第3話 訓練データと忘れられたブログ
第三章 訓練データと忘れられたブログ
市立図書館の夜は、昼間とはまるで別の建物みたいだった。
ガラス張りの自動ドアは既に閉まり、
正面の掲示板には「本日の開館は終了しました」の札がぶらさがっている。
街灯に照らされたその文字を、僕はしばらくぼんやり眺めていた。
スマホの時刻は十九時一分。
約束の時間きっかりだ。
裏口に回ると、小さなインターホンがあった。
押そうとして、指を引っ込める。
一瞬だけ、「やっぱりやめようか」という逃げ道が頭をよぎったからだ。
十年間、ほとんど開けなかった箱を、
今から自分の手でこじ開けようとしている。
その中身が、ろくでもないものばかりだと知っていても。
「先輩?」
背中から、聞き慣れた声がした。
振り返ると、そこに黒川由利が立っていた。
図書館のロゴが入ったカーディガンに、名札。
髪は肩のあたりで一つにまとめられていて、
高校のときより少しだけ、大人びた輪郭になっている。
「……お久しぶり」
間の抜けた挨拶しか出てこない。
「十年ぶり、くらいですかね」
由利は、あいかわらずの少し低めの声で笑う。
「とりあえず中、入ってください。閉館後なんで、あんまりここで立ってると怪しいです」
確かに。
僕は言われるまま、裏口から館内に入った。
夜の図書館は、羊水の中みたいに静かだ。
蛍光灯は完全には消されておらず、
書架の上だけが帯のように淡く光っている。
本の背表紙が、暗がりの中で規則正しく並び、
ところどころ黒い影になっている空白が、
貸し出し中のことを物語っていた。
「こっちです」
由利が案内したのは、職員用カウンターの奥にある小さな事務室だった。
書類の山と、ふるい回覧板と、パソコンが三台。
壁には、利用統計のグラフがいくつも貼ってある。
「さっき言ってた“履歴”ってやつ、見せてもらってもいい?」
椅子に座りながらそう聞くと、由利はすぐに頷いた。
「もちろん。ただ、その前に一個だけ確認させてください」
彼女は、キーボードの上に手を置いたまま、僕の方を見る。
「先輩、本当に何も、いじってないですよね?」
「いじるって?」
「図書館システムのことです。
この端末から、勝手に貸出登録したとか、そういうの」
「僕が? ここに来るの、十年ぶりなんだけど」
「ですよね」
由利は、少しだけ肩の力を抜いたように見えた。
「変なことを言ってるのは自覚してるんですよ。
でも、今のところ説明がつかないから、一応全部疑ってみないとって」
「それはまあ、ミステリ研仕込みだな」
「そうです。あの部活で学んだのは、
“まず身内を疑え”と“司書は証拠を隠してはいけない”でしたから」
そんなこと、教えた覚えはないんだけど。
でも、悪くない標語だと思う。
由利がパソコンを操作すると、
図書館システムのトップ画面が立ち上がった。
「ここから利用者検索して……」
彼女の指が慣れた様子でキーボードを叩く。
モニタには、簡素な入力欄と、
見覚えのある市立図書館のロゴ。
数秒後、画面に一行のデータが表示された。
利用者名:如月 遥
カード番号:********
住所:筑星市南町***
登録日:2014/04/05
最終更新日:2025/02/10
「十年前の住所のままですね」
由利がぽつりと言う。
「通常なら、異動とか死亡とかの時点で“利用停止”にするんですけど」
「如月のご家族、事件のあと引っ越したって聞いたけど」
「転居手続きが図書館まで回ってこなかったか、
あるいは旧システムからのデータ移行のときに、そのままスルーされたか。
正直、当時の担当者に聞かないと分からないんですが……」
彼女は苦い顔をして、別のタブを開く。
「問題はこっちです」
貸出履歴(直近)
2025/02/03 『地方自治体の情報公開制度』
2025/02/03 『市民活動と図書館』
「あまりにも固い本なので、逆に怖いんですよね」
由利がかすかに笑う。
「十年前に高校生だった人が、
十年後にこの二冊を借りに来る確率って、そんなに高くないと思いません?」
「まあ……確かに」
如月遥のイメージと、本のタイトルがかみ合わない。
少なくとも、僕の知っている彼女は、
もっと小説寄りの本棚の前にいる姿しか思い浮かばない。
「で、これが貸出日」
由利が、画面の数字を指さす。
