七十二銅で、形になった共同の図
【人物のおさらい】
・ノア:父の工房で修理を続ける青年。前世の設備保全の経験を生かす。
・フィーナ:ノアと協働する刻印職人。現物と自分の技術を大切にする。
・ウーヴェ:トルン材具店の店主。ノアが材料の用途を相談する相手。
七十二銅、と聞いた時、ノアは思わず指を二本、引っ込めた。
握っていたのは財布ではなく、昨日二人で描いた図だった。紙の端が折れ、フィーナが横から軽く支える。
「まだ、払うって言ってないよ」
「分かっています。手が、先に」
「図を値切っても安くならない」
彼女の返事に、台の向こうのウーヴェが鼻から息を出した。
「折り目を伸ばしてくれ。寸法の所が見えん」
年長の材具屋の手が、図を押さえた。掌には薄い木粉があり、朝の商品の棚へ戻るたび、粉の白さが変わる。
ノアは紙を伸ばした。
昨日、木の模型では同じ位置へ戻せるようになった。次は、実物へ使う寸法で受け座を作る。その材料の値を聞くために、二人で来た朝だった。
トルン材具店の奥からは、箱の蓋を打つ音がした。
ウーヴェは図と、持参した木片を並べる。借りた輪は箱の中にあり、傷を付けないよう布で包んであった。
「七十二は、こっちの二枚を取れる材。今、その図の形で売ってるわけじゃない」
「はい。切って合わせるのは、工房で」
「刻む所、こっちか」
彼が指した時、フィーナが自分の紙を前へ出した。
「ここです。擦れる面から、これだけ離したい。薄くして、裏へ逃がす案にはしません」
「なら、この薄い端材はやめとけ」
ウーヴェは棚から出しかけた一片を戻した。
安い物を売る気がないのではない。使わない厚みまで買う必要はないが、欲しい面が残らない物を安く買っても、図の部品はできない。
ノアは別の箱を見た。
短い切れ端が並んでいる。幅だけなら足りそうだった。
「こちらを二つ使えば、値は下がりますか」
「下がる。だが、その穴をあける位置、縁からどれだけ残る」
ウーヴェが定規を置く。
ノアは図の穴へ指を当て、切れ端へ移した。
余白が、ない。
端を無理に使うことと、端材を上手く使うことを、同じにしたかったのだと気づく。
「これでは、留める所を削ってしまいます」
「穴を動かせるなら、これも売れる。動かせん物へ、安いからって穴を寄せるなよ」
短い言葉だった。
ノアは箱を棚へ戻し、七十二銅の材をもう一度見た。贅沢をする値段ではなく、二人の図の形を残すための値段だった。
*
フィーナが、戸口の光へ図を持って行った。
「私の刻印の分、薄い方へ変えてみる?」
ノアは首を振った。
「そこを削れば買える、って考えかけました。でも、昨日、そこを残す形にしたので」
「うん。私も、削りたくない」
彼女は紙へ目を落としたまま言った。
「ただ、ノアだけが先に払う。後で、うまくいかなかった時、言いにくくなりそうで」
ノアは財布を出す前に、その言葉を受け取った。
町からの次の入金は、まだない。試作ができたことだけで、本修理の仕事が全部決まるわけでもない。
「僕は、材料を工房の試作へ使います。失敗した分を、あなたの刻印代から引きません」
「私も、今日は形を見る所まで。刻む時間は、実物ができてから見積る」
「はい」
頷くと、少し怖くなった。
誰かが半分、気前よく出してくれれば、この怖さまで半分になると思っていたのかもしれない。だが、彼女の手間をまだ始まっていない仕事へ丸めてしまう方が、あとで困る。
ウーヴェが、台へ布を敷いた。
「決めたなら、品を見ろ。金だけ先に見てると、傷が見えなくなる」
フィーナが笑い、ノアもようやく財布を開いた。
七十二銅を数えた。
ウーヴェは品と数を確かめ、包む前に二枚分の取れる位置を示した。ノアは表の小さな傷を見た。仕上げで落とせる所と、使う面へ残る所を、二人で分ける。
受け取った金属は、模型より冷たかった。
現金二百九十銅から、七十二銅。残り二百十八銅。
町の預り材を使ったことにはしない。借りた輪も、未加工で返せるままだ。
包みを鞄へ入れると、歩き始める前から肩へ重さが来た。
