第9話
「髪切ろうかな」
夕食を食べ終えたところで黎がぽつりとそんなことをつぶやいた。
確かに黎の髪は腰に届きそうだし前髪は顔を半分近く隠してしまうほど長い、おしゃれとか云々以前に凄く邪魔そうだなと亜香里も前から思っていた。
「いいんじゃないかな。黎もお洒落したりとかするんだね」
少しからかい口調でそう言ってみるが「いや、いい加減邪魔だから」と黎はあくまで淡泊で本当にそれ以上の意味は無いらしい。
黎は立ち上がると徐にペン立てに刺しておいた鋏を手に取り適当に自分の髪を掴んで――。
「ストォォォォォプ!」
亜香里渾身の制止に鋏を刃今まさに自身の髪に当がっていた黎は目を丸くして固まった。
「……びっくりしたぁ、どうしたの急に大きな声なんて出したりして」
「どうしたもこうしたも……黎、今何しようとしてる?」
「? だから髪を切ろうかなって」
「じゃあ今その手に持ってる物は何?」
「なにって…………鋏?」
「工作用のね! しかも百均で買ったやっすいやつ! 駄目だよそんな物で髪を切っちゃ、しかもこんな場所でなんの用意も無く!」
「ええ、別に髪が切れれば鋏なんて何でも」
「良くない! もう今更お洒落に気をつかいなさいとか言うつもりは無いけどさぁ、だけどいくら何でも無頓着すぎ、美容室に行きなよお金が無いわけじゃ無いんでしょ?」
至極真っ当な意見を言ったつもりだったが黎の表情がうへぇと分かり易く苦る、まったくこの娘ときたら――しょうがない。
「……分かった、なら私が切る」
そう亜香里は静かに提案した。
人の髪を切るのは初めてじゃ無い、昔は弟や妹の髪をよく切ってあげていた。
さすがに中学生くらいにもなれば二人とも美容室に行くようになったけれど、それでもそれなりの回数経験はある。
鋏は今日の為に通販で買った、さすがに美容室でつかわれている物と比べたら月とすっぽんだがそれでも百均の鋏よりは絶対にマシだ。
場所は寮の部屋じゃ少し狭いので黎のアトリエに学校からもらってきた古新聞紙を敷いて即席美容室とした。
「家族以外に髪を切ってもらうのはこれが初めてだし、少しドキドキするね」
椅子に座りながら黎はそんな呑気な事を言っているが、その後ろで鋏を構えて立つ亜香里の方はと言えばドキドキなんてもんじゃない。
美容室に行くことを渋る黎に髪を切ると息巻いたのは三日前の事、その時は亜香里自身もその気になっていたが時間が経って冷静になると、とんでもないことを言ってしまったような気がしてきて、どうしてあんなことを言ったのかと後悔することになった。
何をそんなに緊張することがあるのかと思う人もいるかもしれない、でも想像してみてもらいたい、世界的な価値のある美しい美術品に手直しをしろと言われて緊張しない人間がいるだろうか?
万が一切りすぎてしまったりしたら取り返しが付かない、ましてや肌に傷でも付けてしまったりした日にはもう切腹するしかない。
「ねぇ、やっぱり今からでもちゃんとした美容室にい行った方が良いんじゃ?」
「今更そんなこと言わないでよ、亜香里が切ってくれるって言ったんじゃない」
「でもぉ」
渋る亜香里を下から見上げながら、黎の手がそっと伸びて亜香里の頬を触る。
触れた掌が頬を撫でる。その手つきが優しくて亜香里は思わず堪えるように目蓋と口を閉じる、そうしてないと何かが飛び出してしまいそうだった。
「――亜香里っていつも温かいよね、熱いくらい」
「そ、それは多分黎が人より体温が低いからだよ、別にこれくらいふつー」
「そうなの?」
「そうなの!」
嘘、今だって触れられた頬がはっきりと分かるくらいに熱い、火が出そうだ。
「な、なんなの? からかってる?」
「別にそういうつもりはないよ、ただなんだか緊張してるみたいだったから――大丈夫、わたしは亜香里を信じてるから」
「信じてるって、そんな大げさ……」
「それにさ正直髪型なんて何でもいいしね。あっいっそのこと丸坊主にしてみようかな、そっちの方が楽そうだし」
そんな事を言われつい反射的に丸坊主になった黎の姿を一瞬想像して亜香里は堪えきれず小さく吹き出した。
丸坊主になっても黎はきっと綺麗だろうけど。
「だめっ! せっかく綺麗な髪してるんだからもったいないよ」
そんなこと話している内に緊張は大分和らいできた、不安が無くなった訳でもないけれど怖じ気づいてた気持ちがやってやろうじゃないかと前を向く。
「一応聞くけど、こんな髪型にして欲しいとか希望はある?」
「ううん何でも良い、亜香里に任せた」
「だと思いました」
そこで黎の手が亜香里から離れる。
残り火の様に火照る頬の熱を感じながら、亜香里は意を決して黎の髪に触れる。
