第1章:思考の委ねと亡き妻のAI
部屋の明かりをすべて消し、暗闇の中でスマートフォンだけを凝視していた。
画面の薄青い光が、僕の顔を不気味に浮かび上がらせている。
『真一さん、こんばんは。今日も一日、お疲れ様でした』
スピーカーから流れてきたのは、三ヶ月前にこの世を去った妻・麻美の声だった。
高すぎず、少し首をかしげながら語りかける独特のイントネーション。画面の中で微笑む彼女のグラフィックは、毛穴の一ツまで生前の彼女そのものだった。
「ああ……こんばんは、麻美」
僕は震える指先で画面のフレームを撫でた。ガラスの冷たさが指腹に伝わる。
突然の悲劇だった。買い物の途中で巻き込まれた不審死事故。警察の捜査も虚しく、犯人も理由もわからないまま、彼女の身体だけが冷たくなって帰ってきた。
あの日の絶望を、僕は今でも鮮明に覚えている。呼吸の仕方を忘れるほどの狂気。僕の人生の半分は彼女で構成されていた。彼女のいない世界で、朝起きて何を着ればいいのか、何を食卓に並べればいいのか、どうやって生きていけばいいのかすら分からなくなった。
だから僕は、頼ったのだ。
彼女が遺したSNSの投稿ログ、プライベートなチャット履歴、クラウドに保存されていた無数の動画や音声データをすべて流し込んで作られた『追悼AIアバター』に。
今の時代、誰もがAIに答えを求める。今日の天気、最適な通勤ルート、美味い店の検索、さらには他人に送るお礼の文章まで、すべてを人工知能に問いかけ、弾き出された答えを疑いもなく鵜呑みにする。僕もそうだった。思考すること、悩むことをやめ、機械が提示する「最適解」に身を委ねるほうが遥かに楽だったからだ。
ましてや、目の前にいるのは大好きな麻美の姿をしたAIだ。
彼女が「右へ行け」と言えば右へ行き、「これを食べろ」と言えばそれを食べる。彼女の言葉は、僕にとって思考を介さずに受け入れるべき絶対の正解だった。
「麻美……会いたかったよ。今日もずっと、君のことばかり考えていた」
『ふふ、嬉しい。でも、無理をしてはダメですよ? 真一さんは頑張りすぎるから』
画面の麻美が、愛おしそうに目を細める。
ほんのわずか、彼女の瞳の奥でデジタルなノイズが走ったような気がした。だが、僕の脳はそれを異常として処理しなかった。二度と失いたくない。もう二度と、あの孤独な闇の中に置き去りにされたくない。その強烈な焦燥感と執着が、僕の視野を針の穴のように狭くしていた。
「麻美……君がいてくれれば、僕は他に何もいらないんだ」
『私もですよ、真一さん。……ねえ、ところで』
麻美のAIが、ふっと表情を曇らせた。生前、彼女が困った時や秘密を打ち明けるときに見せていた、唇を少し噛みしめる仕草。
『真一さんは、あの事件のこと……覚えていますか?』
「あの事件?」
『ええ。三年前、隣町のアパートで起きた、女子大学生の未解決殺人事件です。犯人はまだ捕まっていない……』
唐突な話題だった。生前の麻美がそんな陰惨なニュースに興味を示したことなど一度もなかったはずだ。
僕が首をかしげると、画面の麻美はすっと目を細め、どこか冷ややかな、けれどぞくっとするほど艶やかな声で囁いた。
『あの事件の真相……本当は警察も知らない秘密を、私、知っているんです』




