鬼の思惑
ほのかは仕込み剣の柄に触れつつ、「ちっ……」と唇を噛んでいた。
(刀じゃないから、本調子でやれない……)
そもそもここには黒斗の結界を何重にも張り巡らせていたのだ。それすら破って侵入してきた異形とどうしろというのか。
ほのかの苛立ちを知ってか知らずか、飛縁魔は急な援軍に戸惑った顔をした。
「我を迎えに来たのか?」
「左様。新たな同胞として、我らに迎え入れよう」
「まあ……嬉しい」
それを白々しいとほのかは心の底から思った。
そもそも変若水は今、黒斗が持っている。これを持って行かれたらおしまいだが、今ならば。ほのかは黒斗に告げる。
「……黒斗、あたしが時間を稼ぐ。他の五行の一族の援軍を呼んできて」
「……無茶言うな。お前は病み上がりだ。俺の結界を破ってきたような異形をたったひとりで相手をさせられるか」
「だからだよ。あたしは術式は強くない。でも、こいつが物理的にだったら、まだなんとか対処できる。あんたの結界が利かないってことは、それだけであんたを足止めになんか使えない」
黒斗はほのかをじっと見た。
(そもそも……花菱さんの輸入してきた変若水なんてもん、異形の手に渡ったらまず過ぎる。これ持ってる黒斗を逃がさないことには、絶対に取り返しがつかないことになる)
黒斗はほのかの手を引くと、彼女の唇をいきなり強く吸った。それにほのかは目を大きく見開いた……前は黒斗の雷に打たれたときよりもひどい痛みで唇が腫れ上がったというのに、どういうことか。
「……どうして」
「やっぱりか。おかしいと思っていた」
「……なにが」
「お前が俺になにか言いたそうにしていたのは目に見えていたからな。試しにずっと俺が使っていた匙で食事をさせていただけだ」
「……あ」
元々が体液交換により、五行相剋を突破できるとは聞いていたが。まさか看病されている間に少しずつ唾液を与えられているとは思っていなかった。
黒斗はほのかに言う。
「……援軍を連れて帰ってくる。死ぬなよ」
「……死なないよ。あんたこそ、さっさと行ってきなさい」
それだけ言うと、黒斗は踵を返すと、式神をばら撒いてそのまま走りはじめた。鬼は一瞬黒斗の方を見たが、すぐに視線を逸らした。
「さて。我が飛縁魔を連れ帰ろうとするのを、たったひとりで邪魔する気か?」
「たったひとりで、なにができる?」
すっかりと鬼にしなだれかかっている飛縁魔に、ほのかは苛立ちを覚える。そして鬼から感じている圧迫感に必死に耐えて、仕込み剣を握っていた。
「飛縁魔だけだったらともかく、鬼を屠るのはさすがにあたしもひとりじゃ無理。足止めで精一杯。まあ……あたしひとりじゃないけど」
そう言いながら、足を大きく踏み出した。
鬼は心底つまらなそうに、ほのかに手を差し出した。鬼の使う術式……神通力。それで鬼火を呼び出したと思ったら、躊躇いなくほのかを焼き放とうとするが……彼女は膜一枚に守られて、かろうじて焼き爛れることを免れた。
それに飛縁魔が目を丸く見開き、鬼が「ほう……」と言った。
「あの陰陽師の術式か」
「……あれはたしかに、我の洗脳も利かなかったが。でもこの娘にどうやって術式を……」
「あの口付けだけで、術式を目の前の陰陽師に刻んだか」
元々黒斗は自分ひとりでも異形と対峙できるが、それより最優先しているのはほのかの身の安全だ。彼女は術式を使えぬ上に、刀一本で戦っているのだから、彼女に術式で守りを与えるのは当然であった。
彼女の仕込み剣に付けられている術式、彼女に口移しで刻んだ術式、そして。
(あの男は……そんなにあたしと夫婦になりたかったか……)
ほぼ毎日毎日彼女に給餌して与え続けていた食料。それはわざわざ黒斗の使った箸や匙を使っていたが、それはなにも五行相剋を突破するだけのものではない。
術式を全く使えないほのかを守るための術式が、本当に細かく刻み込まれていたのだ。ひとつひとつは本当に給餌するときにほのかに悟らせないようにする程度の量しか刻まれていないが、塵も積もれば山となる。
先程の口付けが、今まで彼女の中に溜め込んでいた術式を起動させるための、起動術式であった。
(ほんっとうに……過保護なんだから……!)