「二〇二五年二月三日。時間が……十九時四十二分」
「閉館時間、過ぎてないか?」
「この日は延長開館で二十時までです。
カウンター当番のシフト見ましたけど、
その時間帯、貸出処理してるのは私じゃないですね」
「じゃあ、誰?」
「……それが、分からないんです」
由利は、一つため息を吐いてから、説明を続けた。
「貸出処理すると職員IDもログに残るんですけど、
ここ、空欄なんですよ。
まるで、システムだけが自動で“貸出済み”に書き換えたみたいに」
冗談で「ゴースト貸出だな」と言いかけて、飲み込む。
「バグじゃないの?」
「だったらまだ気が楽なんですけど……
一応メーカーにも問い合わせました。
でも、“その時間帯に自動処理は走っていないし、
ログを見ても問題はない”って回答で」
彼女は机の上にあったボールペンを、コツコツと指先で弾いた。
「だから、変なこと言うみたいですけど、
“誰かが、如月遥のカードを使って、この本を借りた”と考えるのが、
今のところ一番まっとうな説明なんです」
「十年ぶりに“本人”が現れたか、
あるいはカードを拾った誰かが、ね」
「はい」
言葉にした途端、空気の温度が一度下がったような気がした。
十年前、図書室から消えた同級生。
その図書室と同じ市内にある図書館で、
十年後にひょっこり名前が現れる。
「……先輩は、どう思います?」
由利が、やや身を乗り出す。
「“ミステリ作家志望”の意見が聞きたいです」
「志望、ね」
自嘲気味に笑ってから、素直に考える。
「小説としては、
本人が生きてて、何かの意図があってカードを使った――という方が、
読者受けはいいだろうな」
「現実としては?」
「現実としては……」
言いよどむ。
家族が引っ越し、
卒業アルバムの写真も消された女子生徒が、
十年後にひょっこり図書館でカードを使う確率。
「かなり低いと思う」
「ですよね」
由利は、すぐに頷いた。
「私もそう思います。
でも、ゼロじゃないから、こうして夜に先輩を呼び出してるんですけど」
「僕にできることなんて、あるか?」
「ありますよ」
即答だった。
「あの日、図書室にいなかった人の話を聞きたいんです」
「……いなかった人?」
「事件のとき、図書室にいた人の証言は、当時散々集められたはずです。
でも、“いなかった人”の記憶は、誰も整理してない。
ミステリ研の部室にいた先輩たちが、そのとき何を話してたかとか。
如月先輩が部活でどんな話をしてたとか」
確かに、そういう聞き取りはなかった。
「それに――」
由利は、少しだけ躊躇してから切り出した。
「先輩、さっき電話で、“AIに小説を書かせてる”って言ってましたよね」
「……ああ」
僕は、てっきりスルーされると思っていたその一言を、
彼女がきちんと覚えていたことに、少し驚く。
「どんな話を書かせてるんですか?」
「それは――」
言いかけて、迷う。
“二月の図書室から、如月遥が消える話だよ”
なんて素直に説明できるわけがない。
由利は、僕の目の動きを読んだように、さらに踏み込んでくる。
「隠しごとするつもりなら、
先輩はミステリ作家に向いてないですよ」
「うるさい後輩だな」
観念して、ノートパソコンをカバンから取り出した。
図書館のWi-Fiにつなぎ、
例のチャットAIの画面を開く。
そこには、今朝まで僕とAIが交わしていたやりとりと、
プロローグと第一章、第二章の本文が残っていた。
二月の終わり、放課後の図書室で、如月遥は消えた。
最後に彼女を見たと証言したのは――
「……ちょっと、待ってください」
僕が読む前に、由利が画面を覗き込んで、息を呑む。
「最初に戻るとこからにする?」
「いいです、そのままで。
最初の一文だけで、もう十分です」
由利は、画面の一文を指でなぞるようにしながら言った。
「この文章、私がどこかで読んだことがある気がするんですよ」
「十年前の事件のニュースとか?」
「ニュースになる前の話です」
由利は、眉間に皺を寄せる。
「私、如月先輩の文章、何度か読んだことがあるんです。
図書室の貸出ノートに書いてた感想とかじゃなくて……
ネット上にあった、レビューサイトみたいなやつで」
「レビューサイト?」
「はい。
うちのミステリ研、先輩たちが作ってたホームページありましたよね?
