不穏
図書館での出来事から三日が経った。
切井さんと一応話すことは成功した。切井さんが僕のことを気になっていたというのは、なんだか夢物語のような気もするが、実際切井さんはそう口にしていたので、事実として受け止めていいだろう。なぜ気になっていたのか。そこは気になるところだが、まあ、切井さんにわざわざ訊きに行くのも野暮というものだろう。逆に切井さんも訊いてこなかったわけだし、もしそんなことを訊こうものなら、切井さんも僕に訊いてくるに違いない。そうなってしまった場合、僕はいったいなんて答えればいいのか窮してしまうのは目に見えている。僕はただ切井さんが僕のことを気になっていると言われただけで十分だった。十分満たされていた。それだけで幸福だった。僕はその日から、切井さんのことがますます好きになった。切井さんと付き合えたらいいな、という思いは強くなった。実際告白すれば、案外付き合えるんじゃないかと淡い期待を抱きもした。しかし、やはり切井さんに彼氏がいないわけがないという推測も捨てきれないでいた。僕は付き合いたい衝動に駆られたものの、そうやって告白を躊躇していた。一回だけ話しただけで告白というのも、あまりにリスキーな気がする。やはりここは何回も話しかけにいって、切井さんとの距離を少しずつ埋めていくしかない。僕はそう決意した。
それは下校中に起きた。
僕はリュックを背負って、家路をたどっていた。特に急ぐこともなかったので、途中でコンビニに寄って、雑誌コーナーで週刊誌を五分ほど立ち読みし、ジュースを購入して、そのジュースの入ったペットボトルをリュックにしまい、家を目指した。
狭い路地にさしかかった。この道は近道として利用している。両隣は塀が続いてる。空を見上げると、空は茜色に染まっていた。雲もぷかぷか浮かんでいた。風が少し強く吹いた。美味しいそうな料理の匂いがした。僕は腹を空かせながら、歩を進めた。あたりはしんとして静かだった。
向こう側の電柱からぬうっと人影が現れた。背が百九十ぐらいある。遠くからでも、同じ学校の制服を着ていることがわかる。僕は立ち止まった。なんだか嫌な予感がしたからである。でもまあ、素通りすればいいかと思って、僕は道の真ん中で突っ立っている長身の男子生徒に近づいていった。そいつは、僕のことを見てにたにたにやついている。僕は身震いをし、やっぱり引き返そうかと思った。だが、変にここで踵を返そうものなら、逆にそいつの神経を逆なでするかもしれない。僕はできるだけ早足でそいつのそばを通過しようとした。そいつは腕を組み、仁王立ちしていた。電柱の傍の街灯がチカチカ点滅し、そいつの顔が少し明るくなったり、暗くなったりしていた。そいつに近づけば、近づくほど、僕のことを凝視していることが見て取れた。僕は恐怖に押しつぶされそうになった。ここで逃げることもできたが、プライドがそれを許さなかった。僕はここで逃げるほど軟弱な男ではない。僕は恐怖を振り払い、毅然とした足取りで胸を張って、ポケットに手を突っ込んで、そいつのそばを通り過ぎようとした。
「待て」
そいつは僕がそいつの真横にいるときに、そう命令口調で言った。そして、僕の肩に左手をぽんっと置いた。
「お前、神島だな」
そいつは確認するように言った。
「そうですけど」と僕は何気なくそう答えた。内心はびくびくしていた。
「お前、月美のことが気になっているんだってな」
「切井さんのことですか?」と僕は驚きながらも訊いた。
「そうだ」とそいつは頷いた。
なぜこいつは僕と切井さんのと図書室での会話を知っているんだ。しかも、切井さんのことを下の名前で呼んでいる。こいつ、もしかして切井さんの彼氏か?だとしたら、この状況は非常にまずいかもしれない。切井さんの彼氏に、切井さんのことを気になっているなんて言ったら、どんな目に遭うか知れたもんじゃない。ここは嘘を吐こう。
「いや、気になっていませんけど」
「お前、俺に嘘を吐こうってのか?」
「嘘なんかついてません。本当のことを言っているだけです」と僕は内心焦った。
「月美から聞いたんだよ。神島って奴が月美のことを気になっているってな。月美は嘘をつくような小賢しい真似はしねえ。お前、俺に嘘を吐くなんていい度胸してるな。正直に言えば、許してやったものを。お前は懲らしめねえといけねえようだな」
「ちょっと待ってください。いったい何の話をしてるんですか。全く訳が分かりません」
「お前みたいな月美に気がある野郎は嘘をついていようがいまいがどっちみち懲らしめるのは変わりないけどな」
僕は大変なことになったと青ざめた。僕は今すぐダッシュすれば、上手く撒けるのではないかと考えた。
僕は肩に置かれた手を振り払い、走ろうとした。しかし、足をかけられて、つまずいた。
「逃げさせはしねえ。ここでお前をぶちのめす」
そいつはしゃがみ込み、僕の胸ぐらをつかみ、立ち上がりながら、僕を持ち上げた。そして、空いた方の手で拳を作り、僕の頬にめがけて、勢いよく殴った。脳天に響くような、意識が吹っ飛ぶような衝撃が流れた。そいつはまたも殴った。僕は鈍い痛みに悶えた。うめき声をあげた。このまま永遠に殴られ続けられるのだろうか。僕はふとそう思った。そう思っているうちに、またもや一発入った。そして二発、三発と続き、地面にどさっと落とされた。そして、今度は腹を思いきり蹴られた。臓器が飛び出るんじゃないかと疑うほど強い蹴りだった。蹴りもまたしばらく続いた。
「お前、月美のことを諦めると誓えるか?あ”あ”?」
そいつは目くじらを立てながら、僕の腹を蹴り続けた。僕は痛みに苦しみながら、「はい、誓います」と小さな声で言った。ここはさっさと相手におもねるのが最善策だ。
「あ”あ”?聞こえねえな?もっと大きな声で言えよ」
「誓い……ます」
「はっきり言えよ、僕はもう月美には一生近づきませんって」
「僕はもう切井さんには一生近づきません」と僕は力を振り絞って声を出した。
そいつは最後に足を引いて、力いっぱい僕の腹に蹴りを入れると、せいせいしたかのようにスッキリした表情を浮かべ、「もう二度と月美に近づくんじゃねえぞ!あと、今日のことを誰かにチクったらお前を殺す」と吐き捨てると、僕に唾をペッと吐いて、路地から去っていた。
僕は唾のついた頬を拭うことすらできず、しばしの間、じんじんとした痛みで動けず、地面に横になっていた。口内で血の味がする。風が僕をいたわるように吹いた。地面はコンクリートでひんやりとしてやや冷たい。僕はなんだかとても惨めな気分に陥った。あれだけ浮かれてた自分が馬鹿みたいだと思った。




