第5話
石材を見つめる横顔も、陶器のように白い肌も、細くて綺麗な指先も、本物の宝石みたいな琥珀色の瞳も、髪の毛一本一本に至るまで、全てが作られたみたいに綺麗で、心が掴まれて逃げられない。
ああこの人は本当にあの黎なんだ。
希代の天才彫刻家、その称号が嘘偽り無く彼女の物であると言うこと亜香里は一目見ただけで理解させられる。
「あれ? 亜香里、どうしたのそんなところで」
声を掛けられてハッと我に返る、どれぐらい時間がたったのかと時計を確認してみれば針は十五分程進んでいた。
「あっ、おっお弁当! 忘れていったでしょ、だから届けた方がいいかなって、ごめん邪魔しちゃった?」
「そうだったけ? ごめん忘れてた」
大して悪びれてもいないように謝るその姿は、毎日を同じ部屋で暮らすものぐさで気分屋な同居人であるいつもの黎だった。
でも、たった今見た芸術家としての黎、その姿が頭から離れない、胸が高鳴って気持ちが浮ついて落ち着かない。
「と、とりあえずこれ傷むの怖いから早めに食べてね!」
正体不明の感情に困惑しながら、目的を達してこの場から離れてとにかく落ち着こうと思う亜香里だったが。
「待った待った。せっかく来たんだし少しはゆっくりしてったら、なんて言ってもおもてなしが出来るような物なんてなにも無いけど」
「え、でも、邪魔じゃない?」
「別に、それとも迷惑だった?」
「迷惑って事は無いけど……」
僅かな逡巡、本当に私が入っていいんだろうか? そう思いながらも亜香里はおっかなびっくりアトリエの中へと足を踏み入れる。
「ねぇ電気は付けないの?」
「あ~付けるのがめんどくさくってさ。気になるなら付けてもいいよ」
電気を付けるのがめんどくさいと言う感覚は亜香里にはイマイチ理解できなかったが、とりあえず主から許可が出たのでアトリエの明かりを付ける。
ほの暗かったアトリエに明かりが灯り、圧迫感が消えて心なしかさっきよりも少し部屋が広くなったような気がする。
ふと部屋の隅にある物に亜香里の目がとまった。
あんまり乱雑に置かれてるから最初何か分からなかったがそれは大理石の石像だった。
マグマの様などろっとした何かから水晶みたいなトゲ状の物が突き出していたり、華の様な形をした炎や、くりぬかれた円錐の中に星が掘られた物だったり。
なんとも一言では名状しがたい形状をした彫刻達、亜香里もネットや雑誌で黎の作品を見たことはあったがこうして実物を見るのはこれが初めてだった。
「気になるの?」
「わっ!」
不意に声を掛けられて、亜香里の肩が思わず跳ねる。
「ご、ごめん無遠慮に見たりして。おっお金とかお支払いした方がよろしいでしょうか?」
「ははっ何それ? 別に見ただけでお金取ったりなんかしないよ、変なの」
さっくりと無遠慮に変と言われるが、今回ばかりは自覚があるだけに何も言えない。
さっきから気持ちが浮ついて、挙動不審になっているのが自分でも分かっている。
「あっ、そうだ。亜香里にはどう見える? わたしの彫刻」
「えっ? どうって急に言われても、私油絵科だし彫刻はよく分からないよ」
突然感想を聞かれて亜香里はつい及び腰になってしまう。
「別に専門的な講釈を聞きたい訳じゃないよ。ただ亜香里がこれを見て何を思ったかを聞きたいんだ」
「何を思ったかなんて、どうしてそんなことを私に? 作品の感想なら先生とか、黎ならもっとすごい人から聞けるでしょう」
「そんなのはどうだっていい。わたしは亜香里の感想を聞いてみたいんだ」
思いの外食い下がられて亜香里は不思議でしょうがなかった、一体どうして自分の感想をここまで聞きたがるのかまるで分からない。
だって黎の作品と言えば何十、下手すれば何百という値段で取引される様な芸術品だ、そんな物にただの一大学生でしかない自分が感想を言うだなんて荷が勝ちすぎている様な気がしてならない。
ただここまで頼まれて何も言わないのはそれはそれで格好悪い様な気がしてきた、正直まだ少し気は引けるのだけれど。
「わかったよ。でも変なこと言っても、笑ったりしたら嫌だよ」
そう予防線を張ってから改めて黎の作品達へと亜香里は視線を向ける。
正直彫刻の技術的な事や芸術的な価値は亜香里には分からない。
ただそれでも、この彫刻達が一体何を表現して何を伝えようとしているのか、亜香里なりに考え感じた物を正直に言葉へ変えて口にする。
「感情……かな、なんとなくだけど」
何がどうしてそんな風に感じるのかは説明は出来ないのだけれど。
でも黎の作品を見ていると怒りや悲しみや喜び、そんな情動が亜香里の胸の内に湧き上がる……様な気がする。
「……へぇ」
息をつくような黎の声に亜香里はハッと我に返った。
「あっ! ご、ごめん、変なこと言って、私みたいな凡人が偉そうに! でもでも、決して何かてきとーなこと言ってるとかそんな訳じゃ」
「やっぱり亜香里は面白いね、なにも話してないのに理解もらえたのは初めてだよ」
「…………はい?」
黎は何か関心するみたいな顔をしているけれど、当の亜香里には何が何やらさっぱりで頭の上にハテナマークが飛ぶ。
「初めて会ったときも思ったけど、亜香里って物の本質を見るのが上手いのかもね」
「えっ? その……どうも?」
と言いつつやっぱり何のことを言ってるのかよく分かっていないのだけど、それでも褒めては貰えてるのはなんとなく嬉しかった。
それから黎は彫刻の制作に戻って、亜香里はその様子を見学することにした。
本当はお弁当を渡したらすぐにいま描いている絵の続きをやろうと思ってたのだけど、それ以上にもう少し黎の姿を見ていたかった。
作業に戻った黎は亜香里がアトリエに入ってきたときと同じように、彫りかけの大理石をただ静かにじっと見つめ始めた。
十分、二十分とただただ大理石を見つめ続けて、時折脇に置いた鎚と鑿を手に取って二、三回程掘り進めるとまた大理石を見つめる、それを何度も繰り返す。
大理石を見つめる黎の瞳はいつもとは比べものにならないくらい綺麗だった。
「ねぇ、何をそんなに見つめているの?」
邪魔をしてしまうんじゃないかと内心、戦々恐々としていたけれど、その瞳が一体何を見ているのかどうしても気になって勇気を出して聞いてみると。
「……余計なものを取り除いていくことにより、彫刻は完成していく」
黎は石材から目を離さないまま、そんな言葉を口にした。




