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002 出会いと賢者の石 ②

「ジグ」


 出口へ向かおうとしたジグのマントを、アルスが指先で軽く引いた。

 出会って数刻も経たぬというのに、旧知の友のように名を呼ぶこの男に、ジグは呆れを通り越して危うさを感じていた。


「……なんだ。まだ何か用か?」

「あそこにいる方ですが……」


 アルスの視線の先。そこには、ギルドの喧騒を寄せ付けぬ濃密な「死線」の気配を纏った男が立っていた。


 褐色の肌、頑強な肢体。齢は四十に届かぬほどか。しかし、その男が放つのは、数多の戦場を潜り抜けた者だけが持つ、研ぎ澄まされた鋼のごとき威圧感であった。目立つ傷跡がないことこそが、逆にその男の技量が底知れぬものであることを雄弁に語っている。


「あの方……怪我をしています」

「怪我? 包帯は巻いてるが、血も滲んじゃいねえだろ。治りかけじゃないのか」


 ジグの言葉が終わらぬうちに、アルスは迷うことなくその男へと歩み寄っていった。


「すみません、そこの方」


 呼びかけに応じ、男は静かに視線を向けた。敵意はないが、自らの間合いへ無遠慮に踏み込んできたアルスの真意を測りかねている。


「その右腕……深い部分が汚れたままです。まだ、治ってはいませんね」


 アルスは淀みない動作で、男の右腕にそっと手を添えた。男は反射的に身を固くしたが、アルスの掌から伝わるのは、あまりに無垢な善意のみ。振り払う機会を逸した男の前で、アルスは小さく呟いた。


「……お願いします」


 淡い、真珠色の光が溢れ、男の腕に温かな熱が浸透してゆく。


「お前……法術が使えるのか?」


 背後から近づいてきたジグの声に、男は初めて警戒の質を変えた。無防備な美青年とは対照的に、赤髪の翠の男からは、隠しきれぬ熟練の魔術師の気配を感じ取ったからだ。


「はい、あの……そういうものです」

「そういうものって、法術は法術だろうが」


 ジグの毒づきを余所に、アルスは眩い微笑を男に残した。


「もう大丈夫ですよ。傷口は、毎日洗ってくださいね」


 男が礼を言う暇もなく、二人は人混みへと消えていった。残された男――ガウルは、自身の右拳を何度か握りしめた。消えることのなかった芯の鈍痛が、嘘のように霧散していた。


(……腕のいい法術師だ。だが、あの組み合わせは……)


 ガウルは、去りゆく二人の背中に、かつての戦乱の夜に感じたものと似た、不穏な風の予感を見た。


 ----------


「なんだ、亜人の魔法使いと、女みたいな付き人がライバルってことか?」


 ギルドを出たジグを待ち構えていたのは、鼻持ちならない自信を張り付かせた男たちだった。


「なんだお前は」


 ジグの瞳に、隠しきれない不快感が宿る。みどりの民としての誇りを持つ彼にとって、種族を侮蔑するような呼び方は、逆鱗に触れるに等しい。


「俺たちはこの街のトレジャーハンターさ。お前、あの地下遺跡の調査を受けたんだろ? 無茶な自殺志願者がどんな面拝してるか、拝みに来てやったのさ」


 男の背後には、剣士と法術師らしき男女。実力はともかく、均衡の取れた構成ではあった。


「そうかい。勝手にやってくれ、俺たちも勝手にやる」

「ははは! まあ遠足気分を楽しんでくれよ。俺たちの手際の良さを、遠くから眺めて勉強するんだな!」


 嘲笑を投げつけ、去ってゆく一行。ジグは心底、この手の「似た者同士」が集まる徒党に反吐が出る思いだった。


「頑張りましょうね」


 アルスが、去りゆく背中に向かって朗らかに声をかけた。

 ジグは言葉を失い、深く、重く、天を仰いだ。


「……おい、アルス」

「はい?」

「出立する前に、薬屋に寄るぞ。強力な頭痛薬を買い溜めておかないと、俺の頭が遺跡に着く前に爆発しそうだ」


 運命は、かつての戦火で孤独な旅人となった三人を、同じ地下へと導こうとしていた。


 ----------


 地下遺跡への道程は、拍子抜けするほど穏やかだった。貿易連合国がその威信をかけて整備した街道は、石畳の隙間に至るまで文明の香りが染み付いており、魔導帝国の荒廃した軍道や神聖王国の険しい巡礼路とは比較にならぬほど快適な旅路を約束していた。


