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龍の愛印

 静寂。それは、先ほどまでの不気味な沈黙とは異なり、高天家の人々の心臓が凍りついた音のようだった。


「……は?」


 最初に声を漏らしたのは白雪だった。

 その顔は衝撃に歪み、自慢の美貌は見る影もない。驚愕と戸惑い、そして煮え滾るような屈辱が、彼女の表情を醜く塗りつぶしていた。


「紅蓮様、何を……。聞き間違いですわよね? その女は双葉は、高天家の汚点と言われる醜女ですのよ? 婚約者は、この私……」


「黙れと言ったはずだ、下衆が」


 紅蓮様の冷徹な一喝が響き渡る。


 白雪はビクッと身体を震わせた後、絶望のどん底に叩き落されたかのようにガタガタと震え出し、その場に崩れ落ちた。 


 紅蓮様は、崩れ落ちた白雪には一瞥もくれずに泥にまみれた私の前に跪くと、汚れ一つないその手で、私の冷え切った手を壊れ物を扱うように優しく包み込んだ。その温もりが、凍てついていた私の心を溶かしていくようだった。


 全てを燃やし尽くす紅蓮の焔なんかじゃない。これは慈愛の焔だ、と思った。


「遅くなってすまない、双葉。こんなゴミ溜めに、君を一人にしておきたくなかったんだが」


 紅蓮様は燃えるような紅い瞳に柔らかな光を浮かべて言う。


「あ、あの……紅蓮様? 私は、生贄で……醜くて……」


「醜い? 誰がそんな出鱈目を」


 そう言って、紅蓮様は私の頬にある黒蛇の痣に、愛おしそうに指先で触れた。


「オレの目には、絶世の美女にしか映らん。そしてこの痣……これほどまでに美しく、神々しい輝きを、お前たちは呪いと呼んだのか。価値を知らぬ愚者ほど、救いようのないものはないな」


 紅蓮様は視線を白雪やお父様、お母様を含めた高天家一族へ向けると、今度は射抜くような鋭い眼光を放った。


 その瞬間、別館全体を揺るがすほどの凄まじい霊力が紅蓮様から溢れ出した。


 紅蓮様、怒っていらっしゃるの? まさか、私のために……?


 誰かが自分のために怒ってくれる。そう思うだけで、胸が高鳴るのが分かった。


「この痣は、九頭竜の真の伴侶にのみ現れる『龍の愛印』。高天家の白蛇ごときが、龍の加護を呪いと見間違えるとはな。無知もここまで来れば罪だ。そして、龍の愛印は我々退魔士にとって、それ以上の意味を持つのだ」


 紅蓮様の言葉に、周囲から悲鳴に近いどよめきが上がる。


 お母様は顔を真っ青にしてその場にへたり込み、白雪は驚愕に目を見開いたまま、怒りに肩を震わせている。


 お父様はすがるように、泡を食った様子で紅蓮様に擦り寄ってきた。


「その女は、我が一族の汚点、醜女の双葉ですよ!? 何かの間違いでは!?」


 お父様は状況を呑み込めず、パニック状態で叫ぶ。


「お戯れもいい加減になさってくださいませ!」


 突然、白雪の怒声が響き渡った。


 会場内は水を打ったように静まり返り、全ての視線が彼女に注がれる。


「戯れとはどういう意味だ?」


 あからさまに不機嫌な色を双眸に浮かべ、紅蓮様が問うた。


「紅蓮様が選ぶのは、この私、高天家最高の美貌を持つ白雪のはず……! そんな醜い痣が龍の愛印だなんて、冗談にも程がありますわ!」


 刹那、周囲の空間に亀裂が入ったかのような、ピキッ! という乾いた音が響いた。


 それが紅蓮様の静かな怒りが形となった霊圧だと理解したのは、私だけのようだった。


 興奮した様子の白雪は、紅蓮様を責めるように声を張り上げ続ける。


「いい加減、ふざけるのはお止めになって、とっとと私を花嫁とお認めください! 紅蓮様も、私が可愛すぎてちょっとからかいたくなっただけなんですのよね? 私は怒っておりませんから、早くその穢れたものから離れて私の手をお取りください」


