009 エレノア様にご用心!(後編)
「最高のお料理はどこ……! 最高のお料理は……っ!」
「あともう一周走れば充分でございます。お嬢様」
領主館の広大な庭園。その外周を、肩を上下させながら激走する少女の姿があった。
エレノアだ。街中の料理を片端から試食し、メイン料理の選定を終えた彼女は、デザートの試食に備えて胃袋に「空き」を作るべく、猛烈な勢いで走り込んでいた。
その隣を、セバスが涼しい顔で並走している。相変わらず主人の髪を扇子であおぎ、優雅な風を送り込みながら。
「……何やってんだ、あんたら」
呆れを通り越して虚無の表情を浮かべるジグの前に、エレノアは膝から崩れ落ちた。
「う……うるさいですわね。私はこれでも、真剣ですのよ……っ!」
乱れた呼吸を整えようと必死な彼女の横で、セバスは息一つ乱さず、主人の背中にそっと手を添えている。
「買ってきましたよ、エレノアさん」
アルスが先ほど裏通りで見つけた包みを差し出すと、エレノアは魔法にでもかかったかのようにシャキリと背筋を伸ばした。食への執念か、兄への愛か。
「あら……? 見た目は随分と素朴ですのね」
華美な装飾のないその菓子に、一瞬だけ貴族らしい率直な感想を漏らした彼女だったが、一口含んだ瞬間、その瞳が大きく見開かれた。上品で深みのある甘みが、疲れた体に染み渡っていく。
「まあ……なんて素晴らしい味わいなのかしら。セバス、あなたも試食してごらんなさい」
「……確かに。この、奥ゆかしくも揺るぎない気品。アルフレッド様にこそ相応しい」
「そうですわよね。ねえ、このお店はどこにあるのかしら?」
(自分たちだけで解決できたんじゃねえのか、これ……)という疑念を飲み込み、ジグは裏通りの場所を教えた。
「そのような所にお店があったのですわね。セバス、後でご挨拶に伺いましょう」
「かしこまりました、お嬢様」
見ているだけで精神をゴリゴリと削られるような主従のやり取り。そこへ、館の方から穏やかな声が響いた。
現れたのは、エレノアと瓜二つの男。一目で彼女の兄、アルフレッドだと知れた。
「やあ、エレノア。あまり無理をしてはいけないよ。セバスも、いつも妹の我儘に付き合わせて済まないね」
「嫌ですわお兄様。エレノアは無理など何一つしておりませんわ」
(……似たもん兄妹だな)
ジグが口に出しそうになった毒を、ガウルの肘が未然に防ぐ。
アルフレッドとエレノア。二人の間には、瞬く間に他者を寄せ付けない、あまりに完璧で美しい兄妹の世界が構築されていった。
「お兄様はこれから、どちらへ?」
「明日の儀式のためにね、今から祭壇へ『宝剣』を納めに行くのさ」
「まあ……。お気をつけてくださいね、お兄様」
「はは。心配ないよ。ではセバス、後を頼むよ」
「はっ。謹んで、承りました」
その光景を、三人はただ呆然と眺めるしかなかった。常人には到底真似できない、凄まじいまでの自己完結。ジグは「この集中力があれば大魔導師にでもなれるな」と、皮肉混じりの感心を覚える。
「……さて、セバス。次の予定は?」
兄の姿が見えなくなった途端、エレノアの声は氷のような冷静さを取り戻した。この切り替えの早さ。ガウルは、この少女がただの夢想家ではなく、相当な食わせ物であることを確信した。
「はい。次はサラダの野菜を見繕うべきかと存じます」
「サラダ? サラダなんて、どれも同じではなくて?」
(……早く終わってくれ……)
ジグの心の叫びを察し、ガウルの肘が再び唸る。
「いえ、お嬢様。真に高品質な野菜のみで構成されたサラダは、他の追随を許しません」
「まあ、そうなの?」
アルスは、そのやり取りを不思議そうに、けれどどこか温かな眼差しで見守っていた。兄一人のために、ここまで献身を捧げる人々。その熱意に、彼は純粋な興味を抱いていた。
「……では、こうしてはいられないわね。セバス、準備なさい! 山に登るわ!」
「かしこまりました、お嬢様」
「山に登るって……今からかよ!」