 ジグは、隣を歩くアルスの足取りを盗み見ては、心中で首を傾げていた。細い枝のような肢体、世間知らずの極致にあるような振る舞い。それなのに、一日中歩き通してもアルスの呼吸は乱れず、その足取りは羽毛のように軽い。


(……こいつ、意外と根性があるのか。それとも、疲労という概念さえ欠落しているのか)


 底の知れぬ同行者への疑念を抱きつつ、陽光が地平の端に沈む頃、二人は野営の準備に取り掛かった。


 ジグの予想に反し、アルスの手際は鮮やかだった。風向きを読み、手早く薪を集め、簡素ながらも機能的な天幕を設える。その一連の動作には、厳しい自然の中で生きてきた者特有の、無駄のない洗練が宿っていた。


「お前……俺の姿を見て、何とも思わねえのか?」


 爆ぜる焚火の爆ぜる音に紛れ、ジグは溜め息混じりに問いかけた。みどりの肌、炎のような赤髪、天を指す尖った耳。この姿を前にして、眉ひとつ動かさぬ男の真意が計りかねたのだ。


「綺麗だと思いますよ、ジグ」


 迷いのない、真珠のように澄んだ答え。


「……質問するんじゃなかったな」


 褒め言葉という名の不意打ちを食らい、ジグは居心地が悪そうに視線を逸らした。照らされた赤髪が、焚火の熱を吸ってより一層鮮やかに燃え上がる。


「そのフード、いい加減外したらどうだ。夜まで着けっぱなしじゃ、邪魔で堪らねえだろ」


 沈黙に耐えかねて投げた言葉に、アルスは「そうですね」と短く応じ、ゆっくりと布を取り払った。


 その刹那、ジグは呼吸を忘れた。

 月光を束ねたような銀髪が夜風に溢れ、露わになった顔立ちは、この世の如何なる工匠も彫り得ぬほどの完成された美を湛えていた。だが、何よりジグを震撼させたのは、その瞳だ。

 深い闇の中でなお自ら発光するかのような、神秘的な黄金の瞳。それは世界そのものを映し出し、同時にすべてを見透かすような、神域の輝きを宿していた。


「……お前、一体どこから来たんだ?」


 動揺を隠すようにジグは問いかけた。


「北の霊峰で、つい最近までノエマと暮らしていたのです」


 返ってきたのは、あまりに浮世離れした答えだった。ジグは眩暈を覚え、反射的にそれを「信心深い世間知らずが見た甘い夢」として処理しようとした。だが、その黄金の瞳に見つめられると、その荒唐無稽な言葉さえ真実として響いてしまう。


「……家族はいないのか」

「二人とも、既に旅立ったとノエマから聞きました。母の墓は霊峰にあります。父がどこで亡くなったのかは、私は知りません」


 焚火の爆ぜる音が、ふたりの間の静寂を際立たせる。


「……じゃあ、俺と同じだな」


 立ち入った話を聞いてしまった謝罪の代わりに零れた独白。みどりの民の同胞と別れて二十年。かつて背中を預けた大人たちの温もりは、今や遠い記憶の彼方へ霧散していた。彼等と再会することは、ついぞ無かった。


