007 出会いと賢者の石 終
「少しずつ自壊した破片を、忍び込んだ獣どもが食った……ってとこか。高位魔術で構成されてたんなら、それを体内に取り込んだ魔物が魔術を使えても、不思議じゃねえな……」
床にどろりと広がり、石畳の隙間へと吸い込まれていく血の染みを眺めながら、ジグは忌々しげに吐き捨てた。
「空気が……澄み切っていきます。少しずつですが、精霊たちも戻ってきているようです」
「精霊たち、だと?」
ガウルは思わず聞き返した。この地下に降りてからというもの、己の常識では測りきれない事象の連続に、困惑を隠せない。
「黙っとけって言ったのになあ……。アルの奴、精霊の声が聞こえるんだとよ」
「ガウルなら、大丈夫ですよ。ジグ」
(だからお前は、誰にでもそう言うんだろ……)
喉元まで出かかった言葉を飲み込み、ジグは乱暴に頭を掻いた。このあまりに無防備で世俗を知らぬ美貌の青年が、いつか取り返しのつかない揉め事に巻き込まれるのではないかと考えると、暗澹たる気分になる。
「心配ない。他言はせん」
ガウルの声は短かったが、そこには揺るぎない重みがあった。
呪術の呪縛から解き放たれた部屋を改めて見渡せば、そこはかつて、誰かの贅を尽くした隠れ家のようでもあった。おそらく、どこかの富豪がここに居を構え、甘い誘い文句に乗せられて禁忌の魔術書を買い取ったのだろう。あるいは、不老長寿を夢見て術者を雇い入れたのか。
だが、何らかの理由で主は去り、ここは放棄された。主を失ってもなお、効力の切れない呪術だけが毒のように残り続け、変異した魔物が溢れ出した…。おそらくそれが今回の調査依頼の、あまりに虚しい真相なのだろう。
「終わってみれば、本当に割に合わねえ仕事だったな」
「でも、これでこの辺りの人たちも、精霊も救われましたよ」
「あんな連中が街へ降りていたら、どうなっていたか分からん」
三人は、一仕事を終えた安堵感と、澱んだ空気が晴れていく中での心地よい疲労感を覚えながら、言葉を交わした。一体、誰がこのような悍ましい術を考案し、広めているのか。疑問は尽きないが、今はただ、この場を去りたかった。
「……どうしましょう、これ」
アルスが二人の前に、あの「賢者の石」の魔術書を差し出した。表紙には、欲深い富豪たちが思わず手を伸ばしたくなるような、過剰なまでの装飾が施されている。
「決まってんだろ。燃やすんだよ」
「いいのか? 全て壊れていたなんて報告をすれば、あの端金の報酬がさらに減るかもしれんぞ」
「いいんだよ。こんなもんが誰かの手に渡って、また魔獣の苗床にでもされたら厄介だ」
「それもそうだな」
「私も、そうした方がいいと思います」
三人の意見が一致する。ジグは指先から小さな炎を放ち、魔術書へと手向けた。人の浅ましくも甘い夢を謳った紙片は、声を上げることもなく、静かに、だが確実に灰へと還っていった。
ついでにジグは、残された実験器具にも雷撃を加え、再利用の余地を完全に断つと、満足そうに深く息をついた。
「終わったなあ……。帰ろうぜ」
部屋の外へ歩き出すアルスとガウルに続こうとして、ジグはもう一度だけ、室内を見回した。
その時、先ほどの雷撃の影響だろうか。部屋の奥の壁に、微かな違和感を見つけた。そこそこの箱が収まりそうな、不自然な繋ぎ目。
「はあ……」
重いため息を漏らし、ジグは足を引き返した。
「ジグ! どうした、行かないのか?」
「何かあったのですか?」
呼びかける二人の声に、「すぐ行くって! 先に行っててくれ!」と声を張り上げる。
「全く、小賢しい真似を……。後でこっそり持ち出すための、へそくりでも隠してんのか?」
悪態をつきながら、壁を調べる。隠し細工を見つけ出すと、ジグは迷いなくそれを解いた。
「けどまあ、俺の目は誤魔化せねえ。くだらねえもんなんか、全部ぶっ壊してやるからな……」