ジグのツッコミが届くより早く、エレノアは風のように走り去っていった。
アルスはふと、去り際のセバスの横顔に目を留めた。
常に主人の影となり、その望みを完璧に叶え続ける若き執事。その表情には、単なる義務を超えた、言葉にできないほど深い思慕と信頼が滲んでいるような気がした。
「……俺たちも、様子を見に行くか」
ガウルに促され、気乗りしないジグを連れて、三人は再び「山登り」という名の狂想曲へと身を投じた。
西日はまだ高く、空を黄金色に染め上げている。
この長く、賑やかな一日は、まだ終わりを告げる気配を見せていなかった。
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「最高のお野菜はどこ……! 最高のお野菜は…………っ!」
険しい斜面を、泥にまみれながらもエレノアは突き進んでいた。その瞳に宿るのは、愛する兄への献身という名の、峻烈な騎士の輝き。たとえドレスの裾が汚れようとも、彼女の決意が揺らぐことはない。
「お嬢様、あちらを」
セバスが指し示した先には、木漏れ日が降り注ぐ秘密の菜園のような一帯が広がっていた。野生とは思えぬほど立派に育った野菜たちが、収穫の時を待っている。
「まあ……こんな所に。後ほどこの辺りを整備して、本格的な農業を検討しませんと」
その一言に、ガウルは改めて彼女の「領主の娘」としての才覚を認めた。兄への熱情さえなければ、彼女はこの街の財政を立て直す名君になっただろう。
だが、その熱情が仇をなした。彼女が見事な野菜を引き抜いた瞬間、地中から不気味な地鳴りが響き渡る。連日の大雨で水分を含みすぎた土壌が、限界を迎えたのだ。
「い、いやあああああ!!」
昨日とは打って変わった、命の危機を感じさせる本気の絶叫。
崩れ落ちる土砂。逃げるエレノア。そして、相変わらずその横を涼しい顔で並走するセバス。
「……何やってんだよ、本当に」
追いついたジグが、今日一日の疲労をすべて詰め込んだような溜息を吐き出した。彼が地面に掌を当て、鋭く魔力を流し込むと、奔流のような土砂は物理法則を無視してその場にピタリと固まった。
「……緩くなって、おりましたのね。これも後日、対策を……」
「お嬢様、こちらを」
「あら、セバス。助かるわ」
息を切らすエレノアの前に、セバスが手際よく切り揃えた生野菜の皿を差し出す。ガウルはその「執事を超えた何か」の動きに、もはや驚きを通り越して感心すら覚えていた。
野菜の味に満足した彼女たちが、次はドレスの仕立てだと言い残して風のように去っていった後。三人は静まり返った丘の上で、夕闇に包まれつつある祭壇を見上げていた。
「……ジグ、あれが宝剣でしょうか?」
「……ああ。確かに、中々の代物だな」
アルスの問いに、ジグが疲れた体を引きずりながら答えた。
ちょうど、アルフレッドが台座に剣を納め、奉納を終えたところだった。剣が台座に深く差し込まれると、周囲のエーテルが吸い込まれるように渦を巻き、大気が震える。
「なるほどな。台座でエーテルを溜め込んで、抜いた瞬間に解放して輝かせる仕掛けか。おまけに血筋でしか抜けない魔術の鍵……。どこまでも『演出』に凝った街だぜ」
「ん……むう……」
ジグの冷めた分析に、ガウルは複雑な表情で唸った。演出の重要性は、かつての王国の騎士としても理解できなくはないが、今の彼らにはあまりに眩しすぎる。
その後も、ドレスだ、靴だ、小物だ、と街の西から東へ、三人はエレノアの「情熱」に振り回され続けた。
ようやく宿のベッドに辿り着いた頃、ジグとガウルは指一本動かせぬほど疲れ果てていた。
そんな二人を余所に、アルスだけが「結構楽しかったですよ」と微笑んでいる。
「……こいつが一番、怪物だな」
ジグのその呟きに、ガウルは無言で同意し、深い眠りへと落ちていった。
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抜けるような青空は、数日前の嵐が嘘であったかのように澄み渡っていた。
