直す手が入る場所まで
【人物のおさらい】
・ノア:父の工房で修理を続ける青年。前世の設備保全の経験を生かす。
・フィーナ:ノアと協働する刻印職人。自分の技術と仕事の対価を大切にする。
・イリス:町の費用や設備の手続を扱う行政官。
井戸の前には、まだ桶が三つ並んでいた。
翌日の昼、ノアは包みを持ったまま、列の最後へ寄った。先に来たフィーナが、石縁の向こうから彼を見る。
「汲み終わるの、待ってる」
「はい。今日、道具を置ける場所だけ聞いてきます」
井戸の当番は、濡れた袖を肘まで上げた男だった。町内で当番を引き受け、来る者の桶と、汲み上げの順を見ている。腰には、木枠の留めを開ける鍵が一本下がっていた。
ノアが名乗ると、男は井戸の覆いを見た。
「聞いてる。寸法を見に来る二人だな。もう一人は?」
「そこに。刻印を担当するフィーナです」
「じゃあ、二人とも、荷はあっちの乾いた石へ。ここは桶が通る」
ノアは頷き、試作の包みを置き直した。
町の窓口で決まった予定が、実物の井戸の前へ来た。だが、今ここで流れる水の量も、家へ持って帰りたい桶の重さも、予定の紙を読んで減ってはくれない。
最後の桶を受け取った女が、両手で柄を握り直した。
当番は次の綱を巻かず、留めを掛ける。ノアは持ち上げるのを手伝おうとして、一歩だけ寄った。
女に底を支えるよう頼まれ、彼は桶へ手を添えた。水面を傾けず、持ち主が持ち替えられる所まで。明日も汲めるのかと尋ねられ、ノアは覆いを指した。
「今日は、寸法を見るだけです。部品は取り替えません」
女は礼を言い、桶を運んで行った。フィーナは、その後ろ姿を見送ってから包みを解く。
ノアが工房で回した小さな試験重りより、今の桶はずっと重い。水を持ち帰る一人の腕を見ただけで、図の中の荷重が、違う輪郭を持った。
*
「こっちの覆いを開ける。手は、まだ入れるなよ」
当番が先に告げ、木枠の留めを外した。
湿った木と、冷たい水の匂いがした。乾いた工房では光っていた軸の周りが、ここでは薄暗い。
ノアは灯りを傾け、まず両手の置場を見た。
「動かないように、留めてあるのはこちらですか」
「ああ。ただ、その棒に荷を預けるな。覆いを支える物だ」
男の言う位置を指で確かめ、ノアは返事をした。
フィーナは彼の横ではなく、覆いの外へ立った。道具箱を開く前に、自分の袖を留め直す。
「私の方から、刻印の面が見える?」
「もう少し、こちらへ。足元の石が一つ低いです」
彼が指すと、彼女は踏む場所を変えた。
昨日、二人で回した短い軸と、同じ形の金属がある。けれど、受ける木枠の幅も、道具を入れられる隙間も、図の余白より狭かった。
ノアは、試作した受け座をそのまま当てようとはしなかった。
最初に、木枠の外側から寸法を拾う。次に、軸の中心と、部品の縁が来る位置を紙へ移した。
工房で描いた線へ重ねると、片側だけ、短くなる。
「削る所が、増えた?」
フィーナが訊いた。
「いえ。削って寄せると、ここの木へ当たります。昨日、台では空いていた所です」
彼女は紙へ目を落とし、すぐ現物へ戻した。
「私の線も、そこを通してた。これ、裏から道具を入れられないね」
「はい。台の上なら裏返せたのに」
ノアは、自分が描いた部品の外形をなぞった。濡れていた高さも、図の右へ写した。
工房ではどの側からでも近づけた物が、井戸へ入ると、木と軸の間に閉じ込められる。
直せる形に作ったつもりで、直す時の手の方を外へ置き忘れていた。
「取り付けてから、刻み直すことになるか?」
当番が紙を覗いた。
「それを避けたいです。刻印も加工も、工房へ持ち帰って行える形に」
「だったら、外す時、ここの板まで外さない方がいい。下の留めは、冬に固くなる。俺一人だと、昼の間には戻せん」
男は低い所の木栓を指した。
ノアは、そこへ触らずに目を近づけた。水の当たる面が暗く、栓の頭だけが少し白い。
前世の設備の図が頭へ浮かんだが、そのまま別の金具の名前を口へ出すのはやめた。まず、この井戸で当番が外せる物と、外さずに済ませたい物がある。
