第222話 御簾
旧ラスカ王国の王都ミランドラを抜け出し、東へ向かって逃亡を続けてから四日。アルノーと数名の護衛からなる一行は、かつてイの国と呼ばれていた焦土へと足を踏み入れていた。
見渡す限りの荒野には、黒い煤とひび割れた大地が広がっている。アルノーは、廃墟となった村の跡地で足を止め、馬から降りた。
「ここで少し休憩をとります。馬も限界に近いでしょう」
アルノーは、純白の手袋についた目に見えない灰を忌々しげに払い落とした。逃亡の身でありながら、彼の端正な顔立ちには焦燥感や疲労の色はない。順調に行けば、明後日にはメーラ天帝国に入れると知っていたからだ。
「しかし、この土埃と臭いには辟易しますね。早くメーラ天帝国の王宮で、極上の紅茶を飲みたいものですよ」
アルノーは、いつものように涼しげな声で、傍らに控える副官のエディ・ベケ少佐へ語りかけた。だが、返ってきたのは、普段の恭しい声とは異なる、ひどく冷たく硬質な言葉だった。
「それは無理かと」
「……何?」
アルノーが怪訝に思い、ハニーブロンドの髪を揺らして振り返ろうとした、その瞬間。
パンッ、と。
乾いた破裂音が、静まり返った焦土の空気を引き裂いた。
アルノーの背中に熱い衝撃が走り、次いで胸の奥が焼け付くような激痛に支配される。
「ごふっ……」
口からおびただしい鮮血が溢れ出し、アルノーの身体は泥に塗れた大地へと無様に崩れ落ちた。
霞みゆく視界の中で彼が見上げた先には、氷のように冷め切った目をしたエディが立っていた。その手には、懐に隠せるほど小型のハンドガンが握られており、銃口から細い硝煙が立ち上っている。
「エディ……き、さま……」
「アルノー閣下のような優秀な方がメーラ天帝国に行くのは、ひどくまずいんですよ」
エディは、かつての上官を路傍の石ころのように見下ろし、淡々と告げた。
「天帝国で成り上がり、権力を握るのは……この私一人で十分なのです」
アルノーは血の混じった泡を吐き出しながら、純白の手袋で大地を掻き毟る。だが、肺を正確に貫かれた彼に、もはや生き延びる道は残されていなかった。自らが虫けらのように虐殺したイの国の焦土で、彼は自らの傲慢な野心とともに、誰に悼まれることもなく静かに息絶えた。
◆◇◆◇
「どうしますか?」
部下の一人が、無表情で尋ねる。エディは、ハンドガンを懐に収め、言い放った。
「クライナイン王国の追っ手も迫っているかもしれない。死体はそのままで構わない。お前たちは、手筈通り潜伏しろ」
部下と別れたエディは、かつて世界を支配すると豪語した青年将校の亡骸を一瞥することもなく、東の空へと向かって馬の腹を蹴った。
◆◇◆◇
それから、二ヶ月後。エディ・ベケは、広大で薄暗い部屋の冷たい大理石の床に平伏していた。
部屋には、西の国々では嗅いだことのない、甘く重い香の匂いが立ち込めている。エディの何メートルも先には、真珠や水晶で編まれた美しい御簾が床まで垂れ下がり、その向こう側に、豪奢な椅子に深く腰掛ける一人の人間のシルエットが浮かび上がっていた。
「……鎮圧されたのね」
御簾の向こうから響いたのは、鈴を転がすような、それでいてひどく冷酷な女の声だった。その声色に、エディの全身から冷や汗が噴き出す。
「も、申し訳ございません。ご指示どおり《《反乱させる》》ことまでは成功しましたが……」
「アルノーはどうしたの?」
「《《ミレーヌの追手に討たれました》》」
「そう……まあ、いいわ。こちらもあの女に構う暇なかったし」
女は、退屈そうに言葉を遮った。張り詰めていた緊張がわずかに解け、エディは安堵の息を漏らす。彼は、自らの価値を証明すべく、懐から大切に包んでいた羊皮紙の束を取り出した。
「手ぶらで戻ったわけではございません。クライナイン王国が誇る、マスケット銃の設計図を入手してまいりました」
エディが両手で高く掲げると、傍らに控えていた女官が音もなく歩み寄り、それを受け取った。
「紅麗様、こちらでございます」
女官は御簾の隙間から、その名を恭しく呼びながら設計図を女へと差し出す。
「……」
御簾の向こうで、紙の擦れる乾いた音が響く。だが、紅麗と呼ばれた女からは何の賞賛の言葉も発せられない。その沈黙に焦りを感じたエディは、急いで次の『切り札』を口にした。
「あと、もう一つございます。こちらを」
エディが差し出したのは、鈍い金属光沢を放つ、見慣れぬ形状の鉄の筒だった。
「それは、何?」
「クライナイン王国が新たに開発した『後込め銃』でございます」
エディの声に、明確な自信が宿る。
「試作品の実地試験として預けられていた数丁のうちの一つを、持ち出してまいりました。従来の銃の常識を覆す、圧倒的な装填速度を誇る銃です」
再び女官が歩み寄り、その重厚な鉄の塊を受け取って御簾の奥へと差し入れた。
しばらくして、御簾の向こう側から、女の低い笑い声が漏れ出した。
やがてそれは、狂気を孕んだ歓喜の高笑いとなって、薄暗い謁見の間に響き渡った。
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