手にある金具を見せたい気持ちと、今すぐあそこで動かしたい気持ちは、よく似た顔で近づいてくる。彼は包みを鞄へ残し、窓口の方へ曲がった。
イリスは、二人へ机の空いた側を示した。
帳簿と日々の支払書類が、そこへ品を置ける幅だけ避けられている。大きい試験台を用意して待っていたわけではない。
「今日は、納品物と結果の確認ですね」
「はい。乾いた模擬枠の着脱までです。実際の井戸へ使えたという結果ではありません」
ノアが包みを開くと、イリスは先に図へ目を落とした。
「この二つの留めは、両方を同時に外しますか」
「いいえ。片方で重さを受ける間に持ち替えます。こちらの印まで乗ったことを見てから、次へ進みます」
彼は指だけで順を示した。
ここで机の端へ不安定な重りを掛け、昨日の模擬枠を再現したつもりにはしない。イリスも、説明を聞けたことと実物の荷重試験をしたことは分けて、記録の頁を開いた。
最初の向きが使えなかった欄で、彼女の指が止まった。
「材料は増えていませんね」
「はい。留めの向きを替え、図を直しました。そこでやり直した時間は、僕の製作の分へ含めています」
「こちらの不足した表示も、同じ扱いですか」
「はい。説明を整え直す分として。次に町へ別料金で請求する欄へは入れていません」
フィーナが横から図を寄せた。
「私が清書したのは、こちらの変更後です。刻印本体へ新しい線を刻んだ物ではありません。最初にお出しした六十銅の範囲です」
ノアは彼女の声を聞いた。
窓口では、いつもの短い常体より一段整っている。それでも、何をしたかを自分の名で説明する強さは、工房の机と同じだった。
イリスは二人の欄を読み、最初の見積りを横へ並べた。
材料四十銅、ノアの製作と記録六十銅、フィーナの図と着脱確認六十銅。
合計百六十銅。
「契約した一組と、この確認範囲の結果を受け取ります。前金八十銅を除いた、残り八十銅です」
彼女が支払の控えを置いた時、ノアの背中が少し伸びた。
予想外の大金ではない。決めた仕事の残りが、決めた通り渡されるだけだった。
それが、こんなに胸へ残るとは思っていなかった。
彼は枚数を数え、控えへ名を書いた。八十銅。朝の財布二百五十八銅へ足し、三百三十八銅になる。
父の残した百八十金の元本が、その分減ったわけではない。
まだ払う相手もいる。彼は硬貨を握り込まず、支払用に分けた袋へ入れた。
*
「次に進む場合、湿らせた木で、まず外す所ですか」
イリスが訊いた。
ノアは鞄の別の紙を出しかけて、彼女の机の上を見た。今日の検収書類の横に、別の町人を待つ書類がある。
「相談するための項目は持って来ました。今日、ここで金額の承認まで頂く用意はありません」
「では、必要な所だけ、今伺います」
彼は紙を一枚だけ出した。
湿り方をどう揃えるか。どのくらい置いてから外すか。人の手の位置を、乾いた時と同じにできるか。
まだ値を入れていない三つだった。
イリスは順に読み、紙へ一つ、丸を付けた。
「現地でしか分からないことと、工房で先に見られることを分けてください。井戸を止める時間を、今から全部の試験のために空けることはできません」
「はい。木の枠の変化は、先に工房で。現地の湿り方を同じにできるかは、別に残します」
「それから、町で使う説明図には、作業する人数も。図の中の手が二本でも、一人でできるとは限りませんね」
ノアは、図を見た。
昨日、フィーナが持ち替える時、彼が重りの側へ手を添えていた。二人がそこへ立った結果を、一人用の手順へ平たくするところだった。
「二人で実施、と試験の表題へ入れます。人数を減らす試験は、今回に含めません」
イリスが頷いた。
受領の控えは、その一行を加えた版へ揃えられた。
ノアは古い方を破らず、変更前と書いて鞄の別側へしまう。町に残る版と、自分たちの手元の版が違ったまま、帰るわけにはいかなかった。
*
窓口を出ると、フィーナが一度、息を吐いた。
「喉、乾いた」
「僕もです」
「ずっと、同じ息で説明してたでしょ。最後、こっちが息止まりそうだった」
ノアは自分の喉へ手を添えた。
緊張していた。受け座が出来上がった時より、値段を受け取る方が、まだ怖かった。
「途中で、僕の所も、説明してもらいました」
「私の仕事を説明したんだよ。ノアの肩代わりじゃない」
「はい。……そうでした」
彼が言い直すと、フィーナは少し笑った。
工房へ戻るまでの通りで、彼女は新しい買い物をせず、家から持って来た水を一口飲んだ。ノアも自分の水を飲む。
手元へ増えた硬貨を、今日すぐ何かへ変えなければ収入にならないわけではなかった。
