89 ヒースクリフ
アーロンの息子ヒースクリフは、ハンスより一回り上の世代、マークより少し年上である。
ハンスの子どもの頃の記憶では、高身長の筋骨隆々とした青年で、上エーギル村の若手を率いるリーダーだった。
だが、今は──
(…随分やせちまったな…)
アーロンの案内で上エーギル村村長宅に出向き、リンに手伝ってもらってヒースクリフを背負ったハンスは、少なからず衝撃を受けた。
身長のわりに、異様に軽い。肩から前に回された腕は枯れ枝のように細く、肌はカサカサに乾いている。
一応意識はあるのだが、話せないし、背負われた状態で頭を上げることも出来ていない。
ハンスの右肩に伏せている頭はぐったりと脱力していて、アーロン譲りの濃紺の髪には白髪が交じり、脂ぎってべっとりと頭皮に張り付き、妙な光沢が出ていた。
風呂に入ることも水浴びも出来ていないのか、体臭もきつい。誰がどう見ても、重病人の様相だ。
「ハンスさん、気を付けてくださいね」
「おう」
アーロンが不安そうに見守る中、ハンスはヒースクリフを冒険者ギルドエーギル支部まで慎重に運んだ。
リンが先導し、ギルドの2階、仮眠室の扉を開ける。
「アルビレオ、来たわよ」
「おお、そこに寝かせてくれ」
仮眠室には、二段ベッドが2台。規模の小さい支部なので、仮眠室自体もユグドラ支部より狭い。
アルビレオが示したのは、入って右側のベッドの下段だった。
「リン、補助してくれ」
「はい」
2人でゆっくりとヒースクリフをベッドに寝かせる。
白いシーツの上に仰臥した細い体躯に、反対側のベッドで様子を見守っていたオルトが小さく息を呑んだ。
「やせ方が…」
そう言うオルト自身も、枯れ枝のようにやせ細っているのだが。
トレドの表情も硬い。オルトの手をぎゅっと握ったまま、蒼白を通り越して土気色になっているヒースクリフの顔を凝視している。
「さて──なかなかの状態だな」
部屋の奥側、小さな机の前で待ち構えていたアルビレオが、呆れ混じりの声で呟いた。
「トレ=ド=レント、オルト=リ=オウル、失礼するぞ」
告げて、アルビレオが2人をまとめて抱え上げ、隣のベッド──ヒースクリフの横に移動させる。
オルトへの魔力供給はまだまだ足りないので、トレドが手を繋いだまま、ヒースクリフを診られるようにという配慮である。
トレドはすぐに立ち上がり、オルトも少々よろけながらもそれに続いた。
「オルト=リ=オウル、大丈夫なのか?」
「はい、立っているくらいなら平気です。今はこの方の容態の方が心配ですし」
ハンスが訊くと、オルトは気遣わしげな視線をヒースクリフに注いだ。
商人に拉致監禁される前、オルトは半身であるトレドの助手──看護師として働いていた。何年も経っていても、その職業意識は健在だった。
「オルト=リ=オウル…」
「トレ=ド=レント、早く診てあげて」
トレドが心配そうにオルトを見詰めるが、その視線を向けられた当人は頑固に首を横に振り、仕事をするようトレドを促す。
トレドはぐっと言葉に詰まり、一旦きつく目を閉じた後、キッと表情を改めた。
「出来るだけ早く済ませるから」
左手をオルトと繋いだまま、トレドが右手をヒースクリフのお腹に翳す。ハンスには何も感じ取れなかったが、アルビレオが感心したように唸った。
「魔力による全身検査か。ここまで繊細な制御ができるとは…」
「トレ=ド=レントの魔力制御能力は、故郷でも一目置かれていましたから」
オルトが応じる。トレドの集中を乱さぬように小さな声だったが、その顔は誇らしげに微笑んでいた。
ヒースクリスのベッドの横に佇むアーロンは、トレドの様子を固唾を呑んで見守っている。
程なく、トレドの眉がキュッと寄せられた。手を退かしたトレドは、衣服の向こうを見透かすようにじっとヒースクリフのお腹を見詰め、
「これは…かなり身体に負担が掛かっていますね」
「だろうな。体格もだが、皮膚の色がおかしい」
アルビレオも淡々と指摘する。そして、ぼそりとトレドに訊いた。
「腎臓か?」
「はい」
トレドは即座に頷いた。
「高濃度の水の魔素が、腎機能を狂わせています。かなり珍しいケースかと思いますが──水を溜めるのではなく、排出する方向に」
「そうか…では」
