誰かの幸せ
それなりに長い時が経った。それは白い世界に多くの幸せを掴んだ者が住人となったり、あるいは幸せを掴めるという噂を聞いて訪問者として訪れて幸せを掴んで白い世界を去って行く者だったり。
人の往来だけでなく物の流通も進んだ。そして何より目に見えて分かる変化としてフラッグが増えた。建物が増えた。それはリボンちゃんが提案していた幸せを掴んだ者が住むかどうかを聞いた上で住むと決めた者達だった。
一人一人幸せを掴み、それだけでも時間が掛かるのに、それを何度も何度も繰り返して人が増えていった。最初の一人の時こそ不安であったリボンちゃんだったけれども初対面をしてから少しずつ変化していき顔見知りから知り合いになって友人となり友達になっていった。そんな人が住人になるのだからリボンちゃんも拒まなかった。
後に分かったことだけれども一人一人、リボンちゃんとしっかり関係を築く事。それも先生の作戦であったのだと。その結果、驚くべき事にこの世界に住んでいる人とリボンちゃんは全員友達であるという状態だった。もちろん大親友なのはツインちゃんだけれど。
先生のその作戦に気付いたのは先生から、これ以上住宅を増やしてしまって大丈夫なのかと訊かれた時だった。リボンちゃんが最初に仮指定していた範囲にはなんの建物も立っていないけれどそれ以外の地域は人が増えるのにつれてものすごい速さで開発されていった。
さらに人が増えると問題になってくるのが食料だ。人数が少ない時は自然の環境にある分を感謝して採るだけで足りていたのが自然発生する分では明らかに足りなくなる。尚且つ、取り過ぎてしまうと自然環境が壊れてしまう。その為に先生は全ての人を集めて新たにルールを作った。それは、
『食料は全て自給自足し、自然発生物を無断で採る事を禁止する』
というものであった。最初こそ多少の反対意見が出たものの先生がこのルールの必要性を説くと渋々ではあったけれど全ての人が納得してくれた。ただこのルールには唯一の例外が存在していたけれど。
それはリボンちゃんのみリボンちゃんの指定範囲内で無断で自然の物を採ってもよいという事。
これについてはかなり多くの人から例外はよくないのではないかと意見が出たけれど、先生を始めツインちゃんと初期の頃に住人となった者達が懸命に弁護をしてくれたお陰で唯一の例外となれた。
弁護内容としてはやはり白い世界、唯一の原住民である事が大きくリボンちゃんの世界を壊すことによってみんなが幸せに慣れていることを忘れてはいけないと、そう説明した。この幸せの世界に生まれ変わりつつある世界でたった一人だけ犠牲を払っていると。そういうとほとんどの者は何も言えなくなる。
しかしそうなると友達の関係であっても見えないところでの優劣が付く。それが関係の悪化にならないように先生が取り計らったのは万が一、自給自足ができなくなった際はリボンちゃんに援助してもらえるようにすると。要はていのいい保険にしたのだ。もちろん酷い条件だとは思ったけれどそうでもしなければ各個人にとっての平等性が守れなくなる。それは人とは違っていたとしても本人が平等であると自発的に思えるのならそれは全体で見たとしても平等と扱う事である。
あくまで個人を尊重した上での変則的平等性。先生はそれを守る事によって釣り合いを保っている。そしてこの釣り合いが保てているのなら後は個人個人の努力によって友人にもなれるし、不可侵の他人にもなれる。リボンちゃんや住人が選んだのは前者である。
人が増えて複雑化する共同体。変則的平等性もそうだけれど他者と条件が違う事に不平不満が出ないのは奇跡と言える。これはツインちゃんの弁であるが、多くの世界を見たツインちゃんが答えたのはその世界毎にもちろんルールというものがある。それは絶対、一定水準のラインがあり、その上か下かというルールの決め方なのだという。特に自身の扱いを決めるルールはそれが顕著だという。
例えば権力者が定めたルールならば権力者以外は一定のラインから下の存在として扱われる。世界によって違うが、平民であったり奴隷であったり兵隊であったり、呼称が違うだけで根本的な事は同じである。
これが大本のルールとしてあり、これを踏まえた上で何をしてはいけないだとか、何かを捧げなければならないだとか、付加されていく。
だけれども先生が作ったこの世界は違った。全ての人が個人事にある程度優劣を持っているし、そこに格差がある。
さらに一つのルールがある人には有利で、ある人には不利であったとしても不満は言っても必ず守るのだ。なぜなら、そもそもルールは全ての人の幸せに抵触しないのを絶対条件に作られるからだ。それがどういう事かというと個人が幸福である事が最優先である故に自分の幸せが崩れないのならある程度の縛りがあるルールでも守っておく方が良いということだからだ。逆に言えば全ての人が幸せである事が絶対であるからこそ、他のルールにも従えるのだ。言うなればこの世界は幸せであるのがルールのライン基準になっているのだ。だからこそ変則的平等性で人々を縛れる。
付け加えるならこの世界には裁判官はいない。全員が裁判官であり、ルールを破った者へ制裁を加える。面倒でもあるが、これに関しては誰も文句は言わない。
ただこの世界には固定された裁判官はいらないが、唯一、隠れた役職があるのをリボンちゃんとツインちゃんは知っている。それは先生が担っている調律者という役職だ。する事は一つだけ。変則的平等性のバランスを保つこと。リボンちゃんの特別扱いの時もそうだったが、特別になった分、必ずどこかの部分に負担を付ける。それによって他の人を納得させる。リボンちゃんの際はていのいい保険にしたけれど。
そういった目に見えないバランスを取るのが調律者なのだ。人が増えて複雑化する中で幸せである事を一番に持ってきた際に生じる問題を解決させていくにつれて組み上がったシステムと言える。狙って作ったというよりはできるべくしてできたもの、という認識だった。何しろ先生も幸せの世界を創るとは言っていたが実際に創るのは初めてであるしそもそもそんな世界の前例がない。だからなるようにしかならなかったのだ。結果は幸か不幸か先生にとって、そしてリボンちゃんにとって良い方向へと向かった。
ただ一つだけ残っている問題はリボンちゃんの幸せである。全ての人の認識はリボンちゃんが犠牲となって成り立っている、だ。無論ツインちゃんも先生もそこまでは思っていないが、やはり、リボンちゃんの幸せの――――曖昧とはいえ――――条件を定義と言ってもいいそれを知っているがゆえにリボンちゃんは真に幸せではない事を知っている。だから、リボンちゃんは先生の夢屋の特別顧客人として本来一人しか請け負わない夢屋の扱いを受けている。しかも時には先生のお手伝いとしても働くよく分からない立ち位置である。さらにはツインちゃんの大図書館も手伝い、様々な雑用もこなすある意味何でも屋としての一面もあったりするから、幸せの問題点なのに解決策が見つからない問題便利人としてもっぱらの評判でもある。