工房の戸を開けると、昨日の鉄粉の匂いが、まだ木の匂いに混じっている。
品を置いていた机の真ん中が、空いていた。
売れた、という実感は、鞄の重さより、この空白の方へ強く出た。
ノアは机を拭き、六十銅を数えた。
フィーナの清書と確認の控えを、その横へ置く。
「今回の分です。図の変更と清書、着脱確認まで。六十銅」
彼女も枚数を数えた。
一枚を灯りへ向け、欠けていないことを見てから、袋へ収める。
ノアはその手を見て、妙に安心した。信じているから数えない、という親しさを、仕事の支払へ持ち込まなくて済んだ。
「受け取った。こっちにも、書いて」
彼女の控えへ、彼は支払済みの日時と名を入れた。
自分の控えには、彼女が受取の印を置く。
三百三十八から六十を引き、財布は二百七十八銅。
前金から材料を買い、残りを受け取り、協働した人へ払った。残った物を全部、自分の純利益と呼ぶつもりはない。工房を開け、道具を使い、記録を作った時間もある。
それでも、自分の働いた六十銅を、恥ずかしさで消さずに終えられた。
*
フィーナは工具袋を肩へ掛けたが、すぐ戸口へは向かわなかった。
空いた机の隅に、古い紙型が残っている。
「これ、捨てる?」
「残します。金属にする前に、どこを変えたか、分かるように」
「じゃあ、その隣、私も一枚」
彼女は清書の前に使った小さい紙を出した。受けの終わりを太くした、昨日の印だった。
ノアはそれを受け取り、紙型の横へ置く。
間違いを並べた机が、見栄えの悪い場所には見えなくなっていた。
「次、濡らす試験をする時、私の時間も先に聞いて。来られるって決めてないから」
「はい。今回の六十銅と、次の仕事も分けて相談します」
「うん。あと、今度は、私も最初から記録の方へ手を入れたい」
ノアは顔を上げた。
彼女は受け取った袋を押さえ、机の線を見ている。
「最後に、私がどこで止まったか、書き直すだけじゃなくて。見る所を、二人で決めたい」
彼は頷いた。
「僕の説明を読む係だけに、しない方ですね」
「そう。私、そういう線も引けるから」
言い切ってから、彼女は少しだけ目を逸らした。
ノアは笑いそうになり、笑う代わりに、新しい紙を机へ置いた。彼女が次へ来ると決めた紙ではない。相談する時に、最初から空けておく欄だった。
片付ける前、フィーナが帳簿の空欄を見つけた。
「品を渡した日と、私へ払った日、同じ欄にしていいの?」
ノアはペンを止めた。今日は同じ日だ。だから一行で済ませかけた。だが町からの支払が遅れた場合にも、彼女の仕事をいつ受け取ったかは別に残る。
「違います。僕が受け取った日を、こちらへ。支払はこっちへ分けます」
「私の六十は、町が払ったから六十になったんじゃないからね」
「はい。町との検収を、フィーナさんへ払わない理由にしません」
彼女は頷いた。声は厳しくなかったが、簡単な愛想で流すところでもなかった。
ノアは新しい二つの欄へ、今日の日付をそれぞれ書く。二度書くことが無駄に思えたのは、今日しか見ていなかったからだ。
工房の扉が風で少し鳴った。彼は立ち、留めを掛け直してから席へ戻った。
「次の見積り、町へ出す前に、一緒に読みますか」
「読む。私の作業の名前が、ノアの作業の下へ消えてないかも見る」
「消しません」
「なら、見やすく書いて」
彼女が笑った。ノアも笑い、帳簿の細い行へ詰め込んでいた二人の名の間を、少し広く取った。仕事の大きさを、字の大きさだけで証明できるわけではない。それでも、狭かった欄をそのまま使い続ける理由もなかった。
戸口で別れる時、フィーナは外の明るさを見た。
「今日は、このあと、私の買い物。工房の材料じゃない方」
「いい物があるといいですね」
「見つける。六十銅、全部は使わないけど」
彼女は笑って出ていった。
その背へ、おかげで、と何度も礼を重ねる代わりに、ノアは、また相談します、と伝えた。
彼女が振り返り、片手を上げる。
代金を渡したら関係が終わるのでも、親しくなったら代金が要らなくなるのでもなかった。
次も頼みたい仕事がある。その仕事へ、自分の名前と値を置ける相手がいる。
ノアは工房へ戻った。
空いた机へ、湿り方と人数の二つの見出しを書く。
井戸は、まだ直り切っていない。
けれど、最初の一組を届け、二人の仕事の値段を、最後の一銅まで手渡せた。
昨日までの金属が、今日、町に残る物へ変わった。
その重さを確かめるように、彼は支払控えを、工房の帳簿へ挟んだ。
帳簿を閉じる前に、ノアは二人の受取欄をもう一度並べた。次の仕事でも、同じ欄へフィーナの名を書きたい。ノアは帳簿を閉じ、空いた机に、二人で図を広げられる場所を作った。




