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聖樹の国の禁呪使い  作者: 篠崎芳
聖樹の国の禁呪使い 第一部
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第95話「未勝利」


 シャナトリスさんが俺の左の眼窩を覗き込む。


「残念じゃが、こればかりは治癒術式ではどうしようもないのぅ」


 治癒術式といえども失った眼球を再生することはさすがに不可能らしい。

 まだ治癒術式についてはわかっていないことも多いのだという。

 必ずしも万能とはいえない術式なのだと、教官も授業で言っていた。


 ベシュガムを倒した後、駆け寄ってきたマキナさんたちがまず最初にしたことは、俺の状態を確かめ、治癒術式を施すことだった。

 正直なところ消耗が激しすぎて、休息を必要としていたのは事実だった。

 なので、しばらく体力の回復を待ちつつ、黙って治癒術式を受けることにした。


「おぬしが望むならば義眼を用意することもできるが、その際は一度ルーヴェルアルガンまで足を運んでもらわねばならんな。それと――」


 褐色肌の整った小顔が、眼前に出現。

 シャナトリスさんが今度は俺の右目を検めはじめる。


「第三禁呪、といったか? しばらく使用は控えた方がよいな。乱発すれば失明もありうる。ワシも眼に固有術式を代々宿す一族の人間……過度な使用で視力を失った者も、知っておる」

「……極力、控えます」


 あきれ顔で立ち上がると、シャナトリスさんが腰に手を当て見下ろしてきた。


「まったく、もしベシュガム・アングレン以上の敵がいれば迷わず使うつもりだとでも言わんばかりの顔じゃな。おぬしの自己犠牲精神だが、少々異常じゃぞ? あれか? そんなにもマキナに心酔しておるのか?」


 マキナさんは今、俺の頭を膝にのせて左目に治癒術式を施してくれていた。

 顔を上向きにするとそこにはマキナさんの小顔がある。

 治癒術式のおかげだろう、左の眼窩の痛みは和らぎつつあった。

 傷ついた他の箇所は治癒術式を使える教官二人が治癒してくれている。

 また、やや遠い場所ではヨゼフ教官が治癒術式を受けていた。

 ヨゼフ教官が命を落としていなかったのは嬉しい報だった。

 それから、ミアさんは包帯などを確保すべく聖遺跡会館の医療室へ向かった。


「しかし凄まじいものじゃな、禁呪というものは」


 シャナトリスさんがベシュガムの死体を眺めやる。


「あなたが第三禁呪の呪文書を渡してくれたおかげで、あの男に勝てたんだと思います。助かりました」


 首を振るシャナトリスさん。


「何を言っておる。おぬしの勝利は、おぬしの決死の覚悟によってもたらされたものじゃ。単に第三禁呪を会得しただけで勝てなかったであろうことは、この場にいる誰もがわかっておる。とはいえ――」


 シャナトリスさんは地面に膝を突いて屈むと、不意に俺の側頭部の髪を掬った。

 左右色の違う瞳が俺を見つめてくる。


「己の眼球を自ら抉り出すなど……無茶を、しおったな」

「はは……でも、みんなが死ぬよりは全然マシですから。俺の目の一つくらい、なんてことはありませんよ」


 まあ、抉り取る時はさすがに少し怖かったけど。 


「ふむ。見上げた忠誠心、とでも言うべきなのかのぅ。ただまあ、マキナが惚れ込むのも……わからんではないな。ワシもおぬしの戦いっぷりには正直、胸が高鳴った」


 シャナトリスさんが何やら熱っぽい視線になっていた。


「禁呪の力を自在に操る男、か……実に、興味深い」


 俺の頬に細い指を這わせるシャナトリスさん。


「どうじゃ? 本気でワシのものになってみるつもりはないか? ワシが叶えられる望みであれば、どんな願いであっても叶えられるよう、尽力するが……どうじゃ?」

「……勧誘、ですか? まあ、シャナトリスさんが研究者として禁呪の力に興味があるのは、わからないでもないですけど」


 四つん這いになったシャナトリスさんが、妖しげな笑みを浮かべて顔を近づけてくる。


「それもあるがな……おぬしの戦神がごとき先ほどの戦いっぷりに、一人の女として痺れたというのもある。男としても、魅力的じゃ」


 と、やけに芝居がかった咳ばらいがシャナトリスさんの言葉を遮る。

 見ると、マキナさんがじとりとした視線を送ってきていた。


「少し悪ふざけがすぎるわよ、シャナ」

「ふざけてなどおらんぞ? ワシは本気じゃ。ただ、まあ――」


 にやつきながらシャナトリスさんが肩を竦める。


「そう心配せんでも、クロヒコがおぬしの元を離れるとは到底思えんな。この男、相当おぬしにイカれておる。出会ってどれほどの時間が経っているのかは知らんが……上手くやったのぅ、マキナ」