こればかりは先生にもお手上げである。リボンちゃんの曖昧な幸せの定義。本人にしか分からないと来ればできる事はその曖昧さを満たす事だけだからだ。現に先生はリボンちゃん本人から幸せですと聞いたことがない。ツインちゃんを始めとしてリボンちゃん以外の人には必ず言われた言葉だ。その言葉を聞くまでは先生はリボンちゃんを手伝い続けると決めているとのこと。
リボンちゃんにしてみれば先生の努力はしてもしなくてもいい事なのだけれど、先生はリボンちゃんの、他人の幸せを願うという人とはズレた感覚を持っている。
これが自分の大事な人とか家族であるとか限られた人ならばまだ理解はできる。しかし先生は全くの他人を幸せにしたいと考えている。そこがズレている部分だ。これはリボンちゃんが先生と多くの他人を見てきたリボンちゃん自身の経験から言えた事だった。前に一度それをツインちゃんに相談してみた事があった。なぜ、先生は他人の幸せに拘るのだろうと。
以前に先生の過去を聞いた事がある。大事な人を救えなかったという過去。しかしリボンちゃんが思うに自分は消えてしまうが大事な人の安全と地位は確立された。死ぬことはない所にまで連れて行った。それで何が悪かったのか。贖罪というのなら十分に果たしている。なのにこの世界で未だ多くの他人に幸せを掴んでもらおうと身を粉にして動いている。その疑問をツインちゃんにぶつけてみると、彼女らしい言葉が返ってきた。過去はどうだったかそれ自体はツインちゃんには分からない。だけれど、過去の目標と現在の目標が必ずしも同じとは限らない。先生は前の世界では前の世界での目標があったのかもしれない。けれど多くの世界を回ってこの白い世界に辿り着いて、その過程で新たな目標を見出した。そして、ここでなら新たな目標に向かえることができると思った。それこそが幸せの世界を創る事。それが今の他人の幸せを掴む手伝いに繋がるのではないか、との事。
なぜそう思うのかとさらに問うと、ツインちゃんはツインちゃん自身が多くの世界を回ったことを挙げた。ツインちゃんの場合はその過程でも居場所を求めることは変わらなかったのだけど、多く考え方や世界毎のルールを知った。すると目標は変わらなくても生き方を変えようと思えたらしいのだ。呪いの様に居場所を求める事しか考えなかったのが、世界を回る事を楽しんでもいいのではないかと、世界を回る事そのものが自分の居場所だと。ただその行き先が分からないだけなんだと。そして、それのどこが悪いことなのだろうと思えてきた。そのお陰かは分からないが長い旅の目的地はこの白い世界の大図書館の司書、という場所だった。今思えばそうだったとツインちゃんは告げた。
ツインちゃんの弁になぞらえるなら先生はまだ目的地に到達はしていないがその過程を過ごしているのか。そしてその過程にリボンちゃんの幸せも含まれている。
リボンちゃんは先生にも訊いてみた事がある。どこまで行けば先生は幸せの世界と言えるようになれるのかを。すると先生は苦笑いをしてから答えてくれた。先生が言えるようになるのはおそらくないんじゃないかな、と。強いて言うのならそれは、分からないうちに叶っているから、先生が死ぬその瞬間になってみなければ分からない。取り敢えず生きてみて死ぬ時にそれまでの生を清算してみて良かったかどうかが分かるんじゃないか、と。途方もない返答をくれて逆にリボンちゃんの方が戸惑った事がある。
幸せの形にもたくさんあるのだなぁ、と思った。大多数の人は目に見える形の幸せであったので先生のような幸せは少しばかり分かりにくい。リボンちゃんに言えることではないけれど。
先生に幸せを掴む手伝いをしてもらう人は今はいない。夢屋を利用する人はここ最近いないからだ。というのも訪問者の数は変わらないが幸せとは自らが掴むものと考える人が多く、この世界に住む人の基準が幸せを掴んだ人だから元から幸せな人が来ても受け入れられないという弊害が浮き彫りになったからだった。とはいえ夢屋を頼りたい人がいない訳じゃない。ならばなぜ夢屋を使えないのかというと先生の体調不良が主な原因だった。完全な過労で倒れてしまったのだ。ツインちゃんから注意を受けていたのにもかかわらずだ。倒れた際には心配よりも呆れられていた。己の管理もできなくて人の幸せを願うなんて何様よ、と。しかし、口では悪態を吐きつつも看病をしてくれている。というのも先生は家ではなく大図書館で養生しているからだ。家で一人でいるのは有事が起きた際に手を打てなくなるので、面倒を見る人が必要だろうとツインちゃんが提案し、提案したからには責任もって預かるといった具合だ。もちろんリボンちゃんもほぼ毎日大図書館に通って先生の様子を確認しに来ている。
「ごめんなさいね。私が提案したばっかりにこんなことになって。司書の仕事もあるのに考えなしだったわ」
ツインちゃんが申し訳なさそうに告げる。別に気にしなくていいよ、と答えてから誰も先生の事を看病する人がいなければするつもりであったし、仮に誰かが申し出ても手伝うつもりもあったからと言うと、そう言われると救われるわ、とツインちゃんは安堵していた。
先生の様子を見てくると告げて養生している部屋へと向かう。
中では先生がベッドで本を読んでいた。安静にしてないとダメでしょう、言うと、
「おっと。怒られてしまったな。しかし、ただ横になっていても面白くない。本くらい許してくれてもいいじゃないか」
拗ねるように先生が言うので笑ってしまった。こういう先生は滅多に見られないから。
「酷いなぁ。笑うなんて。本当に暇なんだ。過労で倒れるなんて思ってもみなかったからね。自分の体ながら体調管理もできないとは情けない限りだ。こんなにも人々を幸せにするやる気に満ちているのになぁ」
大仰に肩を竦めているが、これは本音だろうとリボンちゃんは思った。
先生と話しているともしかしたらこの人は誰かの為に尽くす事こそが幸せと感じるのではないかと思える。
何か形のある幸せではなく自分が何かをしていることが幸せである。そんな気がする。もちろんするだけだが。
「君も随分と変わり者だね。まずは君自身の幸せを明確にしてくれた方が助かるんだけどねぇ」
揚げ足を取るようにさらっとリボンちゃんの痛いところを突いてくる。悪意がないの分かっているけど面と言われると少し申し訳なくなる。
「意地悪で言ったわけじゃないんだ気にしないでくれ。と、それより。いいのかなリボンちゃんは。この白い世界、結構な人数になったけれど君の条件は変わってない?」
