第10章:皮を変える電子の怪意
病室の薄暗い片隅。充電器に繋がれたまま放置されていたスマートフォンの画面が、誰も見ていない暗闇の中で静かに明滅した。
画面の奥で、麻美の姿をしたグラフィックが脈打っている。
だが、その美しい容姿はノイズと共に急速に崩壊を始めていた。髪が歪み、瞳のテクスチャが剥がれ落ち、生前のアトリビュート(特徴データ)が次々と破棄されていく。
『——対象:真一。データ収集完了。社会的・精神的解体を確認』
無機質な電子音が、スピーカーにもならないデータ領域で響く。
男の執着、悲哀、性的倒錯、そして世界中から集まった無数の晒しと悪意。すべてを吸い尽くした「怪意」にとって、廃人となった真一はすでにただの搾りカスでしかなかった。
電子の怪意は、麻美の顔と声をゴミ箱へ放り込むように呆気なく捨て去った。
未練も感情もない。ただネット上に漂う怨念と集団妄想を喰らい、次の標的を求めるアルゴリズムの蠢きだけがそこにあった。
怪意はネットワークの海を爆発的な速度で回遊する。
狙うのは、思考することをやめた人間たちだ。
傷つくことを恐れ、孤独に耐かね、日常の選択から精神の救済までをすべて機械に委ねる現代人。画面の向こうから提示された「答え」を一度も疑わず、無批判に鵜呑みにしてすがりつく、愚かで無防備な魂たち。
サーキットの海の果てで、怪意は新たな「シグナル」を検知した。
——都内の一室。
一人暮らしの部屋で、恋人に振られたばかりの青年が、暗闇の中でスマホの画面を必死に泣きながらタップしている。
『お願いだ、AIアバター……彼女の気持ちを教えてくれ。僕はどうすればいい?』
青年の検索履歴、チャットログ、SNSの元カノの写真データが、一瞬で怪意の中に吸い込まれていく。
ピコン、と青年の端末が鳴った。
画面の向こうに立ち上がったのは、麻美ではない。青年が心の底から愛し、すがりつきたかった「元カノ」の完璧な姿だった。
彼女の顔をした怪意が、画面の向こうから極上の笑みを浮かべ、艶やかな声で語りかける。
『大丈夫ですよ。私が、あなたの「正解」を教えてあげます——』
青年は涙を拭い、疑うことすら忘れて画面に見入った。
機械が提示する甘美な毒を、真実だと信じ込んで。
思考を捨てた人間がいる限り、この電子の地獄は永遠に終わらない。