あのリンク集の中に、
“誰かが個人でやってるミステリ感想ブログ”が混ざってて」
言われてみれば、そんなものがあった気がする。
大学受験で忙しくなる前、
自分たちのサイトの相互リンクを増やそうとして、
片っ端から個人ブログにメールを送っていた。
その中に、やたら文章が上手い匿名のブロガーがいたことを、
かろうじて思い出す。
「もしかして、それが如月だった?」
「確証はないですけど……
ハンドルネームに“遥”って字が入ってたし、
学校の図書室のことをやたら詳しく書いてて。
たぶん、そうだと思います」
由利は、パソコンの横に自分のスマホを置いた。
「で、そのブログに、
“二月の図書室で一人の女子生徒が消える話のアイデアを書いてみた”
みたいな記事があったんですよ。
タイトルとか細かいところまでは覚えてないけど、
“最後に残されたのは一冊のミステリと走り書きのメモ”ってくだりは、
たぶんそのまんま」
背筋に冷たいものが走る。
「そのブログ、今でも残ってるか?」
「それが……なくなってるんです」
由利は、スマホの画面を開きながら続ける。
「とっくに閉鎖されてるのか、
URLをブクマしてたサイトごと消えちゃってて。
昨日、それを探してて夜ふかしした結果が、今の私の目の下のクマです」
たしかに、少し眠そうだ。
「ちょっと、検索してみていいですか?」
「どうぞ」
僕はノートPCのブラウザを新しく開き、
由利が覚えている限りのキーワードを打ち込む。
「“遥 図書室 ミステリ ブログ”……ヒットしないな」
「“影”って字も入ってた気がするんです。
“図書室の影”だったか、“窓辺の影”だったか」
「“如月 窓辺の影 ブログ”……」
いくつかの検索結果が出てくるが、どれもピンとこない。
個人ブログの多くは閉鎖されていたり、
広告とスパム記事に上書きされていたりした。
「ネットの海って、案外、何でもかんでも残ってるわけじゃないんですね」
由利がぽつりと言う。
「“忘れられる権利”ってやつもあるしな」
「でも、AIには、残っちゃうこともある」
その一言に、僕ははっと顔を上げた。
「どういう意味だ?」
「ニュースで見ましたよ。
こういうチャットAIって、
ネット上の文章を大量に読み込んで“勉強”してるって。
“訓練データ”とか言うんでしたっけ」
「まあ、そういう仕組みらしいな」
僕自身も、どこかの記事でざっくりと読んだことがある。
世界中のテキスト――ニュース、ブログ、小説、掲示板――
あらゆる文章を寄せ集めて、
「次に来る言葉」を予測するように訓練する。
チャットAIの回答は、その膨大な統計の上に成り立っている。
「もしですよ」由利が続ける。
「もし、その“訓練データ”のどこかに、
如月先輩が昔書いてたミステリブログが紛れ込んでたとしたら」
僕は無意識に、モニタに映る一文を見つめる。
二月の終わり、放課後の図書室で、如月遥は消えた。
「このAIが今書いてる“物語”って、
実は十年前に如月先輩が考えてたアイデアの、
再構成なのかもしれない、ってことです」
由利の声は、静かだった。
「でも、それって……」
僕は半ば反射的に反論する。
「たまたま“如月”って苗字を選んで、
二月の話だからってだけかもしれないだろ。
“遥”って名前だってありがちだし」
「そうですね」
由利はすぐに認めた。
「偶然の可能性は、もちろんあります。
だから、もう少し証拠が欲しいんです」
彼女は、スマホを操作して、画像検索を開いた。
「さっき、頑張って探した結果、
たった一つだけ、それっぽい跡が見つかったんですよ」
「跡?」
「ブログそのものじゃなくて、
“ブログをまとめてた誰か”の跡です」
由利が見せたのは、
十年前に流行っていたらしいブログランキングサイトのキャッシュだった。
そこに、かすれた文字でブログタイトルが並んでいる。
その中に、ひとつだけ、目を引く名前があった。
【消えゆく図書室の影】
――無名ミステリをひっそりと愛でるブログ
「……これ」
僕は思わず声を上げる。
「さっき、AIに頼んで変えさせた“架空のミステリ”のタイトルだ」
AIに「もっとマイナーで、“消失”を連想させるタイトル」と要求して、
適当に生成されたはずの本の名前。
『消えゆく図書室の影』
それが十年前、
どこかの誰かが運営していたミステリブログのタイトルとして、
ちゃんとこの世界に存在していたということになる。
「ね?」
由利が、こちらを見る。