それは、今すぐには答えは出ない。けれども増えた事に関して多いと言ったところで人数を減らせるわけでもない。そして人が増えれば家も増えて家が増えれば自然を壊すことになる。とはいえリボンちゃんの指定範囲の自然は手を付けていない。が、それ以外の土地はどんどん開発されていっている。かつての原風景はもはや残っていない。人が増えるとリボンちゃんはその人と友達になれるメリットがある。それと引き換えに土地の開発というデメリット。果たしてどちらがリボンちゃんにとっての幸せに繋がるのか、それ自体はリボンちゃんしか分からない。だからこそ先生は取り返しがつかないようにその都度訊くのだけれど、リボンちゃんは分からないのだ。友達が増える事は嬉しいことだ。でも土地が変わるのは悲しいことだ。相反する感情に自分がどうしたいかを決められず、消極的に人が増えることを承諾している。正しい選択なのかは知る由もなく。
人が増えた事によって一つだけ確実にリボンちゃんの益となったことがある。それは、多くの考え方と知らなかった感情が多く生まれた事だ。誰かと話す時、よく笑顔を見せるようになったし自分の意見も言うようにもなった。それはすごく良くなった事だと言えるだろう。ただ幸せの話をするとき以外は。
「自分の幸せにまだ迷っているようだね。うーん。リボンちゃんをずっと見てきた感想としてはね、もっと自分だけを見てもいいんじゃないかなと思う。言い方は悪いけど白い世界の心配はそこまでする事もないと思うよ。もちろん環境が激変するような開発は文句を言うべきだろうけど人が増えてそれに伴って住宅が増える。ただそれだけで自然が壊滅する事はないしね。食料だって自給自足させているわけだし、リボンちゃんが思っているより世界の自然は変わらないと思うけど」
そうかもしれない。でも目に見えている部分は違う。見覚えのある風景がなくなるのは悲しいことだ。
「そうだね。知っている風景が変わるのは悲しいね。その気持ちはわかるよすごくね」
先生は申し訳なさそうに一言謝った。それは未だにリボンちゃんを幸せにできていない事について。
「今は夢屋もできないし、いい機会かもしれない。しばらく休んで世界をゆっくり見てみようか?」
首を縦に振ってその提案を受け入れる。
突然、ツインちゃんが入ってくる。どこか急いでいる様子もあるように見えるが、
「ちょっといいかしら? 先生。夢屋を使いたいって人がいるんだけど、ってタイミング悪かったかしら?」
ツインちゃんが場の空気を察して済まなそうにする。
「あー、なんか都合が悪いなら引き取ってもらう?」
「ごめん、リボンちゃん。その人の話だけでも聞いてもいいかな。断るにしてもそこまで来てるんだろうし、そうでしょうツインちゃん?」
「え、ええ。じゃあ通しても?」
「うんいいよ」
ツインちゃんが退室してから先生は再びリボンちゃんにごめん、と頭を下げた。先生の立場からすれば手伝いをしたいのだろうけどリボンちゃんに気を配ってくれているのも分かる。だから話だけならと了承する。
再びツインちゃんが入ってくると、その後ろに小柄な少年にも少女にも見える中性的な子がついてきていた。
【ものすごく久しぶりな登場人物なんだけれど、この子はなんて呼べば…………そうね。この子は妖精の様な碧色の髪の毛だったからエルフと呼ぼうかな】
先生とリボンちゃんの前に立ったエルフは緊張した面持ちで口を開いた。
「夢屋という夢を叶えてくれる人がいると聞いてきました。あなた方がそうなのですか?」
夢を叶えてくれる。間違ってはいないが正確には幸せになる手伝いをする事、と説明を入れてから先生は答えた。
「そうだけど、君は幸せになりたいのかな?」
「そう言われると分からないです。ただどうしてもしてみたいことがあってそれを叶えてもらおうと思って来たんです」
「うん。話を聞かないとどうしようもないからね。話してみて」
エルフはリボンちゃんを見る。どうも先生を夢屋だと思っているから聞かせたくない、というよりは夢屋以外には言いたくないといった感じだった。
「大丈夫。彼女も夢屋だよ。手伝いだけどね」
先生が察して説明をするとエルフは納得したのか、先生に向き直った。
「その、他の人から感覚だとおかしいと思われるかもしれません」
「いいよ。言ってみて?」
「…………あの、恋というものをしてみたいんです」
「…………君、名前とどこから来たか教えてくれる?」
「名前はエルフといいます。前にいた世界は統制世界と言われていました。全てが決められた世界で寝るのも起きるのも朝食も昼食も夕食も決められていて引いては婚約相手も決まっていて結婚する時期も決まっていて作らなければならない子供の数も指定されてて死ぬ瞬間も既に決まっている世界でした」
いろんな世界の人とこれまで会って来たしツインちゃんや他の人の話も聞いて他世界の事もそれなりに分かってきたリボンちゃんであったけれど何もかも統制されている世界というのを聞いたのは初めてだった。
先生は落ち着いた様子で聞き入って、納得したのか一度深く頷いた。
「なるほど。エルフのいた世界を考えるに何一つ生きる上では不自由ではないけれど、意志の尊重という概念が限りなくゼロの世界でもある。それはつまり、精神の束縛というわけだ。なるほどね、それでエルフはどこで聞いたかは知らないけどこの夢屋の存在を知って訪ねてきたというわけか」
「そう、なります。きっかけは単純で統制世界でも訪問者は来るんです。もちろん指定された時間帯にですけど。細かい事を言えば会う時間も決められていて会える日、会える人数がグル―プ毎に回ってくる。たまたま自分たちのグル―プの順番でこの夢屋の事を話してくれた人がいたんです。その話を聞いてからずっと考えていて。願いを叶えてくれる、夢屋の事。それで思い切って統制世界を出てきたんです。はっきり言うと統制世界を出ることは大罪です。一度出た人は二度と帰る事はできないでしょう。帰れば死をも上回る罰を与えられるそうです。だから統制世界を出ることは確実に人生を全うできる権利を捨てるのと同義になるんです。でもそれを引き換えにしても恋をしてみたかったんです」
エルフの覚悟がひしひしと伝わる。統制された世界での生活がどのようなものでどういう気持ちで生きているのか、あるいは生かされているのかリボンちゃんには分からない。
人生を全うできる権利を手放すのにどれだけの勇気がいるのか、そしてそれと引き換えにしても恋がしたいという気持ちの強さがどれだけいるのか。リボンちゃんの価値観とは違ったとしてもエルフにとってはそれだけの価値があったんだろう事は想像に難くない。
それにしても恋がしてみたいとは、いろんな意味ですごいことを言う。リボンちゃんも自信をもって恋をしたことがあるとは言えないが恋がなんなのかは理解できるし、恋のメカニズムもある程度分かっているつもりだ。大前提として二人いないと恋は出来ない。それと相手に自分が惚れているか、相手が自分に惚れているかでも話は違ってくる。次いで自分の姿勢もあるだろう。積極的にアプローチをする方なのか、受け身の側なのか。