「ええ。上級回復薬ならば、回復が望めます」
その言葉に、アーロンが目を見開く。絶望感を帯びていた顔に、縋るような色。
アルビレオがポーチから上級回復薬の小瓶を取り出した。
「ハンス、患者を支えてやってくれ」
「おう」
ハンスがヒースクリフの上半身を起こし、アルビレオが口元に小瓶を持っていく。
話をきちんと認識していたのか、ヒースクリフはカサカサに乾いた唇をわずかに開き、少しずつ上級回復薬を飲み込んだ。
「…よし、全部飲めたな」
アルビレオがホッとした様子で呟くと、ハンスはヒースクリフをゆっくり元の態勢に戻す。
ヒースクリフは目を閉じたままだったが、心なしか眉間のシワが和らぎ、安堵の表情を浮かべているように見えた。
「効果が出るまで少しかかるぞ」
「ええ。このまま様子を見ましょう」
言って、トレドはアーロンへと向き直る。
「アーロン村長、ヒースクリフさんは、尿の量や回数が増えたり、水を飲む量が増えたりしていませんでしたか?」
「…うむ」
アーロンは少し戸惑ったように頷いた。
ヒースクリフは上エーギル村の魔石鉱山開発に最初から賛成していて、坑道を掘るのを主導し、本格的に操業が始まってからも先頭に立って働いていた。ハンスの子どもの頃の印象通り、鉱夫たちのリーダー格として皆を引っ張っていたのだ。
ところが、1年ほど前から様相が変わった。
ヒースクリフは頻繁に小用──トイレで作業を中断するようになり、現場での作業時間がどんどん減って行った。
本人は喉の渇きを訴え、休憩中や食事中に飲む水の量が増え、さらにトイレの回数が増える。それを何とかしようと喉の渇きを我慢して水分補給を控えれば、今度は作業中に眩暈が起きて倒れてしまう。
どうにもならない状況にヒースクリフ自身も思い悩み──半年前、現場の指揮権を年嵩の鉱夫に引継ぎ、自身は鉱夫の仕事から退いた。
表向きは、『村長の仕事を引き継ぐため』ということになっていたが。
「…よく無事だったな」
アルビレオが呆れた顔で呻く。
「喉が渇くのに水分補給をしないなど、一歩間違えるとそのまま死ぬぞ」
「ええ。眩暈は恐らく脱水症状のせいですね…」
トレドも困ったように眉を寄せた。
脱水と言うと軽く聞こえるが、実際には身体の水分が足りず、体調を一定に保つ機能が異常をきたした状態である。
ヒースクリフが水の魔素によって『体中の水分を徹底的に排出する』状態に陥っていることを考えると、水分補給をしないのは単なる自殺行為だ。
──ともあれ。
鉱夫の仕事を退いたヒースクリフは、家で療養を始めた。
しかし症状は改善せず──水分の補給量を排出量が上回り、倦怠感や眩暈、発熱、頻尿による睡眠不足なども重なってヒースクリフはどんどんやせ細り、やがてベッドから起き上がれなくなった。
(場所が悪かったってのもあるんだろうが…きついな)
村長の家は坑道の入口のすぐ近くだ。坑道の中よりマシだが、水の魔素の濃度はかなり高い。
アーロンたちは水の魔素が原因だと知る由もなく、ただやせ衰えていくヒースクリフを見ているしかなかった。
そんな中で、魔石を買い取る商人の一人がアーロンの家を訪れ、偶然ヒースクリフの姿を目にして言った。
これは治るものではないが、症状を緩和する薬ならある──と。
アーロンと家族はそれを信じ、以来、高価なその薬を商人から定期的に購入し、ヒースクリフに飲ませていた。目に見える改善はなかったが、悪化もしなかったため、薬が効いているのだと信じて。
「その薬、今手元にあるか?」
「う、うむ」
アーロンが上着の胸ポケットから薬を取り出し、アルビレオに手渡す。
小さな油紙の包みを開くと、中に入っていたのは白い粉だった。そこそこ粒が荒く、魔法道具のランプの光を浴びてキラキラと光っている。
それを少量指先でつまみ、口に入れた途端、アルビレオの口元が歪んだ。
「…なるほど。確かに、『脱水症状に効く薬』ではあるな」
「そうなのか?」
意外な答えに、ハンスは思わず首を傾げた。てっきり、何の効果もないそれっぽい粉を薬と偽って売っていると思っていたのだ。
が──
「…塩3に対して砂糖40」
アルビレオが、とても『薬』とは言い難い名前を口にした。
「は?」
「この『薬』の中身だ」
「…え?」
「……はあ!?」




