038 断章 ジグ 翠の民 (前編)
カシムが治める街の、静謐そのものを石壁で囲い込んだような図書館。その重厚な沈黙を破り、ジグの独り言が、乾いた羽音のように響いた。
「……流浪の民である我等が、魔王降臨の理由を知ること叶わず……」
一連の事件が辛うじて幕を引き、街に安息の気配が戻った今、彼は再び一族の古書と対峙していた。机上に広げられた羊皮紙をなぞるその横顔は、いつになく険しい。
それは、自分たちが遭遇した陰謀の糸口を掴むためであると同時に、彼の中に燻る、ある種の純粋な知的好奇心が突き動かしている部分も大きかった。
「ええと……。しかし、この時、世界の繁栄の礎となっていた精霊石こそが、魔王降臨の元凶であると我等は判断し、一族の秘術によりこれを未来永劫、この世界から消し去ることとした……」
そこまで読み下したところで、ジグは天を仰いで大きく息を吐き出した。
――一族の古語など、一体いつ使う時が来るというのか。
そんな傲慢を抱き、真面目に魔術以外の勉学に励まなかった幼き日の自分を、これほど恨めしく思った日はない。いまや、その難解な文法を紐解いてくれる大人たちは、この地上には一人として残っていないというのに。
しばらくの間、彼は腕を組んだまま、椅子の背にもたれて天井の装飾を眺めていた。だが、やがて気を取り直すと、再び褐色の書物へと意識を沈めていく。
古の叡智を追うジグの赤い瞳は、失われた歴史を照らし出そうとする、孤高の炎のようでもあった。
「この時の大戦により……我等一族も、多くの犠牲を生む。秘術を扱った者は……言い伝え通り……」
”言い伝え通り、その命と引き換えに、因果に触れる力を操った”
刹那、ジグの視線が、ページを繰ろうとした指先が、凍りついたように止まった。
燃えるような赤の瞳に、言いようのない複雑な色彩が宿る。大人たちから断片的にしか受け継がれなかった、あの翠の秘術。
(先生……)
一文の端に視線を落としたまま、ジグは遠い日の面影を抱きしめた。
先生と呼ぶには、あまりに豪快に笑い、逞しかった一族の若き長。早世した両親の代わりにジグを慈しみ、育ててくれた男。あの日、逃れられぬ運命を断ち切るため、戦火のただ中へと身を投じた勇敢な戦士。そして、誰よりも深く秘術を体得していた、類まれなる魔術師。
もう二度とまみえることは叶わない。その厳然たる事実は理解していたはずだった。
けれど、こうして活字として、あまりに無機質な現実を突きつけられると、心の奥底に暗い靄のような感情が沸き起こってくるのを禁じ得ない。
記憶の糸が、手繰り寄せられる。
あの日。
ジグにとって、愛すべき家族たちと過ごした、最後の瞬間の光景へと――。
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二十年前――。
貿易連合国の辺境、草いきれのするむせ返るような夜道を、音もなく往く一団があった。
彼らが目撃したのは、平和の楔たるべき聖堂が、禍々しい赤黒い光の柱に呑み込まれ、天を衝く巨大な墓標へと変貌を遂げる、その戦慄の瞬間であった。
「そうか……歴史は、またしても繰り返すというのだな」
夜風を孕むマントの襟をかき合わせ、男は独りごちた。その低い声には、驚きよりもむしろ、避けることの叶わぬ嵐をあらかじめ受け入れていたかのような、静かな諦念が混じっていた。
その傍らに立ち尽くす者たちは、人間とは一線を画す、異質の美を湛えていた。
長く尖った耳、月光を浴びて翠の深淵を沈めたような肌。そして夜闇を射抜く瞳と髪は、燃え盛る劫火のごとき鮮烈な赤。
定住の地を持たず、ただ星の導くままに大陸を彷徨う流浪の民――。彼らにとって、束の間の安らぎなど、運命という大河に瞬く泡沫に過ぎなかった。
「先生、これって……」
男を「先生」と呼ぶ少年が、拭いがたい不安を瞳に宿して歩み寄った。
ジグ。まだ幼さの残る面立ちに、迸るような魔術の才を秘めたこの少年は、人間の尺度で見れば、いまだ十八に満たぬ童子に等しい。
先生と呼ばれた男は、肺の奥底に溜まった憂いをすべて吐き出すかのように、重い溜息をついた。
使命を果たすべき刻が、あまりに早く訪れてしまった。この少年に、その華奢な背には重すぎる運命の荷を背負わせる季節が。
「ジグ。お前は、もうすぐ幾つになる?」
「え……。たしか、もうすぐ五十くらいだと……」
唐突な問いに、ジグは当惑を隠せない。
周囲の同胞たちは、彫像のように動かず、ただ冷たく凍てつく夜気に身を浸している。その死の如き沈黙は、これから語られる真実の重さを予見させていた。
「はっはっは。己の歳くらい、正しく数えておけと言ったろう。我ら長命種にとっては、時は毒にも薬にもなるのだからな」