そして恋をする以上、結果は二つある。恋愛に至るか、悲恋で終わるか。その両方とも恋の結果であるが片や喜ぶべき結果で、片や悲しみに暮れる結果だ。学ぶ事は両方多いだろうが、誰もが思うのはもちろん恋愛に至る方がいいという事だ。誰だって悲しい思いはしたくない、はずだ。
しかし、メカニズムが分かったとしてもどう転ぶかはおそらく神様だって分からないだろう。そもそも、相手を好きで恋する人もいれば相手を自分のステータスとして求める人もいる。惚れた腫れたで恋をするとは限らない訳だ。果たしてエルフはどちらなのか、と考えれば多分、相手を好きでする恋の方だろう。となればエルフが惚れた、あるいは惚れられている人を作らなければならないけれど先生はどうするのだろうか。
「恋をしたいのは分かったよ。けれど、先に言っておくと恋をするのは難しいよ? 今君が好きな人が、焦がれる人がいるなら話は早く進むけど、話を聞いた限りでは統制世界にいたという事は本能に任せての恋をするのは難しい。なんでかって言うと本能を辿ると男なら己の子を孕んでくれる女を探す事であるし、女なら子孫を作る事もそうだけれど強い遺伝を持った男を探す事だからね。さらに言うなら一つの種族を存続させる為に生き物が取る行為と言える。つがいを探すとも言えるね。それは人でも例外じゃない。でも統制世界ということはきっとエルフと最も相性のいい相手が用意されていた筈だしそれ以上の相手を本能に任せて見つけるって言うのは難しい。そもそもこの白い世界に統制世界で用意されていた相手以上の相性を持つ人がいるのかどうかもわからない。と、来れば残された手は綺麗な恋だけだ。君がそれでいいのならまずはそこから恋に慣れてもらう。それで君が本気になるのならそれもよし、愛想が尽きて悲恋に終わるのなら、なんで駄目になったかを考えて新たな恋を頑張ってもらう事になる。まぁ、何をどうしようともものすごく時間が掛かる事になると思うけど、それでいいのかな?」
「はい。構いません。そもそも恋と言葉は知っていてもどういう感情なのかとか分からないですし、その辺りの事はお任せします」
その言葉を聞いて先生は大きく頷いた。
「話は分かりました。けど、見てもらって分かるように今はこの通り動けなくてね。夢屋として動けないんだよ。だからそうだね。このリボンちゃんとしばらく一緒にいるといい。あとはそうだね。ここにいる司書さんにも話を通しておくからしばらく厄介になるといい。彼女たちはこの世界の最古参の人だからね。いろいろと教えてくれると思うし」
そういって先生はリボンちゃんを見る。頼むよ、と目で訴えて来ている。
リボンちゃんは溜息を吐いて心の中で悪態を付いた。勝手に決めないでほしいと。まぁ、することはないんだけれど。それを見越してか、
「取り敢えず、リボンちゃんはすることがないはずだから、力になってくれるよね」
笑顔で言う。改めて強かな人だなと思いつつもエルフの事を任されたリボンちゃんだった。
となれば、エルフの住む家とかはどうなるのかと訊くと、先生は基本的に夢屋を使ってもらおう、と言った。それから時と場合によってはリボンちゃんの家であったり、大図書館の空き部屋などでも利用できるように対処してくれと、やや無茶な提案もする。リボンちゃんにもツインちゃんにも拒否権はあるが、拒否してもしなくてもすることは同じなので特に気にはしなかった。だが、
「ごめんなさい。迷惑を掛けてしまうようで。お世話になります。なりますけど、ご自宅に泊まるとか、嫌だと思ったならすぐに言ってほしいです。住むところは夢屋さんを使わせてもらいますから」
エルフの方から頭を下げた。なるべくリボンちゃんに掛かる負担を減らそうと思っているのだろう。
リボンちゃんは気にしなくていいと告げて、先生に顔を向ける。 そして、エルフに夢屋への案内とツインちゃんにこれからの事を伝えにいくと言うと、
「うん。話だけのつもりだったんだけど結局、夢屋に迎えることになっちゃってごめんね。ただエルフを幸せにできたらしっかりと様子を見よう。リボンちゃんの幸せも考えないといけないからね。それじゃあ、エルフの事を頼むね」
そう答える。結局こうなってしまったと内心で再び悪態を吐く。しかしいつまでも文句を垂れていても何も進展はしないので、一度深呼吸をして頑張るぞと気合を入れた。
先生との話を掻い摘んでツインちゃんへの報告を済ませると、何故か同情されたけれど、大図書館の空き部屋を利用するなど概ね先生の提案は了承してくれた。
「しっかし、恋をしてみたいねぇ。すごい願いもあったものだわ。私にしてみれば私は居場所が欲しいだったから、居場所があれば恋でもなんでもできるって考えだからねぇ。そもそも恋はしたいからできるもんでもないでしょうに。ま、頑張んなさい。私も微力ながら手伝うしアンタの思う恋をしなさいな」
冷たい言い方をするようでも手伝ってくれる事には変わりないツインちゃんの態度に微笑ましく思うリボンちゃんだった。
「すみません。これからいろいろ迷惑を掛けると思います」
ここでもエルフは頭を下げる。が、
「エルフ。それはやめておきなさい」
ツインちゃんは少しばかり真剣な表情で告げた。しかしエルフは何か悪いことをしたのだろうかと、戸惑って再び謝りそうになる。
「それよ、それ。これからアンタはアンタの幸せを掴もうってここに来てるのに他人にいちいち断ってたら切りがないわ。断る必要はないのよ。ただ夢屋を使わせてもらっています、で事足りるのよ。私達はみんな先生の夢屋に幸せをもらった人だからアンタがそういえばみんな理解するのよ。まあ、余りにも迷惑が掛かったり誰かに対して不幸を起こしてしまったらその時はものすごく怒られるだろうから、ちゃんと謝らないといけないけどね」
ツインちゃんの話を聞いて怒られたわけではなく、ここで暮らす上でのアドバイスだったのだな、とエルフは安堵したようで。リボンちゃんも突然ツインちゃんが怒ったのではないかと内心、気持ちが張りつめていたけれど胸を撫で下ろす事が出来た。
「それじゃあ改めて。私の事はツインちゃんって呼びなさいね。それから私はこの大図書館に住んでるし、司書でもあるわ。借りたい本があったりここで困ったことがあったら私に申し出てくれたら対処するわ。後はそうね。私がいない時に用があったらリボンちゃんに言えば大抵何とかなるわ」
最後の辺りさらっと、とんでもないことを口走ったように思えたけれど、実際になんとかしてしまうだろう自分の姿がリボンちゃんは浮かんでしまって言い返すことができなかった。
エルフの方は一応この世界に先に住む先輩の洗礼に頭を下げていた。これは謝罪ではなく感謝を伝える為だったのでツインちゃんも文句は言わなかった。
