刻印 壱
草原を荷馬車が走っていた。空はまだ暗く、空気はしんとして冷たい。それでも馬に限界まで速度を出させていた御者の額からは、大粒の汗が幾筋も流れていた。
そしてそれは御者だけではない。荷台に乗る二人の男と、まだ十五にも満たない少年。いずれも表情に余裕はなく、強張った顔を汗で濡らしている。
中でも膝を抱え込むようにして座る少年はひどい顔をしていた。焦茶の癖っ毛はいつにも増して乱れ、血の気の引いた肌は病人のように白い。呼吸は荒く、乾いた口で喘ぐように息をしていた。
「頑張れアムリ。もう少し、もう少しで街に着くからな」
荷台に乗る男の一方が、少年――アムリの手を握り呼びかける。
「父さん……、俺、死にたくない――まだ死にたくないよ」
「大丈夫、もうすぐ街だ。教会まで行けば絶対助かる。時間はまだあるんだ。このペースなら間に合う…………そうだよな!」
「ああ大丈夫だ。太陽が顔を出し切る頃には街に着く」
少年と男――アムリの父親を励ますように、御者は力強く言い切った。事実、街にはあと少しで辿り着く。刻限までには余裕があるはずだ。
「聞いたな。大丈夫だ、助かる、助かるぞ」
父親は少年の背中に手を回し勇気づけた。助かる、大丈夫だと。何度も、何度も。そうやって少年と、自分に言い聞かせた。
東の空が白み始めたのはその時だ。地平の向こうから光が差し込み草原を照らす。夜の闇は祓われ、朝の日差しが世界を包み始める。父親も少年も、その時ばかりはその光景に目を奪われた。彼らの身に降りかかった理不尽な恐怖を、その時だけは忘れることができた。
そして――それからすぐに思い出すことになる。
「あっ――」
零れ落ちた呻き。咄嗟に胸を抑えた手も、すぐに痙攣を始めた。
「アムリ――!」
父親もすぐに異変に気が付いた。戻した視線の先で、青白かった少年の肌が変色し始めている。
それは服の下、おそらくは胸部から始まり、瞬く間に末端へと広がっていく。濁った茶色と紫とが混ざり合ったヘドロのような色。およそ正常な人体が発するものではないことは明らかだった。
変化はそれだけに留まらない。変色の進行と同時に、異臭が鼻を衝く。それが何の臭いなのか、その場の全員はすぐに理解した。そしてこの臭いを発した者の末路も、夢に見るほど脳裏に刻みつけられている。
「アムリ、アムリィィ――!」
「近づくな、あんたまでやられるぞ!」
父親の絶叫で我に返ったもう一人の男が、父親を羽交い絞めにして引き離す。父親はそれでも少年に近づこうともがいた。どこにこれほどの力が眠っていたのか。抑える男の方が力自慢だったはずが、危うく腕を外されそうだ。
だがいくら足掻こうと、既に手遅れだった。
「嘘だ――まだ、まだ時間はあるはずだ! アムリが死ぬはずがない、こんなの嘘だ――!」
そう叫ぶ父親の目の前で、少年は既に人の形を保てていなかった。
指が根元から崩れ落ち、腕が骨ごと溶けていく。支えを失った身体が前に倒れ、ぐちゃりと音を立てた。どろどろに溶けた肉が荷台の床にじわりと広がっていく。
異臭は一層きつくなった。ただその頃にはもう、その場の誰も臭いを気にしているだけの余裕はなかった。瞬きの間に収まるほどの僅かな時間だったが、彼らは生涯、目の前で起こった惨劇を忘れることはできないだろう。
「アムリィィィィィィィ――!」
残された父親は拳を床に打ち付けうずくまった。その声は夜明けの光の中に消えていった。
小高い丘の上に三人の男が立っている。
ひとりは上背はあるが線の細い、焦げ茶の皮鎧に身を包んだ男――リンタロウだ。
「ここ……ですか」
彼らの見下ろす先には村があった。
木造の壁にオレンジ色の屋根が乗った家屋がまばらに建ち、大小さまざまな規模の畑とその間を通る道が隙間を埋めている。昼間だというのに人の姿はあまり見られない。空を覆う分厚い雲が影を落とし、村を灰色に染めていた。
「こうも"何か起こってる"って感じの空気は初めてですね。思わず入るのを躊躇っちまいますよ」
「事実、何かが起こっているのだからな。私も気が重いが、覚悟を決めて行くしかあるまい」
そう答えたのは、リンタロウの隣に立つ壮年の冒険者だ。リンタロウに劣らぬ長身に加え、肩幅の広いがっしりした体格をしている。茶色い髭をたっぷり蓄えた精悍な顔付きも相まって、熟練の戦士然とした風格だ。
ただ、男の装備は顔付きの印象とは異なり、鎧ではなく白を基調とした神官服だった。サポート系の魔法を得意とするクレリックという職業だ。
「さて、そろそろ向かうとしようか」
「はい。お二人とも、改めてよろしくお願いします」
最後のひとりは冒険者ではなく、冒険者ギルドの職員だ。歳は二十代の中頃で、いつもの深緑を基調とした制服ではなく、ベージュのローブに身を包んでいる。
彼の役割は連絡役だった。村から南東に向かって伸びる道を四半日ほど降ると、ギルドと教会が用意した仮設キャンプがある。そこと二人の冒険者との間に立って、情報交換の橋渡しをするのが役目だ。
同じ役割の人員がキャンプにはあと数人、その他の役割を担う者も含めれば十五人あまりがギルドから派遣されている。ギルドがこの規模で人を動かすのは稀だ。それはこの事件が切迫した状況であること以上に、その詳細が何もわかっていないことが原因だった。
死を宣告する刻印。この正体不明の呪いによって、既に十人以上が命を落としていた。




