ヴェルーノ・フィレーネフェスティ、消えた男の思い
花に彩られた街に軽快な音楽が流れて、手を取り合う者達の笑顔で溢れる。
その光景は幸せそうだなどと一言で片付けてしまうには惜しいほど、私には眩しい。……眩しすぎる。
隣に立つ影が濃ければ濃いほど、その分だけ世界は暗く淀んで見えてしまう。
……一体、どうしてこうなったのか。
赤い液体の入ったグラスを手に、私はごくりと喉を鳴らした。
思えば、父も母もずっと王族に仕えていた。
私が物心ついた時には家にいることも少なかったが、それを誇りに思えばこそ決して寂しくなどは無かった。
街中は音楽に溢れ、国を統べる王族もまた民の文化を愛し、慈しんで育ててくれた。だからこそ、民も、父母もまた王族を愛していた。
私の周囲が一変したのは、音楽を愛する美しい王妃様が流行病に倒れた頃だ。
父母と同じように、当然王族に仕えるものと勉強に励んできた当時の私は、まさしく坂道を転がり落ちるような思いだった。
……それほど、お優しい王妃様が好きだった。
民は悲しみに暮れ、街に溢れていた音楽も鳴り止んだ。
……人々の心は、王と共に憔悴していった。
気を落とす王のお力になりたくて、私はそれからすぐに城での下働きを始めた。
そうして知ったことは、王妃様がかかられた病は決して流行病などではなく。
精霊の血を継いでいた王妃様が、他国で精霊避けの呪いを受けたという事実だった。
当時はまだ精霊という存在とは距離があったが、断じて今のような従属の関係性では無く。人と精霊は対等であった。
精霊もまた王妃様を救おうと奔走してくれたが、一歩間に合わず。そうして何者をも憎まず、王妃様は呪いの果てに命を落としてしまった。
音楽を愛した王妃様へ贈る鎮魂歌を最後に、イグニス王国に音楽が流れることは無かった。
魂が還る道に迷わぬよう、音楽で導くのが定例だったこの国で、音楽が禁じられたのだ。
いつしか私も歳を重ね、父母を喪った。
その時初めて禁を破り、私は一人、父母の好きだった歌を口ずさんだ。
その後も仕事に励む間に、気が付けば私は王のすぐ側に居た。
王妃様がご健在だった当時を知る者はもう少なく、精霊が捕らえられてどれだけの年月が過ぎただろうか。
時折思い出したように王に渡される赤い酒を飲むたび、私の容姿には変化が無くなった。
不思議に思いながらも、私は王と共に年月を経た。
……そして今、私はまたその酒を渡されている。
「アメルハウザーの娘は首尾よくやっているか、アーブラハム」
「……は。万事つつがなく。」
金の髭を蓄えた王が、赤い酒を傾けて笑う。
フィレーネ王国はプリンチペッサの港から、式典のある広場までの僅かな距離も、王は馬車に乗って移動をする。
普段王城から出ない分、移動距離としては随分なものだが。
「此度の働きは素晴らしかったぞ、アーブラハム。よくぞ知らせを持って参った。花姫と第二王子の婚約をこそ防げなかったが、当日の容姿を配って回るなどなんとも愚かなことだ。」
「お褒めのお言葉、身に余る光栄でございます。……それにしても王自らが出向かれるとは」
「憎き精霊の国がようやく我が手に落ちるのだ。その瞬間を見ずしてどうする」
そう言った王が人の悪い笑顔を浮かべて馬車の外を見た。
その場に流れる音楽に顔をしかめ、赤い酒を煽る。
……王妃様がいらっしゃったら、この王をどう思われるだろうか。
不思議とそんな考えが頭を過って、私は酒の入ったグラスを籠の中に置いた。
「なんだ、アーブラハム。余の酒が飲めぬのか」
「いえ、いいえ、滅相もございません!全ては王の為。……計画を遂行する為、勝利の美酒は最後に取っておきたく」