壁の一部が音もなく開き、その中身を視界に捉えた瞬間――ジグは言葉を失った。
その燃えるような瞳には、憐れみとも、呆れともつかぬ、ひどく複雑な色が宿っていた。
「……馬鹿なことを」
そこに納められていたのは、とっくに風化してしまった猫の亡骸だった。
そしてその隣には、この小さな獣がいかに溺愛されていたかを物語る、目も眩むような宝飾品の数々が、冷たい輝きを放っていた。
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「これからどうするんだ?」
潮の香りと活気に満ちた港町へ戻り、ジグが二人に問いかけた。
街は三人が地下へ潜る前と何ら変わらず、人々はそれぞれの営みに追われている。
仕事、金、色恋……。街に渦巻く欲望は止まることを知らず、喧騒となって通りを満たしていた。ほど近い路地では、数日前にアルスへ強引な売り込みをかけていた商人が、今日もまた新たな獲物を求めて声を張り上げている。
受け取った報酬は、幸いにも減額こそされなかったが、やはりその労力に見合うものではなかった。
「さあ……特には、決めていないのですが」
「行きたい場所もないのか?」
ガウルが不思議そうに問う。この大陸を旅する者であれば、誰もが胸に秘めた目的地の一つや二つはあるものだ。
「山暮らしが長かったんだとよ」
ジグは説明の端折りながら、気だるげに答えた。背後のギルドからは、絶えず人が出入りしては、それぞれの目的へと散っていく。
「なら……連合の首都、アル・ハミドを目指すのはどうだ? 大陸の最西端ゆえ日数は結構かかるが、道中の街を巡れば、自ずと何か見つかるだろう」
ガウルはしばし思案した後、一つの提案を口にした。海を臨む貿易連合国の首都は、この港町とは比較にならぬほどの規模を誇る。そこに至る旅路で目にする光景は、世間知らずなアルスには良い薬になるだろう。近頃、首都の周辺では芳しくない噂も耳にするが、それは旅を続ける以上、避けては通れぬ宿命でもあった。
「首都ですか……。ええ、見てみたいです。ガウル」
アルスはガウルへ、眩いばかりの笑顔を向けた。
再びフードを深く被り、その清廉な容貌を隠してはいたが、零れ落ちる笑みの美しさには、直視を躊躇わせるような気恥ずかしさが宿っている。
「ジグはどうしますか?」
「……。今回の仕事きりだと思ってたんだがな。まあ、俺も特に行く当てはねえし、付き合ってやってもいいぜ」
誰かと過ごす時間の温もりを久方ぶりに味わったせいだろうか。ジグの胸には、かつて翠の民と過ごした穏やかな日々が淡く去来していた。それに、この危なっかしい青年を一人で放り出すには、彼は少々、お人好しに過ぎた。
「……で、ガウル。あんたはどうするんだ?」
「俺か? 拾ってもらった命だ、二人についていくさ。それに、あんな小型のなり損ないを相手にした程度では、働いた気がしなくてな」
ガウルは軽く笑いながら答えた。
己の腹の底から、これほど自然に笑いが込み上げること自体、未だに信じがたい心地がする。孤独に生きることこそが傭兵の矜持だと信じていたが、この二人と歩む道の先には、己の何かが、あるいは運命そのものが大きく変容するような、奇妙な予感があった。
「では、決まりですね。改めて、よろしくお願いします」
アルスが嬉しそうに、弾んだ声で手を差し出す。
ジグとガウルも、僅かに口角を上げると、重なるようにその手を合わせた。
同じ孤独を分かち合い、奇妙な縁で結ばれた三人は、こうして一つの「旅」となった。
港を吹き抜ける風が彼らを追い越し、祝福するようにマントの裾を揺らす。
三人は並んで歩き出し、喧騒の街を背に、どこまでも広がる大陸の果てへと、その第一歩を刻んでいった。