 白雪は息を荒らげながら、紅蓮様に手を差し伸べた。


「くだらん」


 紅蓮様が睨みつけた瞬間、白雪の伸ばした手が突然燃え上がった。


「きゃあ!? 熱い、熱い! 紅蓮様、なぜ、なぜこのような惨たらしい真似を!? 私は貴方の花嫁だというのに……!」 


 近くにいたお父様とお母様が慌てて駆け寄る。 お母様が近くにあった水差しを勢いよく浴びせかけ、ようやく焔は鎮火した。


 だが、ずぶ濡れで震えるその無様な姿は、かつて白雪から冷水を浴びせかけられていた私の姿と、皮肉にも重なって見えた。


 立場が逆転した瞬間だった。けれど、白雪が同じ目に遭わされても爽快感など微塵もない。ただ、胸が焼けるような不快感と、救いようのない哀れさを感じるだけだった。


 私は見ていられず、目を背けた。


 紅蓮様は痛がる白雪には目もくれず、冷徹な視線を高天家一族全員に向けた。その瞳には慈愛の欠片もなく、激しい怒りが焔のような霊気となって渦巻いている。


「この九頭竜紅蓮が無知蒙昧なる貴様らに教えてやる。お前たちが『醜い痣』と蔑んできたこれこそが、我々全ての退魔士から失われた始祖の力――『八岐大蛇』を統べる【王の証】なのだ!」


 その言葉に、お父様は目を見開いたまま茫然と立ち尽くした。


「王の証……? まさか、あの不吉な八頭の蛇が……」


 お父様は真っ白に燃え尽きたように項垂れると、その場に崩れ落ちた。


「かつて九頭竜家は退魔士の総帥ではなく、王たる高天家の補佐に過ぎなかった。その高天家が序列最下位にまで落ちぶれたのは、この証を持つ真の主を虐げ、その力を呪いと決めつけたからだ。……だが、それも今日で終わりだ」


 お父様は慌てて紅蓮様の足元に縋り付くと、必死な形相で哀願した。


「そ、そんな馬鹿な! あれは一族を滅ぼす呪いだと伝わっていて、それで私共は高天家を滅ぼさぬよう、穢れぬよう遠ざけてきたのです……!」


「それが間違いだと言っているのが理解できぬか」


 紅蓮様は縋り付くお父様を、ゴミを見るような目で見下し、吐き捨てた。


「紅蓮様、それでは契約はどうなるのですか!? 娘を嫁に出せば、高天家を上位序列に推挙してくださるというお話は!」 


 この期に及んでまだ一族の欲を優先する父の醜さに思わず吐き気をもよおす。


「契約?  ああ、これのことか? 『一族で最も価値ある娘を差し出せば高天家を上位序列に推挙する』だったか」


 紅蓮様は懐から一通の書面を取り出すと、それを指先から出た紅の炎で一瞬にして灰に変えてしまった。


 それと同時に、お父様の表情がたちまち絶望に歪み、床に舞い落ちた灰を必死になってかき集めようともがいた。


「私の野望が燃えてなくなる……! ちっくしょう、ようやくこのオレを見下して来た奴らを見返せると思ったのに……」


 お父様はその場に座り込むと、狂ったかのようにブツブツと何かを呟き始めた。その顔に生気は無く、ただ深い絶望と狂気に塗れていた。


「安心しろ。契約は果たされた。間違いなく高天家を上位序列に推挙してやるから心配する必要はない」


「そ、それは真にござりまするか⁉」


 紅蓮様の言葉に、一瞬で我に返ったお父様はキラキラと輝いた瞳で紅蓮様を見る。


「ああ、契約に関してオレは嘘はつかん」


「あ、ありがとうございます! この高天正道、この御恩に報いる為に生涯の忠誠を誓わせていただきます!」


 お父様はそう言って、嬉々としながら媚びへつらうのを隠そうともせず紅蓮様に土下座で謝意を伝えた。


「貴殿の忠誠は必要ない。頭を上げられよ、元高天家御当主殿」


「元当主……それはどういう意味ですか?」


「そのままの意味だ。この瞬間、貴様は高天家当主の地位を剥奪された。今より平民として生きるがいい」


「お、お待ちを! 納得のできるご説明をお願い致します!」


「説明もなにも言葉通りの意味だ。ああ、高天家上位序列の件なら心配せずとも別の形で進んでいる。双葉を虐待し、あまつさえ生贄にしようとした罪許し難し。高天家は本日をもって、十二家から除名。高天家の全資産、および退魔士としての地位と資格の剥奪、霊脈の管理権はすべて九頭竜家が接収する」