「……フン、それもそうであるな」
必死に首を振る私に、王は事もなげに鼻を鳴らした。
馬車が広場へ着くと、目を閉ざした側近が王を迎賓席へと促した。
このオレンジの髪の男は側近の任についてからあまり会話を交わしたことは無いが、いつまでも腹の内が読めぬ男だ。
王が席に着いたところで周囲を見渡せば、もうすぐ式典が始まるからだろう。人々が次々に集まって、海を見渡せる広場はどこもかしこも嬉しそうな笑顔に溢れていた。
目深にマントを被って王族の居る席を探すと、よく見知ったナターシャの隣に顔色の良さそうなフィレーネ国王が座していた。
「……しばらく見ないと思っていた王が、よもやあんなにも回復をするとはな。アメルハウザーの娘からは死も間近だと聞いたが……あの女は誑かされたのか?」
憎々しげに顔を歪めた王が、フィレーネ国王を見て、それから順番に王族の席を見る。
ナターシャとフィレーネ国王の隣に、アドリエンヌと第一王子エドアルド。そして計画の矛先である第二王子シルヴィオの姿が並んでいた。
「どんなものかと思っていたが、奴の息子はどちらも腑抜けた面構えであるな。……肝心の花姫は一体どこに隠しているのやら。」
王が鼻を鳴らすと同時に、花の精霊が舞台の中央に上がり、花で出来た棒のようなものの前に立つ。
「皆様、よくぞ参られた。我がフィレーネ王国における、ヴェルーノの祝祭。ヴェルーノ・フィレーネフェスティの幕開けだ」
音を大きくする力があるのか、広場中にその声が響き、幕開けという言葉と共に青く大きな四角がいくつも宙に浮かんだ。
「……なんだ、あれは」
王が目を瞠ってしばらくすると、そこには各領地の様子が映し出される。……この光景は何度見ても不思議だ。
そうこうしているうちに、花の精霊がいた場所にはフィレーネ国王が立っていた。
「皆の者、心配をかけたな。長らく臥せっていたが……この通り、私は病の淵を乗り越えた。さあ、今日は皆の祝いだ!共に祝おう、ヴェルーノの訪れを!」
フィレーネ国王の掛け声で、広場と四角に映る民全ての歓声が上がる。
そのどこか懐かしい光景に、私は思わず監視の目を緩めてしまった。
その間にも次々と式典が進められ、舞台に立ったナターシャが、リボンで結ばれた紙を解いた。
「この良き日に、皆様にお知らせがございます」
お知らせという言葉でハッとして王族席を見回すと、そこにはもう第二王子シルヴィオの姿が見つけらない。
……だめだ、このままでは花姫が第二王子と共に登壇してしまう。
「これは、いわば新しい決まりごとでございます。フィレーネ王国建国の折より、私達は良識の元で育って参りました。それを今改めて、決まりごととして後世に残したく思います」
二人が無事に登壇してしまえば、王家そのものを揺るがすという計画が崩れてしまう、どうにかしてその前に捕らえなければ。
私が慌てて潜んだ仲間に合図を送っても、居るはずの仲間からは一向に返事が返ってこなかった。
「隣人を利とせず、貶めず、わかちあうこと。違いを尊重し、皆で助け合うこと。如何なる身分の者においても、隣人を尊敬する心を忘れてはならない。……これを破った者には、オシオキを執行するものとする。この決まりごとを破った者がいた場合、直ちに衛兵へ報告すること。」
ナターシャが静かにそう読み上げたところで、一瞬にして広場がざわついた。
「えっオシオキって一体どういうこと!?」
「なんだって急にそんな」
「決まりごとだとぉ……?どういうことだアーブラハム」
「さ、さて私にもよく事態が」
敵味方無く混乱する中で、ふと民衆の一部が青く光っているのに気がついた。
その光はどんどん強くなって、膨れ上がる。