「この上側の留めなら、いつも触りますか」
「覆いを掃除する時に。だが、何度も締め直して痩せたら、木ごと替えなきゃならん」
「分かりました。そこを使うにしても、同じ穴を何度も削る形にはしません」
ノアは紙の端へ、その人の言葉を残した。
*
フィーナが、試作の片方を布から出した。
「形だけ、横へ並べて見たい。中には入れずに」
当番が頷き、乾いた板を一枚、覆いの外へ置いた。
ノアはそこへ部品を載せる。刻まれた溝が、昼の光を細く返した。
フィーナは片膝をつき、自分の線と、井戸の木枠を同じ高さから見比べた。
「ここを、そのまま長くしない方がいい」
彼女の指は、ノアが足そうと思った面の端にあった。
「刻印の道を、こっちで折り返す。取り外す側の面が、少し広くても入るなら」
「受け座の全部を、木へ付ける代わりに、間へ取り付け片を挟むのはどうでしょう」
ノアは図を回し、別の線を描いた。
受け面と刻印のある本体を、井戸へ残したまま直すのではない。木枠へ付く部分と、外して持ち帰る部分を分ける。
フィーナはすぐに賛成せず、線の交わる所へ自分の爪を置いた。
「外せる方だけ、ぐらつかない?」
「そこを、まだ決められていません。留めを一つにすると、回るかもしれない」
「二つなら、今度は、私の線のこっちへ来る」
二人は紙から顔を上げ、もう一度、実物の隙間を見た。
すぐに答えの出ない話をしている間、井戸の当番は留めを見ていた。彼にも、この場所を空けておける時間がある。
「あと、どれくらい使える?」
ノアが訊くより先に、フィーナが当番へ顔を向けた。
「次の人が来るまで。長くても、あの影が縁へ掛かる頃だ」
男の指す先で、隣の屋根の影が石を少しずつ渡っていた。
ノアは頷いた。
「今日は、この幅と、外す側の隙間を持ち帰ります。ここで、新しい形を決め切ろうとしません」
「そうしてくれ。俺も、このまま覆いを開けて、飯へは行けん」
フィーナが小さく笑った。
「私たちも、まだです。お昼まで巻き込んじゃった」
「待つって言ったのは俺だ。次は、短く終わる頼み方をしてくれりゃいい」
その返事に、ノアは紙から目を上げた。
待ってもらったことを、無償で何度でも使える時間として覚えたくはなかった。
*
帰る前に、ノアは水の当たる所を、もう一度見せてもらった。
軸の下に溜まった水を拭き取るのではなく、今、どこが濡れているかを紙へ描く。
フィーナは道具箱を閉めたまま、刻印のある面をどう向けるかを考えていた。
「今日、魔力を通さないでよかった」
「使えば動く所は、見たくなりました」
ノアが答えると、彼女は顔を上げる。
「私も。昨日の、戻る感じがここでも出たら、嬉しいから」
彼女は部品を布へ包み直した。
「でも、昨日の台に、水は掛かってない。今ここで一回働いても、夕方まで同じか分からない」
「濡れる面を決めてから、工房で試す欄を足します」
「時間も。通してすぐ止めた分と、置いて見た分、分けて」
ノアは頷いた。
昨日の二回をなかったことにする必要はない。その二回で分かった範囲から、次に何を足すかが見えている。
当番が覆いを戻した。
ノアは、持ち込んだ物と、紙へ書いた物を一つずつ見た。借用した輪は箱のまま。試作の二つは包みへ戻る。鍵は当番の腰へ。
覆いが閉じると、フィーナは袖を下ろした。
「今日、ここを変えたのは、何もないね」
「はい。けれど、僕の図は変わりました」
「私のも。うまくいった物の、外し方がなかった」
彼女は試作の包みを軽く叩いた。
使う場を知らずに完成した顔をさせていたら、明日はこの井戸の前で、二人とも刃を持って立ち尽くしていたかもしれない。
男は再び綱の位置を見て、二人へ言った。
「次に来る日、決まったら窓口へだけじゃなく、俺たちにも。毎日、同じ奴がいるわけじゃない」
「誰が当番でも分かる紙にして、窓口にもお願いしてきます」
