16
16、
セシルの眠るベッドの端に座ったアーシュは、セシルの頬を優しく撫でた。
眠っていたセシルがゆっくりと目を覚ます。
「気分はどうだい?セシル」
アーシュの声はいつになく優しい。
「…ここは…どこ?」
「安全な所だよ。もうセシルを苛める者はいないから、安心しなさい」
「…本当に?」
「うん。で、だ。セシルにちょっと聞きたいことがあるんだ」
「…」
「そんなに警戒しなくてもいい。俺はこの世の中で一番すげえ魔術師なんだぜ。…いや、マジホント。で、セシルを助けるためにここに居る」
「…魔術…師って…魔法で人を殺したりするって…お母さんに聞いたことある…」
上半身を起こしたセシルは、目の前のアーシュから逃げるような仕草をした。
「まあ、時と場合にはよるなあ。確かにアスタロト・レヴィ・クレメントは皆に怖れられる魔術師だけれど、セシルみたいな可愛い良い子には味方になるのさ」
「…僕、良い子じゃない…」
「セシルは良い子だ。ちゃんとお母さんの言いつけを守って、人を罵ったり、盗んだり,いじわるしたり、さ…ひとつも悪い事をしてないじゃないか」
「お、母さんの事…知ってるの?」
「知らなくてもわかるのが、すげえ魔法使いの能力なのさ。言っただろ?俺はこの星一番の大魔術師だって」
「お…お母さん…と約束したの。お母さんが…死んじゃう時、お母さん、絶対悪い子にならないでって…僕にゆったから…。でも僕、悪い子だ。だってみんな僕を打ったり、痛いことを一杯する…。僕が悪い子だって、みんな怒るんだ…」
声も立てずにセシルは泣いていた。零れ落ちる涙が薄い毛布を濡らした。
アーシュはセシルの涙を迷いもせずに拭き、顔を上げさせた。
「セシル、さあ、俺を見てごらん」
「…」
「セシルは良い子だ。この俺が言うんだから間違いないのさ。いいかい、もう苦しい事は忘れていいんだ。セシルはこれから光の中で暮らすんだよ」
「ひかり…」
「そうだよ。俺はセシルが望めば君の親代わりになれる。そして、セシルの事をもっと知りたいと思っているんだ。ねえ、今まで過ごしてきた君の幸せな日々を、少しでもいいからさ、俺に聞かせてくれないかい?」
「僕の…」
「そうだよ。君の話を聞きたいんだ」
俺はアーシュとセシルから距離を置いたソファでふたりの様子を見ていた。アーシュの邪魔だけはしないようにと、出来るだけ客観的にセシルの話を聞こうと努力した。
アーシュの導きに、セシルも最初は戸惑ってはいたけれど、次第にリラックスした顔つきになり、微笑みさえも時折垣間見せた。
幼かったセシルは海の見える小さな町で、母親と二人で暮らしていた。
働き者の母親は、評判の仕立て屋で繕い物の仕事を一日中こなしていた。
父親とは会ったことも無かったけれど、母はいつもセシルに「お父さんはとても立派な人なのよ」と、話し聞かせていた。
貧しかったけれど、母と子の暮らしは幸せだった。
だが、その幸せな日々はあっけなく終わりを告げる。
セシルが八つになるかならないかの頃の、寒い朝だった。
突然母親が自分の手首を切り、自殺してしまったのだ。原因はわからない。
ただある時から、母は仕事をしなくなり、食事もセシルの世話もせずに、ただ泣いてばかりいた。あまりにも悲しい泣き声で、セシルがどんなに母を慰めても、その涙が止まる事はなかった。
そして、セシルの母親は、セシルをひとり残して死んでしまったのだ。
自殺した者を、弔う者はいない。
誰一人の祈りもなく、母親の身体はひっそりと共同墓地へと埋められた。
そして、身寄りのないセシルは孤児院へ送られることになった。その途中、人買いに浚われたセシルは娼館へ売られてしまったのだ。
俺は愕然としていた。セシルと自分の境遇がこんなに似通っていることに…。
父親が死んだこと、母親が自殺したこと…ひとりになってしまったこと…
偶然だろうか、それとも、こんなにも似てるから、俺にだけセシルの声が聞こえたのだろうか…
それでもセシルに比べれば、俺は随分と幸せだ。アーシュとイールさまのおかげで、俺は今も前を向いて生きていられる。
いつしかセシルは言葉を切らし、嗚咽していた。
アーシュは再び、セシルの涙を優しく拭いた。
「さあ、セシル、泣くのはこれで最後になるよ。今までの君の悲しみは君の胸の中で眠りにつくんだ。そして、新しい未来を見つけて生きる君には、自由を謳歌する権利がある」
「…」
「レイ、ここへ来なさい」
「うん…」
俺はアーシュの言う通りに、立ち上がりセシルの居るベッドへ近寄った。
「セシル、彼が君の最初の友達だ」
「友…達?」
「レイ・ブラッドリーって言うんだ。よろしくね、セシル」
俺はベッドの脇にしゃがみ込み、セシルを怖がらせない様に、できるだけ優しい声で話しかけた。手を差し出し握手を求めると、セシルは恐る恐る俺の手を力なく握った。
「大丈夫だよ、セシル。僕は君の味方だよ」