「それは褒めてるのかしら?」

「いや、嫉妬が半分」


 楚々として微笑むマキナさん。


「正直でけっこう」


 ちなみにシャナトリスさんは治癒術式が苦手分野らしく、治癒には参加していない。

 二人の会話が一段落したのを見計らい、俺は顎を上げた。


「あの、マキナさん」

「ん?」


 マキナさんが顔を下げ、垂れたかき上げながら微笑みかけてくる。


「何?」


 宝石のような深紅の瞳と目が合い、思わずどきりとしてしまう。

 怪我をしているせいだろうか。

 なんだかいつもに増して、妙に優しい感じがする。


「……身体の方、大丈夫ですか?」


 マキナさんが呆れのため息をついた。

 彼女の吐いた息が俺の顔を撫でる。


「本当に、呆れた人」

「え?」

「人の心配をしている場合? 自分の方が、よっぽど心配されてしかるべき状態だというのに」

「俺の方は大丈夫ですよ。……で、大丈夫なんですか?」

「大丈夫よっ」


 もうっ、とでも言いたげに口を尖らせるマキナさん。


「本当に?」

「ええ、少し疲れてはいるけれどね」


 先ほどからマキナさんの顔色が優れないのを、俺は見逃していなかった。

 彼女は固有術式『ミストルティン』を四度も放っている。

 シャナトリスさんにしてもそう。

 俺の眼のことを慮ってくれた彼女だが、当人の左の目元にも薄っすらと血の流れた跡が残っていた。

 二人とも固有術式の連発によって身体に大きな負荷を受けたのは、明白だった。

 そして治癒術式は、かなりの疲労を伴うと聞く。


「治癒術式、きついんじゃないですか?」

「きつくても、やらせて」


 微笑みは、したものの。

 引き下がるつもりはないという強い意思が、その表情と声に垣間見えた。


「これくらいは、させてちょうだい」


 マキナさんが真顔に戻る。


「それにしても――」


 治癒術式を続けながら彼女は、ベシュガムを見据えた。


「まさか本当に、あの四凶災に勝ってしまうなんてね……」

「マキナさんたちが援護してくれたおかげですよ」


 実際、ベシュガムの体内で第三禁呪を連続使用した時、『ミストルティン』と『リィンプエルグ』による足止めがなければ危なかっただろう。


「……すまなかったわね、クロヒコ」


 ぽつり、とマキナさんが零した。


「何がです?」

「左目のこと」


 うん?


