第10話 『虐げられた小妖精は、もう我慢しない――新たな英雄の旅立ち』
第10話 『虐げられた小妖精は、もう我慢しない――新たな英雄の旅立ち』
ドラゴンが倒された翌朝、王都の中央広場には普段の何倍もの人が集まっていた。焼けた建物の修復はまだ始まったばかりで、石畳には消火に使った水が残り、焦げた木材の匂いが風に混ざっている。それでも広場の中央だけはきれいに片づけられ、白い布をかけた長机が並べられていた。シルフィはその机の前で、借り物の青いワンピースの裾を何度も指先で整えていた。
「そんなに服が気になるのか?」
隣に立つレオンが笑った。シルフィは自分の服を見下ろし、袖口についた小さな刺繍を指でなぞった。
「だって、昨日まで着ていた外套は泥だらけですし、羽も煤だらけですから」
「それなら仕方ないだろ。ドラゴンと戦ったんだから」
「でも、この服……少し大きいんです」
「宿屋のおかみさんが貸してくれたんだ。文句を言うと罰が当たるぞ」
シルフィは頬を膨らませたが、すぐに笑った。朝食の席で出された焼きたてのパンと温かいミルクを思い出すと、昨日までの騒ぎが嘘のように感じられる。けれど、広場に集まった人々の視線を浴びると、パンをちぎるときのように指先へ少し力が入った。
壇上には王国の使者と騎士団長、そして冒険者ギルドのギルドマスターであるヴァルドが並んでいた。ヴァルドはいつもの革張りの帳面を抱えていたが、今日はそこに書かれている数字よりも、目の前にいる小さな妖精を何度も見ている。王都を救った英雄を前にして、ギルドの最高責任者である彼でさえ少し落ち着かない様子だった。
「シルフィ」
「はい」
「王国から正式な褒賞が出る」
周囲から拍手が起こった。シルフィは驚いて目を丸くし、両手を胸の前で握った。
「さらに、国王陛下は君に爵位を授けたいとお考えだ」
「爵位……ですか?」
「ああ。そして冒険者ギルドからも、特別措置による最高ランクへの昇格を提案する」
今度は広場から大きなどよめきが起こった。少し離れたところでは、かつてシルフィを「羽虫」と呼んでいた冒険者たちまで聞き耳を立てている。誰も笑わない。以前なら彼女の羽を見て面白半分に声をかけてきた男たちも、今は視線を合わせようとしなかった。
シルフィはしばらく黙っていた。爵位と聞けば、きっと多くの人が喜ぶのだろう。立派な屋敷を与えられ、豪華な服を着て、毎日おいしい料理を食べる生活も悪くないかもしれない。けれど、シルフィの頭に浮かんだのは、王宮の大広間ではなく、レオンと森を歩いた日のことだった。
「申し訳ありません」
広場が静かになった。
「私は、爵位をいただくつもりはありません」
王国の使者が驚いた顔をする。
「理由を聞いても?」
「はい」
シルフィは少し考えたあと、自分の胸へ手を当てた。以前なら人から何かを言われたとき、まず自分が悪いのではないかと考えていた。しかし今は、自分が何を望んでいるのかを言葉にできる。
「私は偉くなりたいわけではありません」
シルフィは隣に立つレオンを見た。
「レオンさんと一緒に、もっといろいろな場所へ行きたいんです」
レオンが目を丸くする。
「俺と?」
「はい。薬草の森も、古代遺跡も、まだ見たことのない場所も、二人で見てみたいです」
レオンは頭をかいた。昨日までドラゴンと戦っていた男とは思えないほど、照れくさそうな顔をしている。
「そういうことなら、俺も賛成だ」
「本当ですか?」
「むしろ俺からお願いしたいくらいだ」
シルフィの羽が嬉しそうに揺れた。広場のあちこちから小さな笑い声が起こり、さっきまで張り詰めていた空気が少しだけ柔らかくなる。
ヴァルドは腕を組んで二人を見ていた。彼の机には朝食のときに飲んだコーヒーの跡が残っており、いつもなら気にして布で拭くところだが、今日はそのままにしている。ヴァルドは小さく息を吐いてから、シルフィへ笑いかけた。
「ギルドの最高ランクも断るのか?」
「はい」
「もったいないと思わないのか?」
「少しだけ思います」
「正直だな」
「でも、ランクが高くなくても冒険はできますから」
ヴァルドは声を上げて笑った。
「そうか。それなら無理に止める理由もない」
シルフィはほっとしたように肩の力を抜いた。けれど、そこで話を終わらせず、もう一つだけ伝えておきたいことがあった。彼女は広場を見回し、以前自分を笑っていた冒険者たちの姿を確認すると、ゆっくり息を吸った。
「それと……」
ヴァルドが首を傾げる。
「もう一つ、決めたことがあります」
「何だ?」