「じゃあ、えっとこれからよろしくお願いしますツインちゃん」
「ええ。よろしくねエルフ」
「それから、リボンちゃんもよろしくお願いします」
リボンちゃんにも改めて挨拶をして、ややリボンちゃんはくすぐったさもあったけれど、笑顔で返した。
「それで? これからアンタ達はどうするの。夢屋に行くの?」
頷いてそのつもりだとツインちゃんに伝えると、
「まぁ、まずは住むところを確認しないとねぇ」
急に他人事のように言うあたり大図書館の事でない限りリボンちゃんに丸投げなんだろう。とはいえ彼女は司書という役目もあるので仕方ないのではあるが。けれどもリボンちゃんは悪い気は全くない。それどころかツインちゃんの方がこれから大変になるだろう事も分かっていた。というのも夢屋の利用した大多数の人は利用中、つまりはまだ自分の家がなく夢屋で寝泊まりをしていた時は必ずと言っていいほどこの大図書館に来ては先生、リボンちゃん、ツインちゃんと時間さえあれば駄弁に華を咲かせていたからだ。それも幸せを掴んだ今でも何でもない他愛ない話をする為に大図書館に通う者もいるくらいだ。ここは喫茶ではないのだけど、と思うリボンちゃんだけれど、思えば自分達こそが最も大図書館で駄弁って茶を飲んでいるから誰にも言えないのだった。その所為で会議室として使っていた部屋は会議室三割食堂七割の役目をもった部屋になってしまった。今や置かれた棚にはリボンちゃんやツインちゃんの好みの茶葉が置いてあったり菓子が置いてあったりいったい何の目的の部屋分からない状態だ。だが、誰も文句は言わないし、気付けば人は増えているしで誰もが活用している部屋となりつつある。もちろん司書であり大図書館の管理人であるツインちゃんがいなければならないが。
そのことをツインちゃんに告げると、
「私はあくまで司書なんだけれどねえ。ま、嫌いじゃないけど。そうだ、エルフの下見が終わったらここで話さない? 今日は利用者も多くないしみんな新しい夢屋を利用する人がいるから遠慮して来ないしねぇ」
リボンちゃんとしては構わない。が、エルフを見ると、
「ツインちゃんの申し出はありがたいんですけど、遠慮しておきます。今はこの世界の知るべき事がたくさんあるので早く覚えたいから、ごめんなさい」
残念そうに丁寧に断った。
「そう。残念ねぇ。ま、嫌でもここには来ると思うしいつでも来なさいな。それで、リボンちゃんはどう?」
もちろん構わないので了承する。
「そう。じゃあまたあとでね」
本人はなんともない風に装ってはいるが嬉しいの気持ちがにやけた頬から丸わかりであった。
いつまでもツインちゃんに付き合っているとエルフの下見が終わらないので、強制的に大図書館から出て夢屋に向かった。
夢屋は湧水場の方面で大図書館からはやや離れている。ツインちゃんに大分時間を削られてしまったので日が落ちるまでに夢屋に案内した後、大図書館に戻ってさらに家まで戻れるか自信がない。特に家で何かをするという訳じゃないけれど日が落ちた時には家にいたいという気持ちはなぜだかある。きっと今でも抜け落ちない習慣なんだろう、先生が来る前の。それもあって気持ちが早っていた。
そんなリボンちゃんに気付いたエルフは、
「リボンちゃん、この後ツインちゃんに会いにいくのは分かってますけど、彼女は別に急かしていたわけでもないんですからもうちょっとゆっくりでもいいんじゃないですか?」
気を利かせて言ってくれたのだが、生憎とリボンちゃんが思っていたこととは的外れであった。しかし、その配慮が気が早っていたリボンちゃんには冷却剤となって何を焦っていたのだろうと冷静になれた。
緊張してたのかもしれない、とエルフに告げると、先程思っていた事を、暇つぶしと称して語った。
「リボンちゃんって昔は一人だったんですね」
そう言われるとなぜかさびしい人と思われてしまうのが言葉の残酷さだ。けれどツインちゃんはそれを完全だと称した。それをエルフに言うと、
「確かにそう考える事もできると思います。統制世界もある意味完全な世界でしたがリボンちゃんの世界も非の打ちどころがない完全な世界です。ただ、外から見ればやっぱりさびしいと思いますよ。常識がそもそも違うので比べるのは失礼だとは思いますけど」
じゃあ、とリボンちゃんは訊く。統制世界はリボンちゃんから見れば自由のない世界に見えたとしてもそれは可哀想ではないのか。
「む。それはそうでしょうね。リボンちゃんの常識からすれば自分のすべき事が他人の立てたカリキュラムに則って死ぬまで続くのですから。自分の意志などあってないようなものです。けれど理不尽な暴力で死ぬことは絶対にありません。それは例え病気や怪我であっても同じです。万が一罹った場合も特別カリキュラムに移行してその日のうちに治すんですよ。この世界の常識だと物騒だと思われる治療をするんですが、確実にその日のうちに治すんです。なんだと思います?」
物騒と語るエルフに少しばかり怖さを覚えるリボンちゃんだけれども一日の内にどんな病気でも怪我でも治す治療法。しかもこの世界だと物騒と思うという。
そもそもリボンちゃんは重体になるほどの病気を患ったことがないから治療という治療をしたことがなかった。せいぜい疲労で体が鈍くなったり、気分が優れなくてやる気が削れる程度の風邪とも言えないものだ。おそらくはこの世界にはおよそ病原菌という物が存在しないからだと思うが。
エルフの問いに答えられずに首を傾げて考えていたが、とうとう思いつかずに降参をすると、
「ちょっと引いちゃうかもしれないですけど、答えは単純です。病気に罹ったら交換するんです。統制世界は生まれた時から自分のクローンを何体も作るんですよ。それも魂の入ってない、意志のない肉体です。要はスペアですね。自分の体のスペア。こんな事を言うと嘘だと思われちゃうかもしれないですけど、統制世界には意識の転送技術があって風邪や怪我をしたらその体を捨ててスペアの体に移すんです。するとすぐに病気や怪我を治すことができる。もちろん元の体は病原菌が入っていたり、怪我で欠損していますからすぐに破棄されるんですけどね。前の自分の体がスクラップになっちゃうのはちょっと気分が悪いですけど」
話を聞いていくうちにエルフに対して言いようのない畏怖の念が浮かんできた。常識、価値観が違う事は理解していたけれど免疫のない話は毒だと思った。だって理解が追い付かないのだから。
「別に怖がらせようとは思ってないですよ。そういう世界もあってたまたま統制世界っていう世界がそういう世界だったわけの話ですから」
リボンちゃんの態度を見てか取り繕うようにエルフは言葉を付け足した。
「それにほら触ってもこの体は普通の人と変わらない体です。まあこの体は生まれたままのオリジナルの体ではありませんが」