「どうしてマキナさんが謝るんです?」

「この件にあなたを巻き込んだのは、元を辿れば私だもの。償いはするつもり。その……一生、かかってでも」

「そんなの気にしないでくださいって。俺はマキナさんやミアさんが無事なら、それでいいんです。それにほら、こうして右目は残ってるわけですし。ね?」

「……あなた、変わったわね」


 俺は苦笑してみせた。


「出会った頃よりは、ちょっとは成長してますかね?」

「ええ」


 冗談めかして言ったのだが、思いのほか、その返答には真摯な響きが篭っていた。


「していると思うわ」


 俺の左目があった場所へマキナさんが、慈しむように手をかざした。


「本当に、見違えるほど」


 思わず照れ臭くなり、俺は視線を逸らした。


「ど、どうも……」


 真正面からそう言われると、なんだか照れてしまう。

 面映ゆい気持ちになっている俺の頭を、マキナさんがそっと撫でた。


「あなたを失わずに済んで、よかった」


 それはどこか独白めいた調子だった。


「ようやく見つけた、私の――」


 マキナさんが、はっとする。


「あ……ええっと、その――」

「なんだか顔が赤いですけど、大丈夫ですか?」

「い、痛みの方はどう?」

「へ?」


 取り繕うような顔で、マキナさんが聞いてきた。


「ま、まだ痛む?」

「……大分、引いてきたと思いますけど」


 万全とまではいかないが、体力も少し回復してきた。

 変化したままの左手を見やる。

 この回復力に加え、ベシュガムの歯で削られた皮膚や失った左目などの痛みが緩和されているのも、おそらくはこの左腕――第八禁呪のおかげだろう。

 よって、まだこの禁呪を解くわけにはいかない。

 …………。

 何より今、この禁呪を解いてしまうと――


「クロヒコ様〜!」


 声のした方へ顔を向ける。

 救急箱のようなものを手にこちらへ駆け寄ってくるミアさんの姿が見えた。

 そしてミアさんは俺の傍らに膝をつくと、急いで応急手当の準備を始めた。

 手慣れた感じだった。

 ミアさん、こういうスキルも習得しているらしい。


 それから俺はミアさんによって応急手当てを受けた。

 俺の左目は今、包帯で隠れている。

 傷を受けた直後に比べれば随分と状態のよくなった右腕にも、包帯が巻かれている。

 治癒術式といえども、この短時間であれだけの傷を塞ぐことは不可能らしい。

 が、それでも随分とマシになった。


「…………」


 皆の様子を窺う。

 マキナさんをはじめ教官たちも皆、疲労困憊の様子だ。

 治癒術式は使用者の体力を著しく奪う。

 加えてマキナさんとシャナさんには固有術式の使用による負荷もある。

 二人とも表情には出さないが、相当消耗しているのが窺える。

 だが、彼女たちが施してくれた治癒術式のおかげで傷の状態はかなりよくなった。

 しばらく休んだおかげで、いくらか体力も戻ってきた。

 …………。

 立ち上がり、拳を放てるくらいには。


 巻き終わった包帯等の後片づけをしながら、はにかむようにして口元を緩めると、ミアさんは地面に視線を落とした。


「ミアは信じておりました。クロヒコ様ならば必ず、勝ってくださると」

「はは……けっこうギリギリでしたけどね。ただ――」


 俺は地面に手を突き、立ち上がった。


「クロヒコ、様?」


 立ち上がった俺をミアさんが驚いたように仰ぐ。


「残念ながら、まだ俺の勝ちとは言い難いんですよ」


 黒い異形の左腕に触れながら、学園の眼下に広がる王都、長い大通りの向こうに望むルノウスレッド城を見やる。


「キュリエさんやセシリーさん……みんなが無事でいてくれなくちゃ勝ちとは呼べません。だから……俺、そろそろ行かないと」


 ベシュガムが、四凶災の狙いがセシリー・アークライトだと言っていた。

 狙う理由こそ聞きだせなかったが、セシリーさんに危険が及んでいることは確かだ。


 本当はベシュガムを倒した後、すぐにでも街へ向かいたかった。

 だが、それを堪えて最低限の休息を取る必要があった。

 ベシュガムは他の兄弟は自分より弱いようなことを口にしていたが――問題は、他の兄弟がベシュガムと比べて『どの程度』弱いのか、ということだ。

 ベシュガムを基準に考えると、さすがに歩くのもやっとの状態で王都にのこのこ出ていくわけにもいくまい。


「も、申し訳ございませんでした、クロヒコ様」


 立ち上がると、ミアさんは一歩後ろに下がり姿勢を整えた。

 罪悪感を覚えた顔でミアさんが、きゅっ、と胸の前で拳を握る。


「キュリエ様やセシリー様のご無事が確認されていないのに、その、軽々しく勝ったなどと口にしてしまって……」

「ははは……そんなこと気にしたりしませんって。ていうか俺の方こそ、好意から出たミアさんの言葉を素直に受け取らず……すみませんでした」


 俺は苦笑を返しながら視線を再び、王都の街並みへ。


「あの、マキナさん」

「何?」

「晶羊亭って……以前、俺たちが二人で食事した店ですよね?」


 とマキナさんに尋ねた。

 すると彼女はすぐ何かを察した表情になる。


「もしかして今日、セシリー嬢がそこに?」


 俺は頷く。

 ふむ、とマキナさんが小さな顎に拳を添える。


「あそこからだと、学園よりも避難地区の方が近いわね。ガイデン様が一緒なら……一度アークライト家の屋敷に立ち寄って、ソエル・アークライトを連れ出してから避難地区か城に向かう可能性が高いと思うけれど」


