スピンオフ : アルス
グランセル大陸の東端にあるカナン村。そこは、世界で最も朝焼けが美しいと言われる場所だった。
「アルス、見て! 今日もすごく綺麗よ」
まだ夜の帳が降り切っていない早朝。少女アリシアの弾むような声が、冷たく澄んだ空気に溶けていく。
当時、まだ聖女の位を授かる前のアリシアは、村の誰よりも純粋な笑顔を見せていた。
「ああ……。魔王を倒せば、毎日こうやって二人で朝焼けを見られるかな」
「ええ、きっと。あなたが世界を救って、私があなたを癒やすの。約束よ?」
アルスは、彼女の小さな手を握り返した。その掌は温かく、守るべき世界の象徴そのものだった。
当時のアルスにとって、勇者の剣は「奪うための道具」ではなく、「守るための盾」だった。彼の心には、一片の闇も、疑念も、復讐の火種さえも存在していなかったのだ。
◇◆◇
魔王討伐の旅が始まって数年。パーティの焚き火を囲む時間は、アルスにとって何よりも替えがたい安らぎだった。
「おいアルス! 剣筋が甘いぞ! もっと腰を入れろ!」
ガイルが、快活な笑い声を上げながらアルスの肩を叩く。当時の彼は、金や権力に固執する男ではなかった(少なくとも、そう見えた)。
「俺がお前の盾になってやる。だからお前は、前だけを見て剣を振れ!」
その言葉に、アルスはどれほど救われただろうか。背中を預けられる友がいるということが、どれほど戦場での恐怖を打ち消してくれたか。
「……もう、ガイル。アルスをあんまりいじめないで。彼は魔法の練習も控えているんだから」
セーラが、呆れたように眼鏡を直しながら口を挟む。
「アルス、この数式を見て。これが新しい結界魔法の構成よ。あなたなら、もっと効率よく魔力を流せるはず」
彼女の冷徹な知性は、当時は「仲間を死なせないための慈愛」として機能していた。彼女の解説を聞きながら、アルスは魔法の奥深さと、それを平和のために使う喜びを学んでいた。
「ありがとう、みんな。俺、最高の仲間に恵まれたよ」
アルスが心からそう告げると、セーラは少し頬を赤らめて視線を逸らし、ガイルは豪快に笑い、アリシアはそっとアルスの腕を抱きしめた。そこには、間違いなく「本物の光」があったのだ。
◇◆◇
ある日、アルスは魔物に襲われた小さな村を救った。村人たちは涙を流して彼の手を握り、「救世主様」と崇めた。
「アルス様、ありがとうございます。リリィは、大きくなったら勇者様のお嫁さんになるんだから!」
まだ幼い少女リリィが、手作りの花の冠をアルスの頭に乗せた。アルスはその花冠を大切そうに受け取り、膝をついて少女と同じ目線になった。
「リリィ、ありがとう。お兄ちゃんが、リリィたちが大人になってもずっと平和でいられるように、頑張って魔王を倒してくるよ」
その時、アルスの胸にあったのは「自己犠牲」の精神だった。自分の命を賭してでも、この名もなき村の、名もなき少女の笑顔を守りたい。
それが勇者の義務であり、選ばれた者の誉れであると信じて疑わなかった。だが、パーティの最後尾で、アリシアがふと漏らした言葉を、アルスは聞き逃していた。
「……こんなボロボロの村を救っても、お礼は花の冠だけ? 勇者って、案外割に合わないわね」
その言葉に含まれた毒に、当時のアルスは気づけなかった。
彼は、アリシアも自分と同じ理想を見ていると盲信していた。彼女が聖女として人々に祈りを捧げる姿は、あまりにも神々しく、その心に濁りがあるなどとは微塵も思わなかったのだ。
◇◆◇
魔王城の決戦前夜。アルスはアリシアと二人、静かな月光の下で語り合った。
「明日、すべてが終わるわね。アルス、怖い?」
「……少しだけね。でも、みんながいる。君が後ろにいてくれる。だから、俺は負けないよ」
アリシアはアルスの胸に顔を埋め、囁いた。
「魔王を倒したら、王様が私たちを一番高い位につけてくれるって。広いお屋敷で、美味しい食べ物をたくさん食べて、素敵なドレスを着て……。ねえ、楽しみね、アルス」
「ああ。君が喜ぶなら、俺は何だってするよ」
アルスは、彼女が望んでいるのは「二人で過ごす穏やかな時間」だと思い込んでいた。
彼女が望んでいたのが「アルスという英雄」がもたらす「莫大な権益」そのものであったことに、彼は裏切りの宴の瞬間まで気づくことはなかった。
朝焼けが、魔王城の黒いシルエットを照らし出す。アルスは聖剣を抜き、仲間たちに力強く頷いた。
「行こう。みんなで、この世界に新しい朝を連れてくるんだ!」
その叫びに応える仲間の声は、力強く、信頼に満ちていた。それがすべて、精巧に作られた偽物であったとしても。
アルスが聖剣を振るうたびに放たれた光は、本物だった。彼が仲間を信じ、世界を愛し、人々を救いたいと願ったその純粋な祈りは、嘘ではなかった。
だからこそ。
後に奈落へ堕ちた彼が手に入れた「闇」は、かつての「光」が眩ければ眩いほどに、深く、濃く、救いようのないものとなってしまったのである。
今、魔王城の玉座で目を閉じるアルスの瞼の裏には、時折、あの日のカナン村の朝焼けが浮かぶ。だが、その景色はもはや彼を癒やすことはない。
それは、彼が二度と取り戻せない、そして自らの手で徹底的に粉砕した、最も忌まわしくも美しい「呪い」の記憶なのだから。