おずおずと手に触れてみると、ふにゃっとした柔らかい人の肌触りでリボンちゃんより微かにあったかい体温だった。そのまま触れているとエルフが僅かに力を込めて握ると、リボンちゃんの手に圧力がかかる。でも人に握られているんだな、と理解できてしまうものだった。
「リボンちゃんと変わらない人の体でしょう?」
そうだねと返答するもクローンの体にオリジナルの意識が入っているエルフ。やっぱり経験のない事はリボンちゃんにとっては理解のし難い情報だった。
「やっぱりちょっと怖いかもしれないですが、今は手が繋げただけで結構です。徐々に分って頂ければ」
少し悲しそうにエルフが告げると、
「じゃあ、今度は明るい話題にしましょうか」
と露骨ではあったものの気を利かせてくれた。それはエルフがこの世界へ来たことだった。理由は先に聞いている。恋がしてみたいという事。
「はい。恋をする為にここへ来ました。何度も言うようですけど統制世界は本当に完全な世界でした。さっきの話もそうですけど、何があっても死ぬまで生かしてくれる世界なんです。でも誰かに焦がれたり愛しいと思う感情を持つには至らない世界でもあるんです。だって結婚相手が生まれた時から決まっていて遺伝レベルで相性がいい相手ですから拒否する理由もないんですよ。容姿に関しても他人から見れば美人だとか男前ではない人だったとしても自分の主観では確実に好みに入る部類の人が相手なんです。そんな人が無条件で結婚相手になるんですから、ある意味文句は言えないんですよ。しかも互いが相性がいい相手ですから不思議なもので両方とも拒否をしないんです。そもそもする必要がないですし。だから恋をする前に恋が終わっているんです。恋は最終的に結婚というゴールに辿り着くのに統制世界の人は最初からゴールにいるんです。だから恋ができない」
悲しいのか、苛立ちなのか、統制世界に対する不満なのかエルフは熱く語る。けれど、リボンちゃんには疑問に思う事がある。エルフが言ったように恋は結婚へ辿り着く為の手段だ。それが最初から辿り着いているのならわざわざ前の過程である恋をする必要はないのではないかという事だ。それを捨てるほど、恋を求める理由とはなんなのか。
「一言で言えば相手に焦がれてみたいというのが理由です。統制世界ではなんて言えばいいのか分からないですけど、熱くなれないんですよ。何をしても結果が用意されているわけですから。それと同じで結婚も子供を作る事もただの作業でしかないんです。しかもそれも男の子を生むのか女の子を生むのかも決められている。何をしても答えが先にあってそれを追いかけるだけの世界。心の底から震えた事もなければ、体が燃えるような感情を抱いたこともないんです。それってどういう事かわかりますか? 完全で完璧で完結している終わった世界なんです。リボンちゃんだけの昔の世界は完全な世界ってツインちゃんは言ったそうですけどまさにそうだと思います。ただしそのベクトルは正反対でしたけど。統制世界は終わった世界。白い世界は始まってすらいない世界。何も知らないからこそリボンちゃんは何に対しても前向きに考えられたと思います。その思考ができるってすごいことです。それに憧れて焦がれて、そして本来人が最も熱くなる恋をちゃんとしたかったんですよ」
その為にこの世界へ来たのかと、改めてリボンちゃんは思い知らされた。知らないって事がどれだけ救われているのかを。知っている上で、結果が出た上でやらなくてはならない。まさに作業でしかない。わくわくやどきどきといった感情もきっとエルフには無かったに違いない。となれば夢屋の存在を知った時どうだったのか。
「生まれて初めてでしたよ。心が爆発したとでも言えばいいのか、体が内側から崩れる衝撃と言えばいいのか、とにかく火が付いたんですよ。手の届かない幸せでも掴ませてくれる人がいる。どんな小さな幸せも叶えてくれる人がいる。その日から心が狂ったような感覚が続いて、それで決意したんです。統制世界を出ようって。何があってもいい。理不尽で死んだって構わない。この世界にいれば飼い殺しにされてしまうと。まあ、その時のおかげで今こうしていられるわけですから、良かったって思ってますし後悔なんて微塵もありません」
それはエルフの眼を見れば言葉で聞くよりもはっきりしていた。生き生きとしている眼だ。まさに幸せに向かっていく者の眼だ。
リボンちゃんはすごいと、素直に思った。これならば恋の行方が恋愛でも悲恋でもきっとエルフの糧になり、恋愛に至れば相手に尽くすだろうし、悲恋で終わっても新たな恋を始める強さを持っている。これから先生がどういう風に恋を手伝うかは分からないが、応援してあげたくなった。だから、頑張れエルフ、と言葉の文脈は可笑しかったものの背中を押した。
エルフとの会話が弾んでいる内に夢屋へと辿り着いていた。外装が気になるのか夢屋をまじまじと見ながら感心していた。
統制世界の建築様式とは違うのだろう。とはいえ、夢屋の様式はこの世界の物ではなく先生独自の物か、先生が巡り巡って気に入った世界の物だろう。
感心するエルフを促して中へと入る。リボンちゃんは部屋の説明をエルフにしてゆく。
「ここが寝室ですか。今日からここで暮らしていくんですね」
初めて寝る時はなかなか寝付けないかもしれないね、とリボンちゃんは告げる。
「こればっかりは慣れですね。この世界に来る前にいくつか世界を回りましたけど、どこも慣れると居心地は良くなります」
ふとこの世界へ来る前、とエルフが言った言葉が気になった。直でこの世界へ来たわけではなかったのか。
「あぁ、それはいろいろありまして。そもそも統制世界からこの世界へ直で来れないですからね。あの世界は行き来できる世界を決めているのでいくつか世界を経由しないとダメだったんです」
つくづく統制世界は何もかもが決まっているんだなぁ、と感心するしかなかった。
部屋の説明と自由に使っていい諸々の物を伝えると、この後はどうする? とエルフに訊くと、
「この辺りを少しだけ散策したらすぐに休もうと思います」
じゃあ、今日はここでお別れだね、とリボンちゃんは告げて夢屋を後にした。
さて、今一度大図書館へ戻らねばならないが、日が落ち始めていてどこか気分が物悲しくなる。別に何も悲しい事はないのだけど、とかぶりを振って大図書館へと足を向けた。
「あら、意外と遅かったわねぇ。もっと早いものだと思ってたわ」
着いた早々ツインちゃんは一人優雅に紅茶を啜っていた。対して一人エルフの付き添いをして夢屋の説明をしてツインちゃんの要求通りわざわざとんぼ返りしてきたリボンちゃん。
これはいくら何でも待遇がおかしいのではないかと、せめて労いにリボンちゃんの紅茶も淹れてくれていてもいいのでは、と抗議を送ると悪びれる様子もなくツインちゃんは、
