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ベーカリー「カンパーニュ」の中に入り、レジの店員に頼んで店主を呼んでもらった。この町の様子や、セシルが立ち寄ったかどうか、色々と聞きたいことがあったからだ。
パン工房から出てきた恰幅の良い店主は、ニコニコと快く俺の質問に答えてくれた。
店主の話によると、三年前に公安の検察により、このルオトの港町は一変した。
時代を追いかける近代的な湾岸都市よりも、規律を守る平穏な田舎町を民衆は支持したのだ。施政が変わると同時に港を賑わす巨大な船舶は無くなった。その代わりに延縄業を営む漁船の群れが、海を賑わしているらしい。
貨物船のコンテナ置き場も、今は地元一の卸売市場として、毎朝賑わっていると言う。
「ここらも三年前と比べたら…随分変わったねえ~。前は酒場や娼館がいくつもあってさ、飲んだくれの溜まり場だったけれど、すっかり様変わりだ。公安のお蔭だって言ってるけどさ、み~んな知ってるのさ。あの魔王の気まぐれの所為だって。町を荒らす掃き溜めのような奴らがとうとう、魔王アスタロトを怒らしちまったって。おれ達にとっちゃ、天からの思し召しみたいなものだけどな。ははは」
豪快に笑う店主に、昔の闇は少しも見当たらない。
アーシュは…
俺の知らないところで、この町に戻ってきたのだろうか。そして、徹底的に破壊し、すべてを浄化したのかもしれない。彼ならやりかねない
魔王アーシュは容赦しない。自分が決めた善悪の観念で動く者だ。
だけど…もしかしたら…この町がアーシュを呼んだのかもしれない。多くの犠牲を払ってでも、選ばなければならない未来があるのだと…。
セシルの事も聞いては見たが、結局は何もわからなかった。
がっかりしている俺に、神也は暢気にパンを食べながら「レイ、この店のクロワッサン、とても美味しいんだ。一口食べてみないか?」と、言う。
「…別にいいよ」
「いいから、食べろ」と、神也は無理矢理俺の口にパンを突っ込む。仕方がなく口にしてみた。
…確かに美味い。焼きたての香ばしさとサクサクしたパイ生地とバターの芳醇な食感…思わず「美味いな」と呟くと、真顔で俺を見つめていた神也の顔が綻んだ。
「なあ、本当に美味しいパンだろう。レイ、まずはお腹を一杯に満たしてやるといい。そしたら良い考えも浮かぶものだ」
どこから来るのかわからない神也の自信が、なんだか俺を勇気づけた。
「…そうだな」
神也から受け取ったクロワッサンを口いっぱいにほおばる。ふっと心が軽くなる。
…あんな顔をしていても、神也は神也なりに精一杯俺を心配しているのだろう。
テーブルの席に座り、コーヒー付きの朝食を頼んだ。
神也も満足そうにホットミルクを飲み干している。
「なあ、レイ。一度アーシュに聞いてみたらどうだ?三年前、アーシュもここに居たのなら、何か知っているはずだ」と、神也。
「それは考えたけど…なんだか悔しい気がしてさ」
「レイにもプライドがあるんだな」
「まあ…一応」
「アーシュは自分を必要としてくれる者を求めている。…私にはそんな様な気がする。あれは人の役に立ちたくて仕方がない人種なのだ」
「人種って…」
「私はアーシュは孤独だと思う。だから人が好きでたまらない。好きな人の役に立ちたいと思う事は尊い心だ。それを理解している限り、私達はいつまでもアーシュを必要としていいのだ」
「…」
アーシュとそっくりの漆黒の澄んだ瞳に、デカい星がひとつ輝いている。山野神也はアーシュが選んだ本物の王なのだ。
食事を終えた俺は店の中にある電話ボックスから、アーシュに連絡してみる。勿論アーシュの部屋に直通するダイヤルで、だ。
案の定すぐには出るはずもなく、十二回目のコールでやっとアーシュは寝ぼけた声を出す。
『…なんだ、レイか。早いな。…で、なんか用か?』
「全然早くない。もう八時だ。授業は無くても一応学長なんだから、シャンとしろよ」
『…うるせ~、昨夜は遅かったんだから…つうか、セシルは見つかったか?』
「いいや、ルオトの町には居なかったんだ」
『ふ~ん』
「あんた、知ってたんじゃないのか?」
『知るかよ。俺は万能の神じゃねえし』
「(似たようなもんじゃねえか)…じゃあ、セシルはどこに行ったんだよ」
『それ考えるのはおまえの愛の力だろ?』
「…わかんないから、聞いているんじゃないか。…ねえ、セシルの故郷…お母さんとの思い出…育った…海の近く…田舎町…」
目を瞑ってあの時のセシルの思い出を辿ってみた。あの頃のセシルは幸せだったんだ…
「入り江…ここから近い…」
『ああ、ルオトの沿岸部を沿った入り江からの川を上っていくと、パテュラ島という中州がある。その島のサンローという田舎町がセシルの故郷だ。陸からの道は途中に険しい峰があるから、港から船で行く方が早い』
