102 エーギル山の地下に棲むもの
もっとも、態度を改めたのは一瞬だった。
《俺はモクレンだ! よろしくなエーギルのおっちゃん!》
モクレンがハンスの右肩に飛び乗り、後脚で立ち上がってそれはそれは可愛らしく右前脚のピンクの肉球を掲げた。
左前脚はハンスの頭の上、やたら偉そうに肘をついている。
大変愉快な構図だが、ハンスにとってはたまったものではない。
「お・ま・え・は…! ヒトがせっかく真面目に話をしてるっつーのに!」
《なんだよカタイこと言うなよ。王様に謁見してるわけでもあるまいに》
「ある意味それよりよっぽどヤバい状況だって理解してるか?」
ハンスにとっては、権力が強いだけの国王より、根本的に人間とは異なるドラゴンの方がよほど脅威だ。
《変わった人間だな》
《だろ?》
ドラゴン──エーギルとモクレンが、通じ合った様子で頷き合う。
ハンスは釈然としないものを感じたが、とりあえず偉そうにしているモクレンの前脚を掴み、肩の上できちんと座り直させた。
「せめて姿勢を正せ、姿勢を」
《わがままだなあ》
それはこっちの台詞だ──という突っ込みは、また不毛なやり取りに突入しそうなので胸に留めておく。
正しい判断である。
「──まあとにかく、だ。このウロコがあると、魔素の悪影響を受けなくなるってことでいいのか?」
《うむ。人間とケットシーならばその程度だろう。ドラゴンの近縁であるシーサーペントやワイバーンならば、魔素操作能力や魔法の威力が上がることもあるがな》
《うーん、確かに特に変わってないな》
モクレンが空中に小さな水球を浮かべて片耳を倒す。
魔法の使えないハンスにしてみれば、ケットシーの魔法の時点で十分だろうという感覚だ。
エーギルがクッと笑いを漏らした。
《突然扱える魔素が増えたら苦労するぞ。高望みはせぬことだ》
《へーい》
パチン、水球が弾けて消えた。
《──それで、お前たちは何故上から落ちて来たのだ?》
エーギルに話を振られ、ハンスはざっと事の顛末を説明する。
上エーギル村の魔石鉱山と魔素中毒のこと、水の魔素が溢れている原因を突き止めるために周辺を探索していたこと、その途中、洞窟の中で氷を踏み抜き、落下したこと。
一通り話を聞いた後、ふむ、とエーギルが少し遠くを見る。
《…ヒトの身に悪影響が出るほどの水の魔素か。それは済まなんだな》
「へ?」
《このエーギル山の水の魔素には、我ら水のドラゴンが深く関わっているのだ》
思わぬ言葉に、ハンスは目を見開いた。
原因を探ってはいたが、まさか落ちた先で自己申告してくる存在に出くわすとは。
《我らって…ここに居るのはエーギルのおっちゃんだけだろ?》
モクレンが首を傾げると、今はな、とエーギルは付け足す。
《そもそも、我らドラゴンの棲み処は特殊なのだ》
ドラゴンは魔素を糧にして生きるため、魔素が豊富な場所を棲み処と定める。
ただその場所は、単に『魔素が豊富』なだけではない。
属性のない魔素が、特定の属性を持つ魔素に相転移する場所──それが、ドラゴンの棲み処の条件だ。
「相転移…?」
聞いたことのない単語に、ハンスは首を傾げる。
エーギルは気分を害した様子もなく、丁寧に説明を続けた。
《本来、世界中を巡っている『魔素』に属性はない。だが、特定の条件を満たすと、水や火などの属性を持つことがある》
例えば火山の地下のマグマ。
あるいは、巨大な地下水脈や深海の水流。
遥か上空で常に同じ方向へ吹く風。
ヒトには認識できない速度で動く、大地のうねり。
そういった環境のもと、魔素濃度が一定以上であることなどの条件を満たすことで、魔素は『属性持ち』の魔素へと変化──相転移する。
この地底湖は、エーギル山の地下を流れる地下水脈の終着点の一つであり、大地を巡る魔素の奔流が合流する結節点でもある。
そのため、ここに集った無属性の魔素は、その一部が現在進行形で水の魔素へと相転移している。
