第4話
誰もが一目置く希代の女子彫刻家春夏冬黎、その実態は亜香里が最初想像していたものとは全く違うものだった。
極度の面倒くさがりで気分屋、生活力なんて皆無な有様で。
そんな彼女のあまりにあんまりな生活を見かねて、ご飯担当を買って出た亜香里だったが気がつけばそれ以外の世話もあれこれ焼くようになっていた。
掃除、洗濯、果ては家計の管理まで、家事全般は殆ど、というか全部亜香里が担当した。
学校の授業や自信の作品制作もある中でそれらの家事をこなすというのは、大学生にしてははまぁまぁのハードスケジュールかもしれない。
ただ元々、忠実な性格をしていた亜香里はそれらを別段苦に感じなかったし、なんなら色々自分のやりたいようにやれて楽しいくらいだ。
一緒の部屋で生活をしている内に亜香里の黎に対する引け目や遠慮は無くなって、黎もそんな亜香里に懐くようになった。
人に対して懐くと言うのも何か変に思えるけれど、それが一番しっくりくるのだからしょうがない。
そんな彼女に自分がこんなにも心を奪われてしまうなんて、あの時まで考えてもいなかった。
黎との生活が始まって約二ヶ月、冬の寒さも完全に過ぎ去りジメジメとした空気が肌にまとわりつくような梅雨真っ盛りな六月の半ば頃。
「まったく。ちゃんと忘れないようにねって注意したのに、あの娘は」
その日、亜香里がそんなお母さんみたいな事をぷりぷり言いながら黎のお弁当を片手に、大学校内を歩いていた。
趣味と節約を兼ねて以前から自身のお弁当を自作していた亜香里だったが、その日は黎も自分の分が欲しいとねだるので用意してあげた。
にもかかわらず、なんと奴はしれっとお弁当を忘れて出かけていきやがったのだ。普段なら冷蔵庫にでも保管しておくところだが今回はそうも言っていられない事情がある。
今回黎が出かけたのは自身の作品制作つまりは彫刻を作るためだ。
普段は何をするでもなくフラフラしてる事も多い黎だが、一度作業に入ると一週間以上アトリエに籠もりっきりで帰ってこないなんてざらだ。
かと思えば気分が乗らないと一時間も掛からず帰って来ることも偶にあるのだが、ともかく一度作業に入ると次にいつ出てくるのか読めないのだ。
冷蔵庫とはいえいつまでも置いておいたら傷むのが心配だし何より味が落ちる。
せっかく用意してあげたのに美味しいうちに食べてもらえ無いのは業腹だし、食材を作ってくれた生産者様方にも示しが付かないというもの。
そんなわけで亜香里は今、黎が作品制作をしている彼女のアトリエへと向かっているのだ。
場所は知っているので迷うことはない、と言うよりこの大学にいて黎のアトリエをしらない人はいない。
本校舎から少し離れた場所にある貸しアトリエ棟。ここは文字通り事前に手続きをした生徒に一定期間貸し出される個室のアトリエで、主に卒業制作に集中したい三年生や、共用の場では作りにくい大がかりな作品を作りたい生徒なんかが利用する。
自身の作品に集中できる場所というのは美大生にとって喉がから手が出るほど欲しい場所で、当然倍率は高いし学校側の審査も厳しく借りたくても借りられない生徒は多い。
しかし黎はそんな貸しアトリエの一つを個人的ににしかも無期限で使用することを許されている。
特例中の特例、本来ならあり得ない事だけどそれが許されるだけの才能と実績が黎にはあるということだ。
「とは言うけれど、なーんか、イマイチ実感無いんだよねぇ正直」
黎が彫刻家として世間で評価されている事は知ってる、でも亜香里の知る彼女はだらしなくて、面倒くさがりで、気まぐれで、人が一生懸命作ったお弁当を平気で忘れて行くようなふつーの大学生だ。
いや、ふつーと言うにはいささか変わり者ではあるけれど、少なくとも手がけた作品にうん百万という値段が付くような芸術家とはとても思えない。
「もしかして世間で騒がれてるのは同姓同名の別の人だったりして? なんてさすがにそんな事はないか」
そんな事を独り言ちなごら辿り着いた貸しアトリエ棟は端から見ると二階建てのマンションの様な見た目をしている、元々は学生寮だった物を改装したものだという噂だが実際のところは誰も知らないらしい。
階段を上って二階に上がり向かって一番奥にある角部屋が黎専用のアトリエだが、入学して以来、亜香里がこうしてここを尋ねるのはこれが始めてだった。
中は一体どうなってるんだろう? どうせ黎の事だから散らかり放題なんだろうな、などと中の惨状を想像しながら亜香里は戸を叩いて呼びかける。
「黎~お弁当持ってきたよー。黎~……黎?」
何度か呼びかけて見るけれど返事がない、どこかに出かけてる? 困った、他の場所に出かけるなんて聞いていない。
どうしよう、いったん寮に戻る? でもここまで来て何もしないで帰るのはなんとなく癪だ、とはいえ当てもなく校内を歩くわけにも行かない。
どうしたものかと未練がましくアトリエの戸に手を掛けてドアノブを回してみると、それは拍子抜けするほどあっさり回った。
まさかと思い戸を引いてみるとなんの抵抗もなく開いてしまう、どうやら鍵が閉まっていなかったらしい、大学の校内とはいえなんて不用心な。
ずさんな管理にあきれながらも、黎がいるかどうかだけでも確認しようと、開いた戸からそっとアトリエの中を覗いてみて――亜香里は思わず息を呑んだ。
日当たりがあまり良くないのか窓から入る日差しだけではほの暗いアトリエの中は物音を立てることさえ憚れる様な気がする程しんと静かだった。
間取りは広いワンルームになっていて、飾り気のない壁と床が広がるばかりでほかには何もない、部屋と言うより箱の中と言った方がしっくりくるような無機質さを感じるそんな空間に黎の姿はあった。
黎は何か朧気に形を浮かび上がらせつつある石材をただじっと静かに見つめていた。
作品制作の邪魔になるからか、いつもは乱雑に解かれている髪も纏められてるおかげで黎の顔がよく見える。
作品と向き合うその表情は真剣で凜々しく普段のものぐさな彼女とはまるで別人みたいだ。
よほど集中しているのか、黎はアトリエに人が入って来たことにも気づかず石を見つめ続け、そんな彼女を見る亜香里もまた動けなかった。
初めて黎を見たあの日、亜香里は彼女のことをまるで彫刻みたいだと思った。
そして今、石材を見つめピクリとも動かない黎はまるで本当に彫刻にでもなってしまったみたいで――。
――すごく、綺麗だった。