アルフレッドは祭壇へと続く長い石段の麓で、集まった聴衆へ向けて厳かに儀式の口上を述べた。その一挙手一投足は、まるで歴史物語から抜け出してきた高潔な騎士そのものだ。街の人々が熱狂的な拍手を送る中、妹のエレノアだけは、まるで聖者の旅立ちを見送るかのような神妙な眼差しで、兄の背中を凝視していた。
「ただ階段登って、剣抜くだけだろうがよ……」
「……ジグ、声が大きいです。見つかったら台無しですよ」
森の木々に紛れ、息を潜めて移動するジグは、もはやこの「演出過剰」な空間から一刻も早く脱出したいという顔を隠そうともしない。アルスに宥められながら、彼らは主役からは見えない死角を保ちつつ、山を登っていく。
「……まあ、不逞の輩がいないとも限らん。仕事は全うせねばな」
隣で巨躯を縮めるガウルが、低く囁いた。実際に身を隠して護衛をしてみると、それがどれほど困難なことか三人は痛感していた。目立つ赤髪のジグはもちろん、ガウルのその圧倒的な存在感を隠すのは、もはや隠密というよりは一種の苦行に近い。
そんな外野の苦労など露ほども知らず、アルフレッドは一段、また一段と、どこか演劇的な溜めを作りながら祭壇へと歩を進めていく。
「……っ! ジグ、誰かいます」
アルスが鋭く何かを察知し、小声で隣のジグを突いた。ジグが目を凝らすと、茂みの奥で陽光を反射する不自然な金属光――刃の輝きがあった。
(……ガウル!)
ジグの合図を受けたガウルが、音もなく気配を消して賊の背後へと回り込む。その動きには、この「過剰な演出の世界」から早く解放されたいという切実な願いが籠もっていた。
「……父上、母上。私は必ず、この地を導く立派な領主になってみせます……!」
アルフレッドは己の言葉に酔いしれるように、誰にでもなく誓いを立てる。鳥たちのさえずりさえもが、自分への祝福の調べに聞こえていた。
「へへっ、来たぜ来たぜ……!」
「俺たちじゃあ、あの魔法の鍵は外せなかったからな。あいつが抜いた瞬間に、剣もろとも身代金としてさらってやるぜ……」
賊たちは昨晩、偶然この山に迷い込み、宝剣の存在を知った不運な連中だった。自力では抜けなかった宝剣を、儀式のどさくさに紛れて強奪しようという魂胆だ。だが、彼らの運命は背後に立つ巨大な影によって、ここで尽きた。
「……すまんが、これ以上の面倒は御免でな」
地獄の底から響くような声に振り返った賊たちが、短い悲鳴を上げる暇もなく、森の奥で「知られざる戦い」が幕を開けた。
「フロル……私は必ず、君にふさわしい夫になる。そしてエレノア……これからも、自慢の妹に恥じぬ兄であらねば……!」
相まみえることもないはずの誓いの言葉を吐きながら、アルフレッドはついに頂上へ。護衛の騎士たちは階段の中ほどで待機を命じられているため、今は彼一人の舞台だ。
(……ジグ! 一人逃げたぞ!)
(わかってんだよ!)
(祭壇の真後ろです、ジグ!)
人知れず死闘を繰り広げ、かつそれを祭壇の上の男に悟らせてはならない。ジグは、これほど精神を磨り潰す仕事を引き受けた自分を呪っていた。
「聖なる宝剣よ……私が次代の領主となり、平穏をもたらすことを誓おう!」
アルフレッドが宝剣の柄に手をかけ、一気に抜き放つ。
「ヒッ、来るな!」
ジグに追い詰められた賊が、半狂乱で魔術の光線を放った。その閃光は、ジグの頬をかすめ、偶然にも抜かれたばかりの宝剣の刃に直撃した。
キン、という硬質な音が響くと同時に、反射された魔術の光は一筋の輝きとなって、天高く、真っ直ぐに空を貫いた。
広場で見守っていた家族や街の人々は、その光景を呆然と見上げた。宝剣が持ち主を選び、神秘の光を放って天へ応えた――彼らの目にはそう映ったのだ。
「まあ…………!!!」
特にエレノアにとって、その光景は永遠の神話となった。
輝く宝剣、天を突く光、そしてその中心に立つ麗しき兄。幼い頃に夢見た勇者の物語そのものが、今、目の前にある。
(やはり、私のお兄様は世界で最高の兄ですわ……!)