 晶羊亭は貴族地区にある。

 そこからだと城や聖樹、そして避難地区は近い。

 また、ルノウスレッド城にはキュリエさんがいる可能性もある。

 もし聖樹騎士団が敗れた情報が伝わっているとするならば、北門に向かった可能性は低いように思える。

 その情報が伝わった場合、キュリエさんならば北門に向かうよりはセシリーさんと合流しようとする可能性の方が高い気がする。

 ならば、


「俺、晶羊亭を経由して、そのままアークライト家の屋敷に行ってみようと思います。それから城、避難地区と順番に回ってみようかと。もし途中で他の四凶災に出くわしたら……その時は、戦うつもりですけど」


 学園長室でマキナさんが四凶災に対抗できそうな戦力としてセシリーさんの祖父ガイデン・アークライトの名を挙げていた。

 そんなすごい人が一緒ならば心強い。

 ただ相手が四凶災となると、安心し切るわけにもいくまい。

 と、いうより……セシリーさんの無事を確かめないと、俺自身が落ち着かないだけなのかもしれないが。


 本当は、セシリーさんの現在の位置を直接知るすべが何かあるといいんだけど……。

 前にいた世界が、いかに相手の位置を知るのが楽であったかを痛感する。

 携帯電話機能で通話するだけで、すぐに相手の位置を知ることができたのだから。

 だがこの世界に携帯電話などという便利なツールはない。

 …………。

 いや、そうでもないか?

 この世界には確かに携帯電話こそないが……以前、聖遺跡でブルーゴブリンと戦った後、セシリーさんたちが互いの位置を示すという指輪を持っていた。

 あの指輪があれば楽に合流できる気がする。

 とはいえ、今あの指輪が俺の手元にあるわけではない。

 …………。

 やはりセシリーさんが向かいそうな場所の目星をつけつつ、足で探すしかない。


「あなた、馬には乗れたかしら?」


 マキナさんの問いに俺は首を振った。


「なら馬車を使う? 教官の中に御者役を引き受けてくれる者がいれば、出せると思うけれど」


 脚に力を入れてみる。

 筋肉が盛り上がる。

 第八禁呪の力はまだ身体に満ちている。


「いえ……一人で走って行こうかと。禁呪の力で色々と底上げされてるおかげか、意外と、走った方が速い気もしますし」


 何より馬車などに相乗りした場合だと、他の四凶災に遭遇した際に、ついてきてくれた教官を巻き込んでしまう可能性もある。


「そう」


 申し訳なさげに面を伏せるマキナさん。


「本当なら、私もついていきたいところなのだけれど――」


 俺は苦笑する。


「マキナさんには無事に生徒や教官を避難させるっていう学園長としての役割がありますからね。気にしないでください」

「ごめんなさい。最低でも、生徒たちを王都からシグムソス公爵領へ無事に逃がすまでは……あなたを手伝うことは、できそうにないわ」


 と、シャナトリスさんがマキナさんの肩に手を置いた。


「それに、疲弊したワシらがついて行っても足手まといになりかねんしな」

「シャナ」


 背後に顔を向けるマキナさん。


「むしろおぬしが安全な場所に避難してくれた方が、クロヒコとしても安心できるのではないか?」


 俺の顔を見てからマキナさんが睫毛を伏せる。


「……そうね。そうかも、しれないわ」

「ま、しばらくこの学園付近に四凶災が現れることもないじゃろう」


 シャナトリスさんが、ベシュガムが現れた森へ視線を飛ばす。


「ベシュガム・アングレンが一人で学園に現れたことから、四凶災はそれぞれに持ち場のようなものを決めた上で分散した、と考えるのが妥当じゃろう。ベシュガムの口ぶりからすると、他の四凶災も、まさかベシュガム・アングレンが敗れるとは夢にも思っておらんじゃろうしな」


 なるほど。

 確かに一定の説得力はある。

 そしてもしその通りだとすれば、俺も安心して学園を離れられる。


「…………」


 ふと、上空を旋回している鳥の群れが視界に入る。

 死肉でも狙っているのだろうか?