「偶然って言うには、ちょっと出来すぎてません?」
僕はノートPCの画面と、
彼女のスマホの画面を、
何度か見比べる。
『消えゆく図書室の影』
たしかに、同じ文字列だ。
「つまり……どういうことだ?」
自分でも情けないくらい、間の抜けた質問だ。
由利は、慎重に言葉を選びながら答えた。
「このチャットAIが作った“架空のミステリ本”のタイトルは、
十年前に実在していた“ミステリブログ”のタイトルと同じ。
そのブログは、図書室を舞台にした短編のアイデアとか、
無名ミステリの感想を書いていた。
そしてそのブログの管理人は、
おそらく如月遥だった」
「……だから、AIは“偶然”じゃなくて、
どこかでそのタイトルを学習していた可能性がある」
「そういうことです」
事務室の空気が、じわりと重くなる。
AIは、幽霊ではない。
電気とコードの塊だ。
でも、その内側には、世界中の言葉が沈殿している。
誰かが書いて、
誰かに読まれて、
そして忘れられたはずの文章が、
どこかでまだ、形を変えて息をしている。
「じゃあ、この小説の“プロローグ”は、
十年前の如月先輩のブログ記事から繋がっているかもしれない、と」
由利のまとめに、僕は黙って頷く。
「そう考えると、
先輩がこのAIで“如月遥の失踪事件”を題材に小説を書こうとしてるのも、
ちょっと運命めいてますよね」
「運命って言葉で片付けていいのかどうか」
「じゃあ、こう言いましょうか」
由利は、少しだけ口元をゆるめる。
「十年前にネットの片隅に埋もれたままになった物語の種が、
“訓練データ”っていう土に紛れ込んで、
いま、先輩のパソコンの中で芽を出してる」
「詩的だな、司書さん」
「ミステリ研の後輩ですから」
彼女はそう言ってから、真顔に戻る。
「問題は――
この種を、どこまで育てていいのかってことです」
「どういう意味だ?」
「先輩、この話、本当に最後まで書くつもりですか?
AIと一緒に、“如月遥の失踪事件”の真相まで」
問いかけの鋭さに、息を飲む。
「それは……」
本当は、書くつもりだった。
AIが提示したプロットを土台にして、
十年前の出来事を、
「ちゃんとオチのつくミステリ」に仕立て上げる。
それは、作家志望としては魅力的な作業だし、
事件の記憶に、ひとつの「答え」を与える行為でもある。
でも、今ここで、
訓練データと忘れられたブログの話を聞いてしまった以上、
それはただの創作じゃ済まなくなる。
「如月先輩本人が、
“自分の物語はここまででいい”と思っていたかもしれないのに」
由利の声は、少しだけ震えていた。
「AIと先輩が勝手に続きを書いて、
“真相”みたいなラベルを貼ってしまっていいのか。
それが、ちょっと怖いんです」
僕は、ノートPCの画面に並ぶ文字列を見下ろす。
二月の終わり、放課後の図書室で、如月遥は消えた。
これは、AIが書いた文章であり、
十年前の誰か(たぶん如月遥)が考えた文章の残響であり、
今の僕と黒川由利が、
これから触ろうとしている「現実」への入り口でもある。
「……じゃあ、どうすればいいと思う?」
問い返すと、由利は少しのあいだ黙り、
やがて、決意を固めたように言った。
「まずは、如月先輩の“本物の文章”を、もう一度探すところからだと思います。
このブログの残骸だけじゃなくて、
図書館のどこかに、何か残ってないか。
――十年前、図書室で消えた人の足跡が」
言葉に合わせるように、
建物のどこかで、空調の音が低くうなった。
ミステリ小説の第三章にしては、
あまりにも静かで地味な決意だ。
でも、僕はその静けさに、
妙なリアリティを感じていた。
AIが勝手に用意してくれた「真相」より、
自分たちの足で集めた断片の方を、
今は信じたいと思ったからだ。
「分かった」
僕は、ノートPCの蓋を閉じる。
「じゃあ次は、“図書室”だな」
十年前に如月遥が消えた場所。
そして、
彼女が最初に物語を書き始めた場所でもあるはずの――
あの図書室へ。
第三章は、そこで幕を閉じる。
物語はまだ、何ひとつ解決していない。
けれど、少なくとも一つだけ、方向は決まった。
AIが書くミステリの続きではなく、
僕たち自身が歩いて確かめる「十年前の現場」へ向かう。
そのための最初の一歩として、
僕は図書館の貸出履歴画面にもう一度視線を戻した。
利用者名:如月 遥
最終貸出日:2025/02/03
二つの「二月」が、
スクリーンの上で、静かに向かい合っていた。