「では……似た者同士ということですね」

「なんだそりゃ」


 アルスの口から出たその言葉に、ジグは思わず吹き出した。

 これほどまでに違う二人が、同じ「孤独」という一点で結ばれる。その滑稽さと切なさに、ジグの頬が緩んだ。誰かと共に笑うことの温かさを、彼は忘れていたのだ。


 遠く、トレジャーハンターたちの下卑た馬鹿騒ぎが風に乗って聞こえてくる。それを苦々しく聞き流しながら、ジグは焚火の傍らに横たわった。


「……アル。その精霊だの女神だのって話は、俺以外にはするなよ。それと、夜中過ぎに交代だ。何かあったら起こせ」

「はい」

「それとお前の事はこれからアルって呼ぶからな。その方が言いやすい」

「はい。おやすみなさい、ジグ」


 背中に感じるアルスの静かな気配。

 出会ったばかりだというのに背を預けて大丈夫だろうと思ったのは、アルスの純粋過ぎる雰囲気がそうさせるのか。

 黄金の瞳を持つ、神の恩寵を宿した王子。かつて聞いたそんな伝承が脳裏をかすめる。


(似た者同士、か……)


 心地よい疲労と、奇妙な安心感。ジグは二十年ぶりに、深い眠りの淵へと沈んでいった。

 二人の頭上では、あの夜と同じ星々が、変わらぬ冷たさで運命の行方を見守っていた。


 ----------


 爆ぜる火の粉が、夜の帳に朱い点描を描いては消えてゆく。

 アルスは、静かな寝息を立てるジグの背中を、暖かな眼差しで見つめていた。みどりの肌を震わせる規則正しい呼吸。初対面の折に感じた、あの「善き兆候」を信じた己の直感は、間違いではなかった。


 霊峰を降り、初めて人里へと足を踏み入れたとき、アルスを導いたのは風や土に宿る精霊たちの声だった。彼らは危うい足取りの主を案じ、時には賑やかに、時には密やかに道を示してくれた。霊峰以外の世界を知らなかったアルスにとって、精霊たちとの語らいは何物にも代えがたい、心躍る旅の彩りであったのだ。


(まずは多くの人々が集う南へ行きなさい……貴方にとって、善き出会いがあるはずです……)


 女神の言葉の通りに歩き、南の貿易連合国の門を潜った瞬間、その世界は一変した。

 溢れんばかりの人、人、人。行き交う欲望の熱量と、渦巻く虚栄の叫び。それらが巨大な濁流となって押し寄せると、繊細な精霊たちの囁きは、かき消され、霧散してしまった。

 途方に暮れ、独り街の海に浮いていたアルスを救い上げたのは、皮肉にもあの強欲な宝石商の呼びかけであり、そして――ぶっきらぼうに「真実」を突きつけたジグの介入であった。


 パチリ、と薪が爆ぜる。

 翌朝、ギルドで再び彼に出会えたとき、アルスは確信した。この赤髪の魔術師は、言葉こそ棘を孕んでいるが、その奥底には、霊峰の陽だまりのような温かさが秘められているのだと。


 ----------


「なるべく隠すように」とノエマに言われた、己の黄金の瞳。

 神の恩寵とも、平和の象徴とも呼ばれるその輝きを、アルス自身はただの宿命として受け入れてきた。けれど、ジグの瞳――あの燃えるような、それでいてどこか遠い孤独を湛えた赤褐色の輝きを間近にしたとき、アルスは自分のものとは異なる、けれど確かに「等しき輝き」をそこに見出した気がしたのだ。


 夜風が強まり、アルスは銀髪をなびかせながらマントの襟を合わせた。

 街の喧騒から離れたこの荒野では、精霊たちの声が再び、水底の砂金のようにきらめきながら届き始めている。彼らはジグの安らかな眠りを祝し、夜の深まりを告げていた。


 アルスは夜空を仰ぎ見た。

 天蓋を埋め尽くす星々は、どこにいても同じ冷徹な光を放ち、月は慈悲深き母の眼差しで地上を照らしている。

 虫たちの奏でる旋律に耳を澄ませば、胸の奥に去来するのは、二十年という月日を共に過ごした霊峰の静寂。女神と過ごした、あの愛おしく、浮世離れした日々。

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