 …………。

 自分に翼でもあって空から探せれば楽なのにな、とぼんやり思った。

 は、ともかく。

 包帯の巻かれた左目に手を添える。

 うん。

 痛みは大分、引いている。

 身体の負傷も完全ではないが、戦える程度には回復している。

 一つ深呼吸し、俺は正門の方へ身体を向けた。

 一刻も早く彼女たちのところへ向かわなくては。

 無事でいてください――キュリエさん、セシリーさん。


「クロヒコ様……どうか、お気をつけて」


 祈るように両手を組むミアさんに、力強く頷いてみせる。

 そして、マキナさんにシャナトリスさんに一声かけてから、俺は正門の方へと足を――


「……え?」


 正門の方角からこちらへ歩いてくる人影が見えた。

 その人物は泰然と腕を組みながら、近づいてくる。


 生徒ではない。

 教官でもない。

 聖樹騎士団の団員でもない。

 だが――見間違えようはずもない。


「ヒビ、ガミ……?」

「ほぅ?」


 男――ヒビガミが歩みを止める。

 彼の目が俺の左腕を捉える。


「随分と面白い腕になったものだな、サガラ」


 感心した風に顎髭を撫でながら、ヒビガミは双眸を細めて俺を観察した。


「ふむ、どうやらこの様子だとすでにやり合った後か。そして相手は――」


 昏く濁った瞳がベシュガムの死体を捉える。

 ヒビガミが口の端を僅かに吊り上げた。


「四凶災」

「……どうしてここにいるんだ? 勝負は、三年後の約束だろ?」


 言いながら俺は自然と戦闘態勢を取る。

 強者の気まぐれは、いつだって起こるもの。

 三年後の約束などあっさり反故にしてここで襲いかかってくる可能性は、ないわけじゃない。


「カカカ……嬉しいな、サガラよ。ぎゃあぎゃあ喚かず、立ちはだかるならばやってやるというその姿勢、実に好ましいぞ。だが――」


 ヒビガミが改めて俺の全身を眺めた。


「今、ここで己とやりあうつもりはない」

「……だったら悪いけど、そこを通してくれ。今、急いでるんだ」

「禁呪の呪文書」


 横切ろうとした俺を、その言葉が引きとめた。

 ヒビガミが懐から紐で中央を縛った羊皮紙を取り出す。


「止めるつもりはねぇが……こいつだけでも、覚えていったらどうだ?」


 筒状になった羊皮紙を差し出してくるヒビガミ。


「これって……本物?」

「言っただろう? 帝国の所有する呪文書を、奪い取ってきてやると」

「…………」


 有言実行が早い。

 なんてやつだ。


「今日は己にこれを渡すために足を運んだんだが……よもや、四凶災が襲来しているとは予想していなかった。まあ、おかげで四凶災とやり合うことができたがな」


 え?

 それって、つまり――


「やったのか、四凶災と?」

「おれとやった四凶災は、はずれだったがな。全員があの程度ではないと、期待したいところだが」

「…………」


 今の口ぶり。

 つまり、勝ったということか。

 しかも危なげなく。

 見たところ傷を負った様子はない。

 …………。

 相変わらず、強さの底が見えない男だ。

 しかし偶然めいた巡り合わせとはいえ、四凶災の数が減ったこと自体は喜ばしいニュースである。

 これでセシリーさんへの脅威が、一つ減ったことになる。


「ていうか、四凶災が王都にいたことが予想外だったってことは――」


 俺は差し出された呪文書へ一度視線を落としてから、顔を上げて尋ねた。


「このために、わざわざ?」

「安心しろ。奪い取る時、他の貴重品も適当にかっぱらってきた。だから今のところ帝国じゃあ、金目当ての強盗が金目のモノの『ついで』で禁呪の呪文書も持っていった、と思われてるはずだ。まあ……それも気休めにしかならんだろうがな。モノがモノだ。永遠に己に疑惑の目が向かないとは、言い切れねぇ」