先生は、慈しみを含んだ笑みをジグに向けた。
だが、その柔らかな笑みとは裏腹に、ジグの胸中には拭い去れぬ不安が広がっていく。吹き抜ける夜風に、己という存在が掻き消されてしまいそうな、根源的な恐怖。
夜中にこっそりと抜け出し、覚えたての魔術を月光に捧げていたあの無邪気な日々は、今この瞬間、不可逆の過去へと押し流されようとしていた。
「話さなければなるまいな、ジグ。我ら翠の民が、この血に刻み、守り続けてきた知恵を」
先生がジグの瞳を真正面から射抜いた。
その双眸の奥に宿る、逃れられぬ覚悟。
ジグは直感していた。これから語られる言葉が、己の運命を永遠に変え、安らぎに満ちた放浪の日々に終わりを告げる「弔鐘」であることを――。
「ジグ。魔王とはなにか、かつてお前に語ったことを覚えているかい?」
天を衝く暗黒の柱は、刻一刻とその禍々しさを増していた。空をどす黒い赤に染め上げ、翠の民を照らし出すその光は、もはや天に穿たれた地獄の門そのものに見えた。
「……大地に人々の血と欲望が満ちる時、顕現するもの、と……」
ジグは必死に記憶の澱を掬い上げ、消え入りそうな声で答えた。
実学としての魔術を操ることにしか興味がなかった彼にとって、古びた伝承の講義は、いつも退屈な子守唄に過ぎなかったはずだった。しかし、今この窮地で蘇る記憶は、かつて一族の焚き火を囲んだ夜の温もりと共に、鮮明な輪郭を持って溢れ出してくる。
「そうだ。よく覚えていたね」
先生の眼差しは、深い慈しみと、そして拭いきれぬ微かな後悔に揺れていた。
あと十年――。
せめてあと十年あれば、この少年は一族を背負って立つ立派な若者へと成長していただろう。定住の地を持たず過酷な旅を続ける流浪の民の宿命と、長命ゆえに刻を惜しまず、子を成すことを急がなかった一族の悠長さが、今この瞬間、残酷なまでの焦燥となって先生の胸を焼いた。
「これこそが魔王なのだよ、ジグ」
「え……でも、魔王は空を駆ける竜よりも大きな魔獣だったって、伝承では……」
ジグは困惑を口にする。だが、その困惑こそが彼の中に冷ややかな「予感」を呼び覚ましていた。
この闇の柱は、単なる天変地異ではない。何かが終わり、何かが始まろうとしている合図。そしてそれは、敬愛する師や同胞たちとの、永遠の「別れ」を告げる予兆に他ならなかった。
「あっはっは。なんだ、やはりお前は賢いな」
先生の笑い声さえも、周囲を圧する闇の奔流に呑み込まれ、どこか遠い異界へと吸い込まれてゆくかのようだ。
「ならば、二千年前に魔王降臨のきっかけとなったものは?」
「……精霊石です」
ジグは迷いなく答えた。その答えを聞くと、先生の顔から一切の笑みが消え、底知れぬ重みがその双眸に宿った。
「よろしい。ではジグ、これから私の言うことを、一言一句違わずにその魂に刻みなさい」
その声は、もはや師としての教えではなく、一族の長としての「宣誓」であった。
「今は何を言われているか分からずとも構わない。だが、お前の中にだけは残しておかねばならない。……いいかい?」
ジグは、ただ静かに頷いた。
吹き荒ぶ夜風が、彼のマントを激しく翻す。その内側で、燃えるような赤髪が火の粉のように揺れ、少年の幼い横顔を、過酷な宿命へと立ち向かう戦士のそれへと塗り替えてゆく。
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「人々が魔術を紡ぐとき、その指先は無意識のうちに根源たる『エーテル』に触れている。……それは、魔術の基本だったね」
先生の声は、天を貫く暗黒を前にして、静かな祈りのように響いた。その瞳は今、ここではないどこか――太古の昔を眺めているかのようだった。
「二千年前、人はあろうことか、形なきエーテルを物質として凝縮させる術を手にしたのだよ。技術というものは、一度産声を上げれば、それ自体が意志を持つ生き物であるかのように、更なる進歩を求めて止まらなくなるものだ」
傍らに佇む翠の大人たちが、重苦しい溜息をついた。それはかつての大地が受けた傷跡を、数百年を生きる自らの肌で今なお感じ取っている、長命種ゆえの共鳴であった。
「そして、その凝縮された負の結晶が、ある時、解き放たれた」
夜風はますますその冷徹さを増し、一行のマントを激しく翻してゆく。
「どこの誰が、どのような絶望の叫びと共にそんな禁忌を犯したのか……。もはや我らの伝承にさえ残っておらぬ、歴史の彼方の出来事だ。ただ、その瞬間に『魔』はこの大地に舞い降り、世界を底知れぬ混沌に包んだ。実際のところ、精霊石が魔王降臨の真のきっかけであったかは長らく疑念の中にあったが……。今夜の光景を目の当たりにして、ようやく確信が持てたよ」