「この決まりごとを定めたのは、他でもなく。我が国に古くより伝わる……」
緑に染まった人々が青い光を避けていく中で、その場から花嫁と花婿のたった二人だけが動かない。……まさか。
「伝承の花姫様、その人なのです」
ナターシャがそう言うが早いか、長いベールを揺らす花嫁が小さく手を組んで青の光を空へ放つのが見えた。
ぱあっと弾け飛んだ光が次第に花びらに変わり、広場の全てに降り注ぐ。
「……これは、一体」
私が思わず呟くと、ざわつく広場の声が一気に歓声に変わった。
「これ見たことある!」
「わあ!やっぱりあれは花姫様だったんだね!?」
「ということはあの方が、」
光の放たれた場所を見て口々に交わされる言葉を受けて、緑を纏った花嫁と花婿が完全に分かれた人波を笑顔で歩く。
優雅に手を取り合って光の花の中を歩く二人は、もう言葉にならないほど美しかった。
……なんと、眩しいのだろう。
「この、光は……」
私の後ろで読めない男がポツリと何か呟いたのが聞こえた気がしたが、私は舞台に上がった二人から目を逸らす事が出来なかった。
緑に揺らめく髪がさらりと銀の髪へと変わり、その第二王子の手で花嫁のベールがめくられて、花を纏う美しい黒髪が顔を出す。
そこで人々の歓声が一層大きくなって、一歩踏み出した花姫がひらりと手を振った。
「皆さま。初めまして。ヴェルーノも微笑む良き日に、こうして皆さまにご挨拶出来ることを嬉しく思います。わたくしは幾代目かの花姫、名をジュリアと申します。……きっと驚かれた方も多い事でしょう。」
花姫とその隣に立つ王子が寄り添って笑い合う光景が、いつしかのイグニス王国を思わせて、長らく動かなかった私の心が揺さぶられる。
「皆さまの素敵な笑顔を守りたくて、わたくしはフィレーネ王国の第二王子であるシルヴィオ様と新たな決まりごとを定めました。わたくしの祈りを込めて、幾年も幾百年も、幾千年も……皆さまに良き花の導きがありますように、と」
花姫の言葉で、民衆の声がしんと静まっていく。……理解と、少しの畏怖だろうか。
「……ああ。決まりごとと言っても何も恐ろしいことは無い。フィレーネ国の建国の折と同じく、この地に生きる皆で力を合わせて生きようという誓いのようなものだ。時は流れ、異国との交流も増えた今、何よりも必要なことであると考えた。……そうして今、私達もまた手を取り合った。知らせにて記した通り、私と花姫様は此度の祝祭において婚約を宣言する」
力強い王子の言葉で、青い四角の向こうと広場中が一気に歓声に湧き上がる。
少しの羨望でその光景を眺めていると、不意に強い視線を感じて顔を背ける。
すると、視線の先のアドリエンヌが鬼のような形相で私を見ていた。ハッとして潜む仲間を探すが、もう一人としてその姿が見つけられない。
すぐ横に座した王も、目に見えて不機嫌そうに机を叩く。
「どういうことだアーブラハム。……かの王は病の淵を超え、新しい決まりごとの制定に加えた婚約発表などと。話が違うにも程があるであろう」
「は、も、申し訳ございません」
「フン、しかし花姫はジュリアといったか。……たしかに珍しく、美しい姫だ。アレを余の城に呼ぶ事が出来れば、お前の罪は問わん」
何を、と問う前に王が馬車目がけて歩いていく。
その足取りがおぼつかず、オレンジ髪の男がそれを助けながら共に去って行った。
「……どう、したものか……」
急激に痛む胃を押さえながら王族席を見ると、未だこちらを睨み付けるアドリエンヌとその横に座るエドアルドとを除いてフィレーネ国の王族は既に皆、祝祭の場を後にしたようだった。
この先がひどく思いやられて、私は思わず光の花びらが舞う天を仰いだ。