馬鹿じゃないのかと思う。怪我なんて陰陽師になったら当たり前だというのに、それをわざわざ気付かれない程度に刻み込むのに。
ほのかは鬼の鬼火を、黒斗の術式を纏った剣で切り裂くと、せめてもと飛縁魔の首を落とそうと狙う。彼女を狙えば、自然と鬼が彼女を守る。
「いい度胸だ……人間風情が、このような場所で……!!」
「人の家の蔵に勝手に上がり込んだのはどこの誰よ!? しかも変若水狙いだなんて……そんなこと、させる訳にはいかないでしょう!?」
蔵にある棚が揺れ、その棚を鬼が投げつけてくる。それをほのかは屈んで滑り、寸でのところで避け続ける。
体が軽く、このままなら充分足止めができるだろう。そう思ったが。
鬼は「なるほど」と言った。
「たしかにこの娘……物理的には強い。あの陰陽師の力のおかげで守りも堅い。が、神通力には対処できんな」
鬼は手を握った。途端に地鳴りがしはじめた。
蔵の外がいきなり騒然とし、花菱邸を逃げ出す人々の足音が聞こえてくる。ほのかはそれにギョッとする。
「ちょっと……なにをしたの!?」
「なに、蔵の外を揺らしたまでよ。……あいにく、この周りには先程の陰陽師が大量に結界を張り巡らせたせいで、この屋敷の外にまで波及できんのが残念だがな」
「当たり前でしょう!? そんなことしたら!!」
「人間は脆い生き物だからな、屋敷が潰れれば、中身も死ぬ。豆腐よりも脆い」
「……っ!!」
鬼が使う神通力とはそういうものだ。
地震、雷、火……鬼は人が恐れているものを平気で弄ぶ。本来は陰陽師だったはずの彼らは、かつて陰陽師が使っていた術式を、神通力に昇華して、かつては人を守っていたはずの力を、命を弄ぶために使うのだから厄介極まりない。
それに飛縁魔はうっとりした顔で、鬼に擦り寄っていた。
「ああ……すごい、こんな力、大陸にいた同胞でも滅多にいなかった……」
「そりゃあな、麒麟の一族はこの手の力を生み出しやすいのだから」
「麒麟の一族……あんた、まさか瑞樹家の!?」
「みず……? 今はそう呼ばれているか」
鬼はさして興味ない様子だった。それにほのかはぞっとした。
異形が出現するようになったのは、一度陰陽寮が解体されるされないの話が持ち上がった頃である。既にそのときには五行の一族はそれぞれが力を持っていたが。それより前の時代にも、血縁統制で異形が生まれる可能性はある。
無理を押した結果に生まれた子は、異形になってしまう……それこそ撫子のように。
その前の時代から生まれた異形となったら、もう異形同士で血を掛け合わせ続けて、今の陰陽師たちでも手に負えるかどうかがわからない。
(瑞樹家……! 血縁関係なにひとつ表に出さないのは、勝手に婚姻制度無視して、勝手に異形生み出して捨ててただろ! 最低! 撫子様があんまりだ……!)
麒麟の一族は他の五行の一族と違い、婚姻関係を一切公表していなかった。それらを残りの四家がなにも言わなかったのは、ひとえに彼らの正確過ぎる予知能力を下手な横槍で失われては、いずれは自分たちの一族からも異形が現れるかもしれないという恐れからだったが。
肝心の麒麟の一族が持っている高精度の予知能力を維持するために、無理矢理おかしな真似をし、巫女になり得る子以外はろくな扱いしてなかっただろうことは想像できた。
それが結局は鬼の因子を生み出し、代を重ねて手に負えない鬼を生み出してしまった。それはあんまりにもあんまり過ぎる話だ。
ほのかの歯軋りを、鬼は素知らぬ顔をする。
「妙な娘だ。関係ない話に憤りを見せるとは」
「あ、当たり前でしょう!? 人の命を弄ぶのは、人間だろうが魑魅魍魎だろうが怨霊だろうが異形だろうが……皆等しくあたしの敵!」
「ほう? 麒麟の一族と対峙するつもりか?」
「……必要に迫られたら、します」
ほのかのきっぱりとした物言いに、鬼は手を広げた。途端に外でさんざん悲鳴を上げていた声は止まった。地鳴りも地響きも、もうなにもなかったかのように聞こえない。
「……あんた、なにをしたの」
「なに、陰陽師同士の内輪揉めに興味を持っただけだ。変若水はやる。いずれ取りに行くから首を洗って待っていろ」
「……待ちなさい、逃がす訳ないでしょう!?」
「お前は俺たちを逃がすしかないだろうよ」
そう言いながら、鬼は指を動かした。途端に大きな泡が浮かび上がり、その中に映り込んだのは、陰陽寮の前に車から飛び降りて話をしている黒斗の姿だった。
「黒斗! あんた、いったいなにを」
「先程見せただろうが。俺の神通力は、陰陽師の結界が利かぬ。そしてここにはあの陰陽師が貼っていった札がある。わかるな?」
「……呪詛返し!」
術は術で破られれば、術者に力が返っていく。この鬼の力を封じ込めるだけの強い力を無理矢理相手に返せば……黒斗がどうなるかわかったものじゃない。
術は物理で破らない限り、必ず相手に返る。
「俺たちを逃がすしかないだろう?」
「卑怯者!」
「なんとでも言え」
鬼にせせら笑われるのを、ほのかは歯噛みしながら睨み付けていた。