先生はジグに向き直った。その双眸には、一人の少年に「真実」という名の耐え難き重荷を託そうとする、残酷なまでの愛が宿っていた。
「ジグ、よく聞きなさい。大地に生きとし生けるものの血が流れ、怨嗟の声が満ちた時――。そこに大質量のエーテルが集中して臨界を迎えれば、この大地に魔王は顕現する」
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「でも……先生。魔王とは、結局何なのですか。いま目の前にあるものは、生物ですらないように見えます……」
ジグは己の理解が、世界の理の外側へと引き摺り出される感覚に、激しい眩暈を覚えた。それでも、師との最後になるであろうこの「授業」を、一滴も零さぬよう魂に刻み込む。
「これは『闇を撒くもの』と呼ばれた存在なのだ。魔王という呼称は、実際にはこの人知を超えた現象を、我々が理解しやすい言葉で括ったに過ぎない。特定の姿形があるのかも定かではない、全ての生命を喰らい、飲み込まんとする虚無そのもの。それが魔王だよ」
風は、止むことを知らずに吹き抜けてゆく。
遥か彼方、地平の端に不吉な朱色の瞬きが走った。それは、各地で上がり始めた戦火の産声。
先生はその紅蓮の輝きに、再び世界を蹂躙しようとする新たな戦乱の徴を読み取り、静かに、そして深く目を閉じるのだった。
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「どうすれば……鎮められるんですか」
ジグもまた、師と同じく遠き地平で爆ぜる戦火の朱を見つめながら、消え入るような声で問いかけた。
「二千年前、完全な形で『魔』が降臨した折、我らの先祖はその引き金となった存在を導き出した。それが精霊石だ。先祖たちは、魔王が精霊石を依り代として現世に肉化しているのではないかと考えたのだよ。大陸中に偏在する精霊石がこの世に在り続ける限り、魔王が真に鎮まることはない……。彼らはそう断じたのだ」
ジグは、その一言一言を魂に刻印するように聞き入っていた。
――なぜ、もっと真剣に、多くのことを学んでおかなかったのか。
峻烈な後悔が胸を焼き焦がす。運命という名の過酷な試練は、いつだって準備の整わぬ者にこそ、容赦なく襲いかかるものだというのに。
「そして当時の翠の民は、ある決断を下した」
先生はふと、遥か北方の霊峰近くに、微かな魔術の瞬きを捉えた気がした。
あの地には、神の恩寵をその瞳に宿した、平和の象徴たる王子が降臨したのではなかったか。その幼き命も今、この理不尽な嵐に翻弄されているのだろうか。
「……ジグ。我ら一族が流浪の民となる道を選んだ、あの秘術のことは覚えているね?」
一族の眼前に聳え立つ暗黒の柱は、もはや世界そのものを呑み込まんとする勢いで巨大化し、その禍々しさを増していた。
「……因果を操る、秘術、ですよね」
先生は、震えるジグの肩を大きな掌で優しく包み込んだ。
「そうだ、よく覚えていたね。太古の昔、星読みの一族として生きていた私たちの祖先は、神々をも超えた世界の果てに触れる術を知ってしまった。世界の理そのものを書き換える禁忌の術……。それ以来、私たちはこの術が悪用されぬよう、定住の地を持たぬ流浪の民となったのだ」
「その術を……使ったのですね。精霊石に」
ジグの瞳に、熱いものがこみ上げてくる。
神々の領域すら越えた彼方の存在へと語りかけ、因果をねじ曲げる禁呪。封印戦争以降、人々は幾度となく精霊石の再構成を試みたが、それは二度と結晶化することはなかった。あたかもこの世界には初めから精霊石など存在しなかったかのように、その輝きが人々の前に現れることは、今日まで一度としてなかったのである。
「そうだ。そしてこの時代……精霊石ではないが、よく似たものが聖堂に鎮座している。『神の眼』などという大層な名をつけられてね。一体いかなる術理で生み出されたのかは定かではないが……、あれが今回の降臨の引き金となっているのは確かだろう」
ジグは、先生が、そして周囲に立ち並ぶ大人たちが、今から何を成そうとしているのかを悟った。
――けれど、先生。
ジグは言いかけて、喉の奥で言葉を失った。一族が秘匿し、守り抜いてきた秘術。それは、術者の命と引き換えに行使せねばならぬ、命の対価を求める禁呪ではなかったか。
ジグの眼差しを真っ向から受け止め、先生は慈しむように、最愛の弟子の肩を叩いた。
その手の確かな温もり。
それが、師としての最後の教えであり、永遠なる別れの合図であることを、ジグは痛いほどに悟るのだった。