「サンローだね、わかった。ありがとう、アーシュ」
『セシルが本当にそこに居るのかは保証しないぜ』
「うん、わかってるよ」
『じゃあ、行って来い。あ、そこに神也居るか?居るなら変わってくれ』
こんな時でもアーシュの興味が神也であることに少し嫉妬しながら、俺はまだクロワッサンをぱくついている神也を、手招きして受話器を渡した。
「アーシュがおまえにってさ」
「わかった」
神也と電話ボックスを交代した俺は、店員に定期船の船着き場を聞いた。店員は親切にサンローへの行き方と、その近くの港までの定期船の時間を教えてくれた。
サンローへの直接の定期船は無く、キュサックという港町まで定期船で行き、そこからサンローへ向かう渡し船で行くらしい。
キュサックまでの定期船は一日三回で、次の便は正午ちょうどになる。
到着までに二時間程かかるとしても、今日中にはセシルを見つけたい。
「レイ、大変だ」
電話ボックスから駆けだした神也は頬を紅潮させて俺の腕を取った。
「スバルが今日の午後に学園に帰ってくるんだ」
「そりゃ、良かったな」
「うん。だから私は今すぐに学園に戻らなきゃならない」
「…え?」
「一刻も早くスバルに会いたいのだ」
「わかるけど…まだセシルを見つけてないんだぜ?」
「それはレイの仕事だ。私の仕事はすでに終わっている」
「は?」
「レイの話を沢山聞いてあげたじゃないか」
「…はあ」
「だから私は今すぐに帰らなきゃならない。スバルを待たせたくないのだ。スバルが帰って来た時に、私が学園に居ないと知ったら、きっとスバルはがっかりするだろう。こんなに長い間、離れて過ごしたのは初めてなのだ。きっと私と同じようにスバルも寂しかったに違いないのだ」
「…わかったよ」
スバル先生への一途な神也の想いが微笑ましいのと同時に、羨ましくもなった。
どうすれば俺とセシルも彼らのように、互いに信じあい、想いを通わせることができるのだろう。
「そうだ。ここのパンを買っていこう。きっとスバルも喜ぶ」
「…」
店のクロワッサンをまんまと独り占めした神也は、満足そうに焼きたてのクロワッサンを入れた紙袋を両手にぶら下げ、駅に向って走り出すのだ。
方向音痴の神也の為に、駅まで送ることにした俺は、間違いのないようにサマシティまでの切符を買い、神也に渡した。
「本当にひとりで大丈夫か?」
「大丈夫だ。特急の汽車に乗ってさえいれば、夕方には着くのだから、間違うはずはない」
「いまいち不安なんだがな…」
「私の事より、レイ、必ずセシルを見つけ出して一緒に戻ってくるんだぞ。多分セシルはレイが来るのを待っている」
「それは神也のお告げみたいなものかい?」
「いや、私の願いだ。レイの親友として、レイの幸せを願っているのだ」
「…ありがとう」
「それから…」
神也は左手に持った紙袋を俺に渡した。
「美味しいものを食べると、心も腹も豊かになるものだ。セシルに食べさせてくれ」
「うん…きっと、セシルも喜ぶよ」
「私もそう思う」
神也の親切が、バカみたいに素直に心に響く。
彼を見送った後、少し涙ぐんだ。
きっと、汽車の窓から手を振る神也の姿がなんだか眩しすぎて、感傷的になったのだろう。
キュサックまでの船旅は二時間ほどだったけれど、蒸気船のような大きな船に乗るにはクナーアンでもこちらの星でも初めての経験だったから、高揚した。時々になる汽笛の音が辺りに響くと、こちらの心臓も騒ぎ出す。
多分…魔法を使って飛んでいけば、もっと早くセシルを見つけ出せるのかもしれない。けれど、俺もセシルも学園以外の世の中をもっと自覚する必要が、きっとあるのだろう。
未知なるものへの恐怖やそれに対峙する勇気…セシルと一緒に乗り越えられたら…と、願う。
キャサックはルオトから比べたら、小さな港町だったけれど、人々の顔は明るかった。港から少し離れた橋桁へ向かい、サンロー行きの渡し船に乗った。
サンローの島はキャサックの港の真向かいに位置し、十分程度で着いた。
小さな島だった。
土手の周りに民家が数件ある。農作業をする住民に教会の場所を聞き、そこへ向かった。
きっとセシルはお母さんの眠る墓地へ向かったはずだ。
そう思うとじっとしてはいられなかった。丘の上の十字架に向って駆け足で急いだ。
緩やかな丘を登った先に小さな白亜の教会があった。墓所はその裏手にあり、共同墓地はそこから離れた林の奥だと、牧師から案内された。
林を抜けると石段があり、それを登った先に小さな墓地がある。その向こうには岬が見えた。
そして…
墓地の前に倒れ込んだ人影が見えた。
間違いない……天の王の制服を身に着けたセシルが、墓地の石に凭れる様に倒れている。
まさか…まさか…死んでいる…なんてことは…。
俺は悲痛な声でセシルの名前を何度も叫び、駆け寄った。