《我らドラゴンは、『相転移寸前の無属性の魔素』を体内に取り込み、生命維持のエネルギーとして使う。そして、相転移後の属性持ちの魔素を体外へと放出する。この地の場合は、水の魔素だ。相転移自体はドラゴンの体を介さずとも起こるが、ドラゴンが棲んでいるか否かで、その地で発生する属性持ちの魔素の量は大きく変わる》
ドラゴンはほぼ魔素だけで生命を維持している。一日に必要とする魔素の量は桁外れだ。
必然的に、放出する属性持ちの魔素の量も多くなる。
なるほど、とハンスが呻いていると、エーギルは何故かそっと視線を逸らした。
《…加えて、この地は我ら水のドラゴンの『社交場』となっていてな。毎年春には、若いドラゴンたちが集まるのだ》
「……ん?」
視線を逸らしたエーギルの顔が、妙に決まり悪そうというか、落ち着かな気に見える。
ハンスが首を傾げると、モクレンがズバッと言った。
《あーつまり、血の気の多い若い連中が喧嘩したり、カップル成立したペアがイチャコラしたり、カップル成立しなかった奴らが血の涙を吞んでバカ騒ぎしたりするんだな?》
「オイ」
《その通りだ》
「認めるのかよ!?」
《事実だからな》
あまりにも明け透けな回答に、ハンスは顔を引き攣らせる。
正直想像したくもない光景だが、つまり──
「…じゃあ、普段から水の魔素が多いのはエーギルの影響で、毎年春に魔石鉱山の魔物が増える、つまり水の魔素が増えるのは…この場所に水のドラゴンが集まって来るから、ってことか?」
《厳密にはバカ騒ぎの産物だな、鉱山春の魔物祭りは》
《そうであろうな》
「春のお楽しみイベントみたいな言い方すんな」
そこまで突っ込んで、ハンスはふと気付く。
ここは地底湖である。
春に『水のドラゴンが集まって来る』というが、一体どうやってここまで辿り着くというのか。
エーギルに訊いてみると、答えは至極単純だった。
《この地底湖は、海と繋がっている》
「へ」
エーギルは後ろを振り返り、鼻先で斜め下を示した。
《あの辺りの底に大きな穴があってな。ドラゴンでも通れる程度の巨大な地下水道になっている。普段は外洋の深海底に棲む同族も、直接そこを通ってここまで来るというわけだ》
簡単に言うが──永世中立国アイラーニアは『島国』とはいえ、ここは内陸である。
海まではかなり、いや、非常に遠い。少なくとも馬車で数日かかる距離だ。
それを貫く地下水道があるなど、ハンスには想像もできなかった。
一方で、モクレンは納得の表情でフンフンと鼻を鳴らす。
《なるほど、道理でうっすら変な臭いがするわけだ》
《うむ、潮の香りだな》
「…そんな臭いするか…?」
ハンスは首を傾げた。
当然だ。モクレンとエーギルが感じ取っているのは春先にここへやって来たドラゴンたちの残り香で、もはや人間に感じ取れるレベルではない。
地下水道で海と繋がっていると言っても、標高、および海水と真水の比重差により、海水はこの地底湖まで上がって来ないのだ。
《ま、人間には分からんだろうなー》
モクレンが無駄に偉そうに口の端を上げる。
ハンスは溜息をついて話題を戻した。
「はいはい。──しかし、水の魔素が異常に多いのは地底湖がドラゴンの棲み処だから、ってなると、対策が取りにくいな…」
《我を倒せば解決するかも知れんぞ?》
面白そうに提案するエーギルに、ハンスは即座に首を横に振った。
「ここで相転移とやらが起きてる以上は無意味だろ。大体、まともに戦って勝てるとも思えんし、あんたみたいな話が分かる相手とは戦いたくない」
きっぱりと言い放つ。
エーギルは驚いたように軽く目を見張り──その金色の瞳が笑みの形に細められた。
《…ならば、我から一つ、提案だ》
「うん?」
《これを使って──》
その提案は完全に予想外のものであったが…ハンスとモクレンは、最終的にその案を『みんなに相談してみる』として前向きに検討することにした。