エレノアが揺るぎない確信を得たその時、森の裏側では、ジグが「これでお役御免だ……」と、泥だらけの顔で地面にへたり込んでいた。
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「今回は本当に助かりましたわ。こちら、約束の報酬ですのよ」
街を旅立つ三人の前に、エレノアが眩いばかりの笑顔で現れた。その手には、ずっしりと重みの伝わる革袋が握られている。昨日の「奇跡」を目撃した彼女は、今や全能感に満ち溢れた女神のような上機嫌さだった。
「……? こんなに受け取っていいのか?」
袋の重みに、ガウルが思わず聞き返す。彼らがしたことと言えば、一日中彼女の「情熱」に振り回され、裏山で迷い込んだ賊を人知れず片付けたことくらいだ。あの賊たちは、夢見がちな儀式の余韻を壊さぬよう、深夜にこっそりと衛兵へ引き渡しておいた。
「遠慮する必要はありませんのよ。……それと、そのお金は万が一の時のために、私がお忍びでお仕事をして貯めたものですわ。領民の血税ではございませんから、何の心配もいりませんわ」
エレノアは誇らしげに胸を張る。実際、彼女は変装(といっても上質な布を被った程度で、街の誰もが「エレノア様だ」と気づいていたが)をしては、ひたむきに働いて貯金に励んでいた。街の人々が彼女を慕うのは、そんな少々ズレた、けれど真っ直ぐな誠実さを愛しているからに他ならない。
「結婚式、できれば見たかったです」
「まー……天気が良いうちに、先を急ぎたいからな」
ジグは精一杯、早くこの場を立ち去りたいという本音を押し殺して言った。精神的にはすでに満身創痍なのだ。
「これからも、近くにいらした時にはお仕事を依頼させて頂きますわね」
「……ああ。まあ、縁があればまた付き合ってやってもいい」
「皆さんの幸せを、お祈りしています」
ガウルがどこまで本気か測りかねる返事をし、アルスが心からの祈りを捧げると、三人はようやく黄金色に輝く街道へと足を踏み出した。
「……良い方たちでしたわね、セバス」
「はい。お嬢様」
遠ざかる三人の背中を、エレノアはうっとりとした様子で見送っていた。彼女にとって今回の出来事は、兄の最高の晴れ姿を演出し、己の審美眼の確かさを証明し、さらには「宝剣の神話」までもを目撃するという、完璧すぎる物語となったのだ。
「……ところで、セバス。あなたも疲れたでしょう。少し、お休みを取ってもよろしいのよ?」
「いえ、お嬢様。私ならば何の問題もございません」
「……あ、あら。そう?」
不意にセバスを気遣ったエレノアの頬が、淡く朱に染まる。アルスが感じ取った、主従の枠を超えた密やかな思慕。それはあながち、間違いではなかったのかもしれない。
「……ではセバス。このままお兄様の結婚式のドレスを受け取りに行くわ。準備なさい!」
「仰せの通りに、お嬢様」
二人はいつものように、風となって街の雑踏へと消えていった。
数日後、街の広場で執り行われた結婚式は、歴史に残るほど見事なものだったという。
人々は次代を担う領主アルフレッドと、慈愛に満ちた新婦フロルの門出を心から祝った。
そして、エレノアの急な訪問に腰を抜かしながらも、式のデザートとして特製の菓子を納めたあの裏通りの親子は、一夜にして街を代表する名店へと登り詰め、その評判は瞬く間に国中へと広がっていった。
式も終盤に差し掛かった頃。
新婦フロルが幸福を願って投げた美しい花束は、吸い寄せられるようにエレノアの手の中へと収まった。
驚きに目を見開く彼女と、その傍らで静かに微笑む執事。
エレノアの運命の人が誰になるのか、この時の街の人々は、まだ誰も知る由がなかった。