 禁呪の呪文書、か。

 …………。

 もう第三禁呪は乱発できない。

 ベシュガムと同じ手は、今の俺にとっては最後の手段だ。

 さすがに両目を失うことは戦闘において大きなハンデとなってしまう。

 そしてもし、他の四凶災がベシュガムと遜色のない皮膚の硬さを有していたら……。

 保険として他の攻撃手段を確保できるならば、すべきだろう。

 迷うことはない。

 俺は、差し出された呪文書を受け取った。


「……助かる」


 カカ、とヒビガミが満足げに低く笑う。


「それでいい」


 と、


「クロヒコ?」


 マキナさんたちが警戒した様子で、こっちへ歩いて来た。


「その男、ひょっとして……」


 当時のヒビガミの風貌や装いを伝えていたせいか、マキナさんは俺と話している男がすぐに誰か思い当たったらしい。


「お察しの通りです。この男が例の事件の犯人……ヒビガミです」

「その男が……」

「ただ、今は警戒してなくてもいいと思います。ここに来た目的はすでに果たしたみたいですから」

「……そう」


 マキナさんがヒビガミを一瞥する。


「わかったわ。あなたの言葉を信じることにする。今は、状況も状況だし」


 その危険性こそ伝えてあるが、マキナさんにしても、今のこの状況であえてヒビガミをどうこうするつもりはないようだ。

 まあ、さっき『今ここでやるつもりはない』と言っていたし、現時点での危険はないと考えていいだろう。

 それにもしやるつもりだったら、さっき出会った時点で戦いをはじめていたはずだ。

 と、ヒビガミが周囲へ視線を走らせているのに気づく。


「どうかしたのか?」

「キュリエの姿が見えないようだが……あの女、よもや王都から去ったか?」

「いや……キュリエさんは今日、用事で城の方に行っている。そのキュリエさんと合流するために、俺はこれから学園を出るつもりだったんだ」

「ふむ、そうか」


 キュリエさん。


「…………」


 あの人なら大丈夫だとは、思うけど。


「キュリエが心配か?」

「……ああ」


 クク、とヒビガミが含んだ笑いを発する。


「まあ、案ずる必要はないと思うがな。相手が誰であろうと……あの女が早々簡単に死ぬとは思えん。もちろん、相手があの程度の敵ならばの話だが」


 記憶を遡るような顔をしつつ、ベシュガムの死体へ歩み寄るヒビガミ。

 と――ベシュガムであったものを見下ろした瞬間、ヒビガミの空気が変わった。

 数拍して、ヒビガミが口を開く。


「サガラ」

「ん?」

「己、これに勝ったのか?」

「あ、ああ」


 暫しベシュガムの死体を見つめた後、ヒビガミが振り向いた。


「聞きそびれていたが……その左目、どうした?」

「左目? ああ、これは――」


 俺は手短にベシュガムを倒した方法を話した。

 そして、戦いの経緯を聞き終えるとヒビガミは、


「カカカカッ! なるほど、そうやって勝利を収めたか!」


 と快哉を叫んだ。


「クク……やはり期待に違わず面白い男だな、己は。しかも命を削った死闘だっただろうに、よくもまあそんなにも平然としていられるものだ。よっぽど肝が据わっているのか、あるいはただの異常か――どちらにせよ、おれの目は曇っていなかったようだ。しかし……」


 再びベシュガムの死体を見下ろすヒビガミ。


「そうか……四凶災には、こんな男がいたか」


 その声の響きには、どこか残念そうなものが篭っていた。


「巡り合わせがあれば、一度、やり合ってみたかったものだな。ただまあ――」


 ヒビガミが期待の篭った笑みを浮かべて俺を見据える。


「これで己の『完成』が、より楽しみになった。己ならば本当に、このおれの望むものを与えてくれるかもしれんな」

「……三年後にな」


 呪文書の紐を解きながら、俺はそう応えた。

 今はヒビガミとお喋りに興じている暇はない。

 急いで、セシリーさんを探さなくてはならない。


「さて、残っている可能性があるのは……あと二人か」


 ヒビガミが城の方角へ視線をやりながら、刀の柄の底に掌をあてた。

 横目でその様子をながら、俺は禁呪の呪文書を開く。


「我、禁呪ヲ発ス――」


 文字を読み上げながら、少しマキナさんたちと距離を取る。

 ものによっては周囲の人間を巻き込みかねないからな。


「我ハ翼ノ王ナリ、最果テノ獄ヨリイデシ二対ノ暗黒ヨ、我ガ命ニヨリ我ガ身ニ宿レ……第五禁呪、解放――」


 と、俺が呪文を唱え終わった直後だった。


「ぐ、ぅっ……!?」


 背中に這いまわる、急激な違和感。

 肩甲骨のあたりで何かが、蠢いている……?

 さらに二つ次元の断裂が地面に走ったかと思うと、黒い羽がまるで天を目指すかのごとく、折り重なりながら空へと急速に延びていく――。


「なん、だ……? あれは一体――ぐっ、ぐあぁ……っ!?」


 背中が、熱い。

 何かが俺の背を突き破ろうとしているような、そんな感覚。

 そして――


「ぐ、ぁ、あ、ぁぁああぁぁああああ……っ!」


 俺の背中から、何かが生えたのがわかった。

 続けて、頭の中に第五禁呪の情報が流れ込んでくる。


「禁呪、か」


 ヒビガミの声が、聞こえた。


「その正体はさすがのおれにもわからんが、これこそまさに人ならざるものによる力……まったく、湧き立たせてくれる」

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