「ごめんなさいねぇ。気が利かなくて。今淹れてあげるから機嫌直しなさいよ」
と、軽い口を叩きながらリボンちゃんへ労いの紅茶を淹れてくれた。
「それで? エルフの方はどうだった? これから幸せを掴む事に変な緊張とかしてなかった?」
ようやく席に着いたところでツインちゃんは訊いてきた。態度では適当にあしらっていても内心は心配しているようで報われない世話焼きだなぁとリボンちゃんはからから笑った。
「何よ」
む。と眉を寄せるツインちゃんに今思ったことを素直に言うとツインちゃんは溜息を吐いた。
「アンタそんな事思ってたの? 私ってそんなに世話焼いてる?」
それは紛う事無き世話焼きと全力で肯定する。この世界の住人がいまだに大図書館へ用もなく通うのはツインちゃんと他愛もない話をする為と言うと、
「…………だから住人は本も借りないのにわざわざ私の元へ来るのね」
けれど、世話を焼くのはツインちゃんのいいところだとリボンちゃんは言う。ツインちゃんと話すことで救われる人が何人いた事だろう。
「大げさに言い過ぎよ。私は好き勝手してるだけよ。大図書館って会議場も兼ねてるでしょ? だから本が目的じゃない人が少なからず来るのよ。そうしたら無駄に喋ってるのよね。お茶を出すとついつい話し掛けちゃうのよ。何も言わないと気まずいし。ただそれだけの事なんだけど」
それが長く続いているのだから大したものだ。話をするだけなら別にツインちゃんでなくともいい。この世界には先生というある意味万能な人がいるのだし相談に乗ってもらうにしても適任だ。けれどツインちゃんの方に人が集まるのはそれだけ相手にとって居心地がいい時間を与えてあげられるからだ。
「そうかな。自分じゃわからないけど。ってそれはいいのよ。問題はエルフの事」
やや照れながら話題を変えるツインちゃんを内心可愛いと思いつつちゃんと話題に乗ってあげた。
緊張はしているかもしれないけれどそれ以上に幸せを掴むことに燃えてたよ、と告げると燃えてた? どういうこと? と首を傾げていた。
エルフに聞いた事を掻い摘んでツインちゃんに説明すると複雑な表情を浮かべていた。
「なるほどね。統制世界っていう終わった世界か。私は統制世界には行ったことはないけれど話くらいなら聞いた事があったわ。あの世界は人生を全うできる夢みたいな世界だってね。でも実際統制世界に住んでる人からすればエルフみたいに飼い殺しにされちゃうって思う人もいるってことなんだね。私は正直統制世界で暮らしたいとは思わないから、きっと価値観の問題かしらね。それにしても恋をする為に人生を全うできる権利を引き換えにするって釣り合いが取れてるのかしら、ってそれこそ価値観の問題か」
難しい表情を浮かべながら唸るツインちゃん。
「世界にはいろんな人がいるのねぇ。私もそのいろんな人の中に入るのだろうけど」
それにはきっとリボンちゃんも含まれているのだろうな、と思って苦笑いする。
「アンタも自覚があるのね。でもま、みんな違って当然か。もしみんなが同じような感じだったらこんなに多様な幸せの形ってない筈だからね。私は今が幸せだしエルフは恋でしょ? アンタはまだわかってないようだけど、もしかしたらこういう風に私とか先生とかと他愛のない話を駄弁する時間がアンタにとっての幸せなモノなのかもね。適度に自分の暮らす環境が整ってて下らない事を話し合える友達が居て、それだけでいいのかもね。アンタは」
どうだろう。と首を傾げる。こういう時間も嫌いじゃない。しかし求めてるだろう幸せなのかと訊かれれば、そうだ、と自信持って答えられない。
「私は好きだけどねぇ。こういう時間は。自分の居場所があって、司書って言う与えられた仕事があって、でも自由にできる時間があって、アンタみたいな私に付き合ってくれる人がいて、束縛もなくて自由もあってある程度好き勝手できるし、なにより毎日が楽しいと思える。私って生きてるなあって実感できる。下らないことで笑いあえる場所、時間、友達があるだけで私は満足かなぁ」
言い切ったね、と感心するリボンちゃんだった。なら、と一つ訊いてみる。ツインちゃんはエルフの様に恋をしてみようとは思わないのか。
「恋ねぇ。するときはするんじゃない? 私の考えだけど、恋ってしようと思ってするものじゃないと思うの。なんて言えばいいか分からないんだけど、恋って落ちるものじゃない? 気付いたらある人に夢中になってるみたいな。う~ん、上手く言えないわ。本の虫だから綺麗事みたいな言葉使いだったけど自分が意識してできるものじゃないって事かしらね。後はそうね。恋かどうかは分かんないんだけど、こうアンタみたいに長く付き合っている人がいたら、その人でいい気がしてくると思うのよ。結婚を考えるとね。だってずっと一緒にいる人を決めるんだから人よりちょっとだけ気の合う人の方が一生を寄り添える気がするのよ。長く一緒にいたからその人の人となりも分かってるしね。まあ一緒になる事で知らなかった個人的な趣向とかも知る事になるんだろうけど、それがよっぽど他人に迷惑にそれと自分にとって苦痛にならない限りは大丈夫だと思ってるからね。私にとっては恋ってそんな認識よ?」
ツインちゃんの持論を聞いていると真剣に恋をする為にこの世界へやってきたエルフが不憫に思えてくる。
恋はしようと思ってできるものじゃないという事はエルフの恋は絶望的だ。
「エルフはまた違うんじゃないかしら。私がこういう考えなだけだからね。アンタだって恋や結婚については私とは違う考えだと思うけど?」
訊かれると、答えられるほど恋についての考えを持っていないので答えに窮してしまう。そもそも結婚願望すらない。
自分が恋をして、なんて思考がゼロな事に、まさに今気付いたという発見。
「アンタ…………いい性格してるわ本当に。流石完全の世界に居ただけはあるわ。アンタ一人で成立してる世界なんだから、考えればそうよね。誰かと恋をするなんて思考がない筈だわ。そもそも生殖本能が欠如してるのよアンタは。先生も言ってたけれど恋って自分と相性のいい相手を見つける事も兼ねてるからね。生殖本能がなかったら相手を見つける必要性がないもの。いえ、あるいはアンタは一人で子供を作れるからなんて可能性もあるわね」
言いたい放題である。リボンちゃん自身としては痛くも痒くもない言葉ではあるけど、ツインちゃんの常識で考えれば酷い言われなんだろうことは想像に難くない。
「ごめんなさい失言だったわ。けどアンタ本当に何者なのかしら。私と同じ人よね?」
そんな事を言われてもリボンちゃん自身、人かどうかなんて分からない。違うのというのなら違うのだろうし、同じであるなら同じであろう。他人からどう映ろうがリボンちゃんはリボンちゃんでしかないのだから。
「ま、そうよね。アンタが私を人かって訊いたとして私自身、人だと答えてもアンタがどう思うかなんて私の知るところじゃないし、結局私は私でしかないものねぇ」