ヘアケアなんてしてないだろうに黎の髪は亜香里のものよりも細くてしなやかで、その手触りだけで亜香里は少しだけでドキドキしてしまう。
胸に残っていた緊張を深呼吸で吐き出してから、亜香里は黎の髪に鋏を入れた。
ショキリと鋏が音を立てると黎の髪が一束床に落ちる、一度切ってしまえば勢いが付いたのかそれ以降はそれほど躊躇することも無くテンポよく切り進めその内になんだかちょっとだけ楽しくなってきた。
二人だけしかいないアトリエの中に髪を切る鋏の音は軽快な物になっていく。
こっちはもうちょっと切った方がバランス良いかな? この辺は長めに残してあげた方が可愛いかも、弟や妹の時もよくこんなことを考えながら髪を切ってあげていた。
つい凝り過ぎて時々兄弟げんかに発展することもあったけれど今思い出してみればあの頃も結構楽しんでいた様な気がする。
「楽しい?」
「えっ? 急にどうしたの」
「なんとなく亜香里から楽しそうな気配がしたから、違った?」
後ろから髪を切っているのだから黎からは亜香里の姿は見えるはずが無いのだが、勘が良いのかそれとも人には見えない何かが見えているのかと疑いたくなる。
「うん、ちょっとだけ。昔はよく弟たちの髪もこうやって切ってあげてたなぁって思い出して」
「亜香里には兄弟がいるんだね、すこし羨ましいな」
「黎は兄弟いないの?」
「うん、わたし一人だけ。両親とも忙しい人だったから」
「へーそうなんだ」
相づちを打ちながらそういえば今まで黎から家族の話を聞いた事が無かったななと気づいた。
あえて聞くような機会も無かったし黎もそう言った事を積極的に話すようなタイプじゃ無い。
「黎のお父さんとお母さんって何してる人なの?」
「…………何だったけな?」
「何だっけって勿体ぶらないでよ。それとも人には言いにくいようなお仕事なの」
「別にそういう訳じゃ無いんだけど、あ~……確か二人ともサラリーマンだったよ、うんきっとそう」
「きっとって、嘘でしょう本気で言ってる?」
「いや、あんまり興味もなかったからさ」
「興味なかったって……」
衝撃の発言に思わず唖然とする亜香里だったが黎の様子は嘘をついてる様には見えなかったし、そもそもそんなことをする理由も無い。
それにしたって両親の職業をうろ覚えってそんなことあり得る? お父さんお母さんがこのことを知ったら泣くんじゃないだろうか?
「そんなことより亜香里の家族について聞かせてよ」
さらりとそんなことで済まされた黎の両親に同情しながら亜香里は家族の事を彼女に話した。
やんちゃな妹が弟をいじめて大変だったとか、テレビのチャンネル争いで取っ組み合いの喧嘩になったとか、だらしない父親に嫌気が差して口をきいてやらなくなったことがあったとか、母の日にプレゼントをしたら泣いて喜んでくれたとか、そんなたわいも無い話。
そんなどこにでもあるような話をしながら髪を切り進める事約三十分でカットが終わる。
言うまでも無く美容室のカットと比べるまでも無いような出来ではあるが、それでも素人仕事にしては見られる程度には出来たと思う。
腰まで届きそうだった黎の長い髪は肩上辺りで整えて、前髪は自然な感じ切りそろえられ切れ長な目元がはっきり見える。
「どう? 気になる所とかない?」
髪避けのケープを外して席を立った所に鏡を手渡して聞くと黎は軽く頭を振って出来栄えを確認する。
「うんいいんじゃないかな、頭が軽くなった」
「髪を切った感想が重さの話って本当に髪型とか興味ないんだね、張り合い無いなぁ」
「まぁね、でも気に入ったよ。ありがとう亜香里」
涼やか微笑みを浮かべて黎が亜香里に振り返る、その表情は髪を切ったおかげで前よりもはっきり見えて。
――黎ってこんな顔してたんだ。
今まで散々見てきたはずなのに髪を切るだけで随分と印象が違い、なんだか黎の新たな一面を見たようでついドキッとしてしまう。
ちょっと私チョロすぎない? と亜香里は歯がみする、惚れた弱みと言われればそれまでだけれど。
「気に入ってくれたなら良かったよ……」
「? 怒ってるの」
「えっ別に怒ってないよ――ただちょっと悔しいなーって」
「悔しいって何が? 何が悔しいの? ねぇ」
「あーもうっ! 何でもないったらぁ。ほらさっさとかたづけちゃお! ねっ! ほら!」
「……やっぱり怒ってる」
それからしばらく怒ってる怒ってないの問答を繰り返しながら部屋を片付けて、黎はこのまま作品制作に取りかかると言うので亜香里だけが寮に帰ることになった。
その道中LINEの着信があって確認してみればそれは飲み会の日時が正式に決まった事を知らせる物だった。