「お父さんの図も持ってきた?」
フィーナが、店を出てから訊いた。
「今日は、持っていません。昨日、僕たちが作った方だけ」
「じゃあ、今日の鞄は、ノアの仕事で重いね」
彼女が先に歩き、ノアはその横顔を見た。
褒められたのだと分かるまで、一拍かかった。
*
工房の扉を開けると、昨日の木の匂いが残っていた。
ノアは窓を開き、机を拭いた。金属の包みを置く場所へ削り屑を残さない。
模型は捨てずに別の台へ移す。昨日見えた動きの控えであり、今日の金属を同じ物として扱う見本ではなかった。
フィーナは刻印の道具を出さず、まず、自分が使う面へ印を付ける。
「ここの外側、削っていい所。内側は、残して」
「分かりました。留め具を通す穴も、同じ所で」
「刻む所、紙で見た時より狭い」
彼女は自分の指を、紙と実物の間で動かした。
「紙の余白、これだけ広く感じてたんだ」
ノアも隣へ立った。図の中では、線の太さで済んでいた部分へ、金属の縁と、自分の指がある。
彼女が刻む時に道具を入れる場所まで、二人の紙はまだ持っていなかった。
すぐ削り始めず、フィーナは普段使う道具を一本だけ持った。
実物に刻むのではなく、先がどこまで届くかを確かめる。
柄が、ノアの考えた縁へ当たった。
「あ。ここ、私の手が入らない」
彼女が先に笑った。悔しさの混じった、少し高い声だった。
「魔力の道だけ、上手に通した顔してた」
「縁を少し外へ逃がせば。厚みは残して、端だけ」
「それなら、刃を入れる前に描き直す」
彼女は道具を置き、線を一つ曲げた。
金属を買ってからでなければ、分からなかったことがある。だからといって七十二銅が全部、最初の図への罰へ変わるわけではない。
必要な厚みも、穴の位置も、まだ材の中へ残っていた。
*
削り始めると、木の時よりずっと時間が掛かった。
ノアの腕へ、刃を戻す疲れが溜まる。光る粉が布へ落ち、窓から入る風に舞う前に、フィーナが覆いの端を押さえた。
彼女は削る人の頭越しに指を入れない。ノアが刃を置いてから、面を見る。
「ここ、一本だけ残ってる」
「光の筋ですか」
「うん。さっきの所より、こっち」
ノアは顔の位置を替えた。頬へ窓の冷気が来る。
確かに、刃の細い跡が一本残っていた。
模型なら、そのくらいは手で押さえて動きを見ることができた。だがこれは、人の手を離れて井戸で働く候補だ。
ノアは刃を持ち直し、一度だけ余計に力を入れそうになる。
「休む?」
フィーナが訊いた。
「あと少しです」
「そのあと少しを、さっきから三回聞いた」
彼は刃を置いた。掌を開くと、指がすぐには伸びない。傷ではなく、同じ握りを続けた疲れだった。
「三回、でしたか」
「数える暇があるくらい、待ってた」
怒った顔ではなかった。ノアは顔が熱くなり、椅子を引いた。
昼のパンは、机ではなく窓際で食べた。
今日新しく買った食事ではなく、朝、工房へ持ってきた分だ。金属の粉のある台へ、食べ物を開かない。
フィーナは包みをほどき、欠けた木の模型へ目をやった。
「あれ、取っとく?」
「はい。最初に輪だけ厚くした方も」
「棚、失敗ばっかりになりそう」
「使える方は、客の所へ行くので」
彼女がパンを口の前で止め、それから笑った。
「じゃあ、棚だけ見た人には、下手な工房に見えるね」
「説明する仕事が増えます」
「看板に書いとく? うまくいった物は、出張中」
ノアも笑った。父の工房の名へ、自分たちの冗談が一つ増える。借金の紙が戸口にあることは変わらなくても、店の中の声まで古いままではなかった。
*
午後、二つの部品が、初めて同じ台へ並んだ。
ノアは見せるために磨き上げず、合わせた場所の印を残した。どこへ刃を入れたか、あとで二人とも見られる。
フィーナが薄い紙を通す。
端で、止まった。
ノアの胸が沈んだ。さっきの削り残しか、と顔を寄せると、彼女は紙を一度抜いた。
「この紙、折れてる。まだ、部品のせいにしないで」
違う一枚で確かめると、通った。
彼女の口元が少し緩む。だが、反対側では、同じ幅の紙がきつい。