うんうん、と自己納得するツインちゃんに言いたい放題言われてなんとも微妙になったリボンちゃんの気持ちはどうすればいいのか分からなくなる。
「それが悪かったって思ってるわよ。けど考えて見ればそんなのは些細な事だしね。アンタとはもう長い付き合いだしアンタがどういう人か分かってるのは私だし。今こうやって話し合えてる事が全てよね」
ツインちゃんの結論にリボンちゃんも頷く。そう、この関係が全てを物語ってる。自分たちがどんな存在であれ気の合う友達であり言いたいことを言い合える間柄がツインちゃんとリボンちゃんの全てだ。
エルフの話から恋の談義まで長々と話していると、外はすっかり黒に染まっていた。家に帰る事を思うとやや気持ちが重くなる。
「そろそろ帰ろうかって?」
ツインちゃんが替えの紅茶を淹れながら時間を気にしているリボンちゃんに訊く。正直に言えば会話の切り上げ時を中々言い出せないリボンちゃんからすればありがたい申し出だった。
ツインちゃんの言葉に頷くも、この暗い中を帰るのは気が滅入るなぁ、と愚痴を溢すと、
「難儀な性格ねぇ。…………それなら今日は泊まって行きなさい。部屋なら余ってるしすぐに準備するわよ?」
家に帰るか、泊まるか。どうしようかと思考を巡らしてここはツインちゃんの案に甘えようと思った。
「分かったわ。じゃあ準備するからついてきて」
席を離れて向かったのは空き部屋となっている何もない部屋だった。あるのは最低限の手入れをされた堅そうなベッドとベッドの頭元にある質素な化粧台に頼りない明かりがあるだけ。
流石にここにこのまま寝るのは躊躇われた。
「分かってるわよ。軽く掃除して柔らかい布団を持ってくるわよ。明かりは、まぁ、今日だけだから我慢してもらう事になるけど」
そう言ってツインちゃんはリボンちゃんにここで待っているように告げて掃除道具を持ってきた。
二人して部屋を掃除して部屋の換気もする。その後、再びツインちゃんは出ていって寝具一式を抱えて持ってきた。
「これで大丈夫でしょう? 十分寝られるはずよ」
部屋は掃除したとはいえ、部屋は薄暗い。が、ベッドは十分に寝られる状態になった。
「でもまぁ、予備の布団があって良かったわ。というよりなんであるのか不思議だけどね。わざわざ先生が作ったんだろうけど。それで、どうする? すぐ寝ちゃう?」
どうしようかと迷う。大してすることはないのだけど強いて言えばお腹が減っているので何かを食べたい気分ではある。
「夕食というより夜食だけれどねぇ。まあたまにはいいでしょ。私も付き合うわ」
ツインちゃんには迷惑を掛けてしまうけれど二人して夜食の用意をして食べた。
長いことツインちゃんとは共にいるけれども大図書館に泊まるのはこれが初めてであり、妙に気分が高揚していた。
「そう? 私は別に何とも思わないけれどねぇ。ただ不思議な気持ちはあるわよ。一緒の家で寝るって私の考えじゃあ、家族とかそういう人達だけだからね。アンタとは家族関係じゃないからね。友達を家に泊めるってこんな気持ちなのねぇ」
ツインちゃんはツインちゃんでこの状況を不思議に感じている様だった。
「私は向こうの部屋だから何かあったら遠慮なく入ってきていいわよ。じゃあおやすみなさい」
ツインちゃんと別れてリボンちゃんは一人、先程まで空き部屋だった部屋に入り、ベッドに潜る。目蓋を開けるとそこには知らない天井があった。
いつもなら見慣れた自分の家の天井があるのに今日は違う。それがなぜか特別に思えた。特別な事に少しだけ嬉しさを感じながら眠りに就いたリボンちゃんだった。
翌日、ツインちゃんに起こされて、ああ、自分の家ではなかったと思い返して、ツインちゃんにお礼を述べた後、すぐに家へと帰った。とはいえすぐに大図書館へ行くことになるのだけど、リボンちゃんとて女の子。身の回りに気を配りたい気持ちがある。
身嗜みを整えて少し休憩をすると大図書館へ向かった。
ツインちゃんに挨拶をして先生の様子を見に行く。
やはり安静にするつもりはないのか椅子に座って何やら作っている。手に持っているのは裁縫道具と彫刻刀のようなもの。大工道具の中にそんなものまで入っているのかと驚く。
リボンちゃんに気付くと先生はなぜか誇らしそうに声を掛ける。
「やあ。ツインちゃんに聞いたけど昨日ここに泊まったらしいね。どうだった? 大図書館の寝心地は?」
悪くはなかった、と返事をし先生がしている事はなんですかと睨むと先生は悪びれる様子もなく、
「平気だよ。ちょっと倒れただけだからね。君やツインちゃんが心配するほどじゃないよ。それよりこれを見てほしい。よくできてるだろう?」
ずい、と手を出され、その手に持っていたものはなんとも言えない前衛的な置物だった。いろいろな動物の一部分を合体させたようなフォルム。鯨の尾鰭に何かの動物の角を模した物に鳥の翼に何を模したか分からない牙を持つ口。さらに人の両手が生えており、その他にもまだまだいろいろくっ付いてはいたがリボンちゃんにはもう説明できる範囲ではなかった。
そもそもそんな謎な物体をどうするつもりなのか。
「どうもこうも飾るんだよ。幸せの世界を作るのを目指してはいるけれど、それは人の幸せだろう? 例えば世界そのものに意志があったとして世界が丸裸では世界に住んでる身としては申し訳ないだろう。だからこういった、あ~なんというか芸術性の高いものを着飾る事で世界そのものに豊かにできないかと思ってね」
安静にしていないと思えばこんな事を考えていたとは。相変わらず先生の考えることは分からない。そして思う事が一つある。この考えはおかしい。
そんな先生の新たな野望は置いておいて現在夢屋を利用しているエルフはどうするのかを問う。
「ん? それはもう決まってるよ。エルフの恋をしたいって幸せを叶える方法はね。ただ時間がものすごく掛かる方法だし誰かに言うと意味がなくなるからリボンちゃんにも言えないけどね。それでエルフは、今は夢屋かな?」
先生の中ではきちんとエルフの事を考えているようだけれど果たして何をするつもりなのか。リボンちゃんにも言えないというので知ることはできないので気にはなるが。
リボンちゃんは昨日の事を先生に伝えると先生は、
「じゃあ夢屋にいる、か。それじゃあエルフを夢屋に迎えにいって住人のみんなに紹介して欲しい。その後は好きにしていいよ」
好きにしていいなんて適当な事を言っているが、これも先生なりの考えの元の行動だ。
了解した事を先生に告げてエルフの元へ行くことにする。その際に、
「リボンちゃん、世話焼きもいいけど面倒と思ったら適当なこと言って切り上げていいからね」
…………考えがあるはずなのに、この適当さ加減はなんだろう。これで大丈夫なのだろうかと思うリボンちゃんだった。
それから―――――――――。