シルフィは自分の手を見た。小さな手のひらから、ほんの少しだけ緑色の光が漏れている。
「これからは、理不尽なことをされたら我慢しません」
広場が静かになった。
シルフィは続けた。
「今までの私は、黙っていればいいと思っていました。怒らなければ誰も傷つかないし、私が我慢すれば丸く収まると思っていたんです」
その言葉を聞いたレオンが静かに頷いた。シルフィはゴブリンの洞窟を思い出していた。報酬を奪われた日も、仲間を傷つけられた日も、ただ耐えることでしか前へ進めなかった。
「でも、我慢することと、何をされても黙っていることは違います」
シルフィの声が少しだけ強くなった。
「間違っていることには、間違っていますと言います。誰かを守るために耐えることは選びます。でも、誰かに我慢を強制されたら……ちゃんと断ります」
ヴァルドは目を細めた。
「それがいい」
短い言葉だった。
「耐えられるからといって、耐え続けなければならないわけじゃない。強いからといって、傷つけられていいわけでもない」
シルフィは頷いた。
「はい」
そのとき、広場の端から一人の若い冒険者が近づいてきた。以前シルフィを笑っていた男だったが、今は帽子を胸の前で握っている。
「あの……シルフィ」
「はい?」
「その……今まで、すまなかった」
シルフィは少し驚いたが、すぐに首を横に振った。
「これから気をつけてくれれば、それでいいです」
「分かった」
男が頭を下げると、別の冒険者も続いて頭を下げた。全員が過去をなかったことにできるわけではない。それでも、少なくとも今の彼らは、シルフィを「羽虫」と呼ぶことはなかった。
その日の夕方、シルフィはギルドの小さな食堂でレオンと夕食を取っていた。皿には焼いた鶏肉と芋の煮込みが盛られ、湯気と香草の匂いがテーブルの上に広がっている。シルフィは小さなフォークで芋を割りながら、何度も窓の外を見ていた。
「落ち着かないな」
「そうですか?」
「さっきから三回も外を見てる」
「だって……」
シルフィは窓の外に見える街道を指さした。
「あの先に、まだ行ったことのない場所があります」
「王都の外か?」
「はい」
「どこへ行きたい?」
レオンがパンをちぎりながら尋ねる。シルフィは少し考え、食べかけの芋を皿へ戻した。
「北の森」
「北の森?」
「古い地図に、誰も入ったことがない場所があるって書いてありました」
「危険そうだな」
「だから行ってみたいんです」
レオンは苦笑した。
「そう言うと思った」
「嫌ですか?」
「まさか」
二人は食事を終えると、それぞれ荷物をまとめた。レオンは剣を磨き、シルフィは薬草と保存食を小さな鞄へ詰めていく。干し肉、固いパン、木の実、それから念のために蜂蜜の小瓶も入れた。
「蜂蜜まで持っていくのか?」
「大事です」
「何に使う?」
「疲れたときに食べます」
「なるほど」
レオンは笑った。
翌朝、二人は王都の門を出た。朝露に濡れた草が靴を濡らし、街道には夜の冷気がまだ残っている。シルフィは新しい外套を羽織り、花飾りを髪へ編み込むと、大きく羽を広げた。
門の上から、ヴァルドが二人を見送っていた。
「気をつけてな!」
「はい!」
「困ったら戻ってこい!」
「分かりました!」
レオンが歩きながら手を振る。
「次はどこへ行く?」
シルフィは振り返った。
その顔には、かつて誰かに笑われるたびに俯いていた少女の面影が残っている。それでも、もう視線を地面へ落とすことはなかった。青空を見上げ、遠くに広がる森を指さして、シルフィは笑った。
「まだ誰も行ったことのない場所へ!」
二人は街道を歩き出した。シルフィの背中で蝶のような羽が大きく開き、朝の風を受けて軽やかに揺れる。
かつて彼女を「羽虫」と笑った者たちは、もうその小さな背中を見下すことはできない。けれど、シルフィ自身はそんなことを振り返らなかった。踏まれるたび、笑われるたび、裏切られるたびに、自分の中へ積み重なっていった力を、もう誰かに決められた人生のためには使わないと決めていた。
「レオンさん!」
「何だ?」
「急ぎましょう!」
「待て、まだ朝飯食ったばかりだぞ!」
「北の森は逃げませんよ!」
「そういう問題じゃない!」
二人の声が街道に響いた。
シルフィは笑いながら先を飛び、レオンは荷物を背負ってその後を追う。
耐えることも、声を上げることも、誰かを守ることも、仲間と笑うことも、これからは自分で選ぶ。
小さな妖精はもう、誰かの理不尽に耐えるだけの存在ではない。
自分の人生を自分で選び、自分の羽で飛んでいく英雄だった。




