其之14 君しかいない
「――まったく。今日はとんでもない目に遭ったわ。あのお嬢様がいらして下さらなかったら、わたし、取り返しのつかないことになってたかもしれないっ。ホント、あのお嬢様には感謝よね!」
そんな愚痴をこぼしながら、わたしは、さっさと自分の布団を敷いていた。
窓の向こうには、淡く清らかな銀の光が燦々と、半月よりもやや膨らみながらも、満ちるにはまだ早い、檸檬月の姿が――。
酉田屋から戻った後、わたしは定時で女給仕事を終えて、道重家の皆さんと一緒にお夕飯を戴き、最後から2番目でお風呂を戴き――なんて、いつも通りの日常に戻った訳だけれど。
流石に、霊的な方法で垣間聴いた豪太らの悪巧みについては、千代子さん達には話せなかった。だから、わたしも、大概、鬱憤たまってたんだと思う。
「……マア、人間ハ、俗物まみれダカラナ」
呆れる声でつぶやく琥狐に、わたしも布団を敷く手を止めずに、
「そうでしょ? そうだよね!!」
と、力強く賛同した。
いや、「人間」のくくりで言っちゃうと、わたしや千代子さん達も入ってしまいそうだから、「あれ?」とも、後で迷ってしまったけれど。
そこは気を取り直して、自分の布団の隣に、琥狐のための座布団とシーツ代わりのサラシを敷いた。
「されば、そろそろ、本日の日課を遂げてもらいたいのだが」
「え?」
わたしが振り返ると、琥狐は、いつの間にか、三尾の白狐でなく、浴衣姿の白銀髪の狐耳狐尾の美青年になっていた。
「紫希!?」
わたしが目を丸くすると、紫希はフッと笑う。
(っていうか、なんで、今回は浴衣なの!?)
なんだか、きちんとした単衣姿より、やや簡素に着崩れている分、ぐぐっと危険な伊達男ぶりが上がって、前以上にすごく艶めかしかった。
「どうして? だって、今日は五穀を摂ってないし、丑三ツ刻でもないのに――」
「アレが人化の条件だと、いつ言った?」
憮然と紫希に窘められ、
「あ。それは。言われてないけど」
と、わたしもまごついた。
すると、紫希は、矢庭に、グイと、わたしを引き寄せ、わたしの顎を持ち上げ、鋭い鉤爪の親指の腹で、艶美にわたしの唇を撫でた。
「あの小さき妖狐のままでは、君から報酬を戴けないゆえ」
「報酬って、まさか――!」
わたしがドキンとしているうちに、紫希は、スッと、おもむろに、わたしに唇を重ねようとしてきた。――が、わたしは、慌てて自分の口元を手で隠した。
そのため、わたしの手の甲に、はぷ、と紫希の柔らかい唇の感触が走る。
「……」
紫希は少しムッとしたように眉根を寄せた。
そして、すぐ顔を離す。
「本日、私は、悪しきものどもの心の声を集めてきて、君に危機を知らせた。アレはアレで、まあまあ霊力を使うのだぞ。君はソレで難を逃れたのに。私に、何も食わせないつもりか」
「それは感謝してますけど! だからって、なんで、そこで接吻なんですか!!」
「【きっす】ではない。【口吸い】だ」
「どっちも同じです! というより、【口吸い】は、それ以上も伴うんじゃないですかっ!?」
わたしはキッと紫希を睨んだ。
これに、紫希も「むう……」という感じで黙り込む。
そう。あれから、わたしは調べたのだ。
図書館とか、本屋さんとかで、あの時、紫希がこぼした【房中術】の単語を。そうしたら、確かに大陸由来の陰陽思想の中に、その単語があって。
それは、いわゆる【男女の営み】をただの快楽としてでなく慎みを持っておこない、心身を好く昇華させる【養生法】なのだと解説されていて。
「あなた、神様の御使いでしょ? そういうの、清浄さとか、神聖さから、ずいぶんとかけ離れてると思うんですけど!」
「それは、なんとも無知なことだ。豊穣神の中には、男女一対の御神もあるのだが? 道祖神など、その典型だ。そもそも、男と女が在って、それらが交わることで初めて、子孫繁栄が生るであろう?」
「その理屈は分かりますけど! あなた、別に人間の女性が好きな訳じゃないって」
「左様。私は、人間の惚れたハレたなどはどうでも良い。――が、君は我が宿主ゆえ。他でもない、君からは、常に氣を補充してもらわねばならない。少なくとも、君のために、霊力を使いし後は、絶対に」
「わたし、いつ、使ってくれだなんて頼みました!? あなたが勝手にやったんでしょ!」
「当然であろう? 縁を結んだ私ならともかく――。くだらぬ人間に君の純潔が穢されれば、その分、君の氣の【質】が著しく低下する。それでは、この私が困るのだ!」
紫希は苛立った顔で怒鳴った。
(何よ。『私が困る』って! 嫉妬した、とか、独り占めしたい、とかの言い回しなら、まだ、こっちもときめくんだけど。これじゃあ、わたし、完全に妖狐の獲物というか、生贄みたいなもんじゃない!!)
わたしもふてくされたように紫希を見上げると、その人外らしい氷の双眸と