ノアは答え、今日の控えを男へ一枚見せた。部品を替えていないことと、次もまだ取付日が決まっていないことを、先に書いた方の紙だった。
*
工房へ戻ると、乾いた木の匂いがした。
ノアは包みを机へ置き、井戸の図の横へ昨日の試験台の図を広げる。
フィーナは道具箱を棚へ戻したが、帰り支度には入らなかった。
「ちょっと、ここの形だけ、見てから行く」
「紙の方ですか」
「うん。今日持ってきた本体、削ってから、やっぱり元に戻すの嫌だから」
彼も椅子を引いた。
取り付け片の案を、紙の別の隅へ描く。二つの留めを同じ高さへ置くと、フィーナの線を跨いでしまう。
ノアは上下へずらしかけ、そこで止めた。
「外す時、この下側へ道具が入るでしょうか」
「さっきの、影の側?」
「はい。指は入っても、留めを回す幅がありませんでした」
フィーナは現地の図へ指を置き、それから取り付け片の上へ戻す。
「なら、二つとも、こっちに寄せて。私の道は、外の縁へ逃がす。その分、厚みが欲しい」
ノアは紙へ二本の短い線を置いた。
今度は、外せる本体を横へ抜く余白が残る。その向きからなら、フィーナも刻印の端を見られる。
彼女が椅子から少し身を起こした。
「あ、これなら。図を一緒に回さなくても、私の道具の側が残る」
「木枠を削らない方にも、寄せられます」
彼は線を濃くし、すぐに本体へ刃を入れなかった。
次に作るのは金属の取り付け片ではなく、外形と手の入る所を確かめる紙型だ。工房にある厚紙を一枚出し、必要な幅だけを切り取る。
フィーナが、自分の刃ではない鋏を借りた。
「ここの角、落としていい? 実物の線を避ける目印にしたい」
「はい。僕の方は、この切れ目を、外す向きにします」
机の上に、二つの仕事を置ける形が、一枚できた。
*
紙型を戻す前に、ノアは手持ちの木切れを二つ、井戸の枠の幅へ並べた。乾いた工房の台を、現物と同じにできたとは思わない。ただ、手を入れる方を狭くしておけば、昨日と同じ見落としをそのまま繰り返さずに済む。
フィーナが横から覗き、道具箱を置こうとしていた場所へ自分の指を入れた。
「そこ、私の箱を置くと塞がる。次に現場へ持つなら、小さい包みだけにする」
「僕の灯りも。全部を近くへ置く方が、使いやすいと思っていました」
彼は灯りを少し遠くへ引いた。明るくしたい面と、手を動かす面が、必ずしも同じ所でなくてよい。暗ければ持ち替える。そのための手まで、道具で埋めない。
図の脇へ、持って行く物の欄も増えた。新しく買う物の一覧ではない。工房へ残して行ける物が、そこでは先に決まった。
遅い昼食の前に、ノアは見積りの控えを書き直した。
現地に合う取り付け片の試作。湿った状態の確認。短い動作だけでなく、止めたあとも見る時間。そして、実物へ付ける日の井戸の当番の立会い。
まだ買っていない材の値段を、知っている顔で埋めない。購入へ進む前に、イリスへ相談する欄を残す。
フィーナは刻印の仕事の欄を読み、ペンを受け取った。
「形を変える分は、ここに足す。昨日の試しの失敗まで、全部、客に払ってもらう書き方にはしない」
「僕も。台の向きを間違えた分は、工房の控えに残したままです」
二人の名前が、図の下へ並んだ。
まだ町からの前金はなく、ノアの財布は二百十八銅のまま。借入元本の百八十金も減っていない。今日の寸法確認で、新しい金属を買ったことにもならない。
けれど、作れた物をどう売るかという問いへ、外して直せる形、という答えを一つ返せた。
フィーナが厚紙の小さな部品を持ち上げた。
「これも、出張する?」
「次に、日程が決まったら。その前に、僕が机で何回か外します」
「私も外す。あんただけ上手になっても、私が持ち帰れないと困る」
ノアは笑い、紙型を彼女へ渡した。
フィーナは、指を入れる方を一度間違えた。角の目印を見て、持ち替える。
「こっちか。これなら、覚えてなくても戻れる」
彼女が机へ戻した小さな形には、まだ刻印も金属の輝きもない。
それでも、使う人が次に手を入れる場所だけは、もう残っていた。