「…味方…レイ…」
「セシルはこれからレイと一緒に学校で暮らすことになる。俺はその『天の王』学園の一番偉い学長様で、レイとセシルの親代わりになるんだ。学園には沢山の仲間がいる。みんなと仲良く楽しく…まあ、そこらへんは適当でいいけど…。とにかく、学園で生活しながら、沢山勉強して、色んなことを経験するといい」
「…はい」
「わからないことはなんでもレイに聞きなさい。レイはセシルが大好きなんだから。なあ、レイ」
「会って間もないのに、誤解するようなこと…」
「…ホントに?僕の事、好き?」
「…す、好きだよ。何でも俺に頼っていいから…セシルの親友になってやるよ」
「…あ…りがとう、レイ」
零した涙の痕が切なかった。俺に微笑み返す柔らかな表情がたまらなかった。
すでにセシルの暗い過去は、アーシュの魔力で霧に隠れてしまっているらしく、セシルは先程までの怯えた顔つきとは確実に違って見えた。
セシルは今、生まれ変わったのだ。
でもアーシュはセシルの記憶を消したわけではない。
いつか彼は全ての記憶を取り戻す日が来るだろう。その時は、今度は俺がセシルの悲しみを支えてやりたい。
俺は…セシルを守れる強い男になろう。
「俺は…あの時からセシルに恋をしていたのかもしれない…」
列車の鳴らす汽笛の音が、耳元に鳴り響いた。
急カーブに車輪とレールが鋭い音を立てて軋む。同時に俺の身体も右に揺れた。
窓の外は随分前から暗くて何も見えなかったし、いつの間にか列車内の灯りも赤々と揺れていた。
俺は目の前に座る神也に目を向けた。
俺の話に聞き入っているのか、神也は微動もせずに俯いたまま…
俯いたまま…眠って…いる?
安らかな寝息さえ立てて…
……
はあ?
これだけ俺に話をさせておいて、居眠りってどういう事?
大体おまえが聞くって言ったから、一生懸命思い出しながら話してやったんじゃねえかよ。
俺はすっかり頭にきて、神也の身体を乱暴に揺さぶった。
「おいっ!神也っ!起きろよ。馬鹿野郎!何寝てるんだよ」
「…ああ…話は終わったのか?うん…あんまり眠かったからつい眠ってしまった」
「…」
もっともな理由で、こちらも力が抜ける。
「どうだ?話し終えて、少しはすっきりしたか?」
神也は全く悪びれる様子もなく、力一杯に伸びをしながら俺に聞く。
「…ああ、聞いてると思った奴が寝てても、一応はな」
「それは良かった。それで、私は思ったのだが…」
「今度は何だよ」
「セシルは本当にレイと始めた出会ったという場所に向かったのだろうか…」
「どういう意味だ?」
「もし私がセシルだったら、すべてを思い出した時に、嫌な思い出しか残らない所にわざわざ行こうとは思わない、と、思ったのだ」
「…」
「私は今でも山の神として過ごした十二年間を良い思い出として心に留めている。だが…棺に閉じ込められ、土に埋められた恐怖だけは…どうしても拭えない。…あの場所に戻りたいとは、今はまだ思えないのだ」
「…」
神也の言い分には十分な道理があった。
セシルと俺が出会った場所が俺にとっては特別であっても、セシルには思い出したくもない嫌な所…そんな街にセシルの足が向かうとは考えにくい…。
ああ、なんて俺は手前勝手なんだろう。
マジで落ち込む…。
足も十分に伸ばせない狭い寝台に揺れながら、俺は眠れない夜を過ごした。
港町ルオトに列車が着いたのは、まだ朝日も昇りきっていない明け方だった。
充分な睡眠を貪った神也は、すっきりとした顔で「さあ、セシルを探そう」と、張り切っている。だが、俺にはこの町にセシルの気配は感じられないし、そもそもセシルが居ると言う理由が見当たらない。
それでも一応あの酒場を目指して俺は歩き出した。
街の風景はあの頃とは一変していた。
建物も石畳の小道さえも、目立った汚れも見あたらず,潮風を含んだ空気が、静かな朝の風景を包んでいた。
あの頃の荒んだ空気は、今、この場所には感じることはない。
記憶を辿って、セシルと巡り会った酒場の場所へと辿りついた。しかし酒場はすでに取り壊され、シンプルな店構えをしたベーカリーに姿を変えていた。
朝早いベーカリーの店内はすでに何人かの買い物客の姿が見えた。
「レイ、このパン屋、カフェもあるみたいだ。お腹が空いたから朝食を取ってもいいか?」
俺の答えを待つまでもなく、神也は扉を開けて、店内へと歩き出していた。
俺は慌てて神也の後を追った。
店の中は馨しいパンの香りが漂い、奥の方では朝食を楽しむ客の姿が見えた。
三年前の歪んだ面影などは微塵も感じられない。
それは俺にとって、全く不思議な感覚だった。
良くも悪くも、人も町もすべては…時間と共に変わってしまうものなのだ…
一応店主にセシルの写真を見せ、尋ねてはみたけれど、案の定セシルがここに来た形跡は無かった。
俺はすっかり立ち往生。
一体セシルはどこに行ってしまったのだろうか…