 その瞬間、場の空気が凍り付き絶望の色で埋め尽くされる。


 退魔士にとってそれは事実上の死刑宣告にも等しいことだった。


 お母様は小さな悲鳴を上げた後、白目をむいてその場に卒倒して動かなくなった。可哀想だけれども、今までの親らしからぬ仕打ちを思い出し、私は駆け寄る気も起きなかった。


「そ、そんな無体がまかり通る訳が……!」


 お父様は立ち上がると、必死な形相で紅蓮様を睨みつけながら叫んだ。


「オレを誰だと心得る? 九頭竜紅蓮ぞ」


「ヒッ……!」


 お父様は悲鳴を上げると、紅蓮様の迫力に圧倒されるようにその場に崩れ落ちてしまった。


「納得出来ぬなら力ずくで来るがいい。オレは逃げも隠れもせん。だが、九頭竜家に逆らう意味を今一度よく考えてからにするのだな」


 紅蓮様は床にへたり込むお父様に追い打ちをかけるように鋭い眼光で睨みつけた。


 たちまちお父様の顔が土気色を通り越して真っ白になる。


 九頭竜家への反逆――それは、高天家という一族が今この瞬間に滅亡することを意味していた。退魔士の世界は力が全て。没落した高天家には九頭竜家に逆らう力など残されているはずもなかった。


「……だが慈悲をくれてやる。お前たちには、食いつなぐ程度の財産と、この朽ち果てた邸だけは残してやる。その代わり、生涯二度と双葉の前にその汚らわしい姿を見せるな」


 約束を違えたり少しでも逆らう素振りを見せれば消し炭にしてやる。


 そんな殺気を乗せながら紅蓮様はお父様に言い放った。


 お父様はそれ以上何も言うことが出来ず、そのまま項垂れていた。


 しかし、そんな絶望的な空気の中、再び白雪の声が響き渡った。


「こんなの間違っている! あんたみたいな化け物が紅蓮様に愛される資格なんてあるわけがないわ! 返せ、この泥棒猫! それはわたしのものよ⁉」


 白雪は狂ったように叫ぶと、何処からか取り出した短刀を身構えた。


「殺してやる! わたしの幸せを奪い取ろうとする奴はみんな殺してやる!」


 嫉妬と憎悪の焔に包まれた白雪が奇声を張り上げながら短刀を身構え、私に襲い掛かって来る。


「愚かな」


 すかさず紅蓮様が指をパチンと鳴らした瞬間、白雪は不可視の圧力によって床に叩きつけられた。まるでそこだけ重力が何十倍にもなったかのように、白雪は今にも圧し潰されそうに床にへばりついていた。


「ぎゃあ⁉ 痛い、く、苦しい……お願い、助けて、双葉お姉様ああああああ!」


 白雪は白目を剥き、喉を鳴らしながら、なりふり構わず私に救いを求めるように手を伸ばして来た。


 私は今までの恨みつらみなどかなぐり捨てて、咄嗟に紅蓮様の腕にしがみついた。


「もうお止めください、紅蓮様……! ……もう、十分です。どうか、白雪を許してあげてください」


「この娘には恨みがあったのではないのか?」


「そのような些末、もうどうでもいいのです! お願いします。どうか白雪を助けて……」


 どんなに恨んでいようとも、やはり私は家族を見捨てることは出来ない。このまま白雪が死んでしまったら、きっと私は一生自分を許すことは出来ないだろう。


「分かった。双葉がそう言うならそうしよう」


 紅蓮様はフッと柔和な笑みを浮かべると、もう一度指を鳴らして術を解除した。


 霊圧が消えると、白雪はそのままうつ伏せの状態でぐったりとしていた。息は荒かったが、命に別状はなさそうだったので私はホッと安堵の息を漏らした。 


「再度、貴様らに申しつけておく。今宵、かつての高天家は歴史から消える。双葉を虐げ、その価値を理解しようともしなかった報いだ。今まで双葉に強いた惨めな人生を、今度は自分たちが一生味わい続けるがいい」


 阿鼻叫喚の地獄絵図の中、紅蓮様はその言葉の後、私を軽々とお姫様抱っこで抱え上げた。


「さあ、行こう。我が愛しき花嫁。君を蔑む者のいない、オレ達の城へ。もう、君を傷つける者はどこにもいない。これからは、オレが君を世界で最も幸福な女にしてみせよう」


「はい、紅蓮様」


 私の頬を、熱い一筋の涙が伝う。それが絶望や哀しみの涙ではないことを私は誰よりも深く理解していた。


 その時、私は気付かなかった。

 

 一族の者達が絶望に塗れている中、白雪だけは夜叉のごとき形相で私を睨みつけていたことを。


「いつか復讐してやる。醜女と、私を侮辱した九頭竜紅蓮、絶対に許さないんだから……!」


 白雪の瞳から理性の光が消え、底知れぬ漆黒の闇が宿る。その口から漏れ出たのは、もはや人の言葉ではなく、地を這う獣の唸り声に近い呪詛だった。

 高天家が守り、そして忌み嫌った毒蛇蛇が、彼女の怨念に呼応してその身を内側から闇に作り替えていく。

 それが、正気を失った美姫が人ならざるものへと堕ちた瞬間であったことを、幸福に包まれた二人はまだ知る由もなかった。

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