「こっちは、本当に当たる」
ノアは頷き、部品を外した。
がっかりした分だけ削るのではなく、当たった面へ短く印を付ける。台から離して直し、また戻す。
三度目、彼女が紙を引き抜いた時、両方が同じように動いた。
ノアは、息を吐くのを忘れていた。
昨日の模型で使った棒を、新しい受け座へ置く。金属の軸の代わりになる試験ではない。
借りた輪は、まだ使わない。今日は外側の受け面へ、同じ位置で戻せる形が残ったかを見る。
右、左。
ノアの手で一度。フィーナの手で、もう一度。
浮かせて置き直しても、部品の縁が、さっきと同じ印へ戻った。
「できた」
フィーナの声が、ノアより先に出た。
彼は顔を上げる。
「今の所、もう一回見ていい?」
「はい。僕も、見たいです」
彼女は少し笑い、同じ動作を繰り返した。
魔力を流して支えてはいない。彼の手で押さえつけているのでもない。
削り出した形そのものが、置く場所を持っていた。
フィーナが、自分の刻印面へ道具を当てる。
今度は柄が縁へぶつからず、手首も無理に曲がらなかった。
道具を入れる隙間は、穴より小さな場所だと思っていた。それが彼女の手を入れた瞬間、仕事を続けられる広さへ変わる。
「私、ここへ刻みたい」
彼女が言った。
「刻めますか」
「刻める。今、初めて、図の時よりはっきり言える」
ノアは頷いた。
その声を聞くためにも、七十二銅は必要だったのだと思った。金を払ったから成功しなければならない、という強さとは違う。
図から先へ出るには、手に取れる物が要った。
*
夕方、ノアは見積りの紙を一枚作った。
今日の二枚は、工房で負担した試作材。七十二銅。
本修理へ使う物の数量は、実物試験の結果を受けて決める。フィーナの刻印の手間と、自分の加工の手間も、別の欄へ置く。
ノアは、今日削った金属の粉も、木屑とは別に片付けた。削れば小さくなる物を、材料の重さへ二度数えない。残った端は、同じ材の試し片として包み、買った日の値札を添える。
「この端、次に刻んでみるのに使える」
フィーナが持ち上げた。
「小さいけど、足りますか」
「うん。刃の入り方を見る分には。今日の材だからって、私が全部知ってるわけじゃない」
彼女はそれを自分の道具袋へ入れず、工房の試し片の箱へ戻した。二人で買いに行っても、勝手に半分ずつ持ち帰る物ではなかった。
今日できたから明日の朝に井戸を止めてほしい、とは書かなかった。
重さを掛けた時、濡れた木枠へ戻した時、長く回した時。その欄は、まだ空いている。
けれど、作る物の形がないまま、安くしますと頼む紙でもなくなった。
「これ、渡す時、私も行く」
フィーナが紙を覗いた。
「刻印の話は、私からする。ノアが全部覚えて、説明する方じゃなくて」
「はい。僕の加工も、自分で話します」
「そこは、任せた」
彼女は笑って、自分の名を置いた。
昨日、二つの名前を並べた時より、ペンの止まる時間が短い。
ノアも署名し、その横へ、今日の部品を描いた。
借りた輪を包み直す前に、二人で縁を確かめた。
削った跡はない。通電も、井戸への装着もしていない。
その箱と、新しい部品は別に置く。
ノアは財布を帳面の上へ開いた。二百十八銅。借入元本百八十金は、まだ同じ数字だ。
金だけを見れば、朝より少なくなっている。
だが、台の上には、朝、なかった物がある。
フィーナが帰り支度をしている間に、彼は二つの部品へ布を掛けた。明日、目を覚ました時、今日の成功まで図の中の出来事へ戻ってしまわないよう、そっと指で布の形を確かめる。
「ノア」
戸口で彼女が呼んだ。
「今日、鞄、軽くなった?」
金属を置き、金も使った。肩へ掛ける鞄だけなら、その通りだった。
「はい。でも、工房の方が、少し重くなりました」
「じゃあ、置いて帰って正解」
フィーナが笑った。
ノアは窓の光の下で、その返事をもう一度思い返した。
全部を自分で持って歩かなくても、戻って来て続きをできる場所がある。
その場所へ、自分たちの作った物を一つ置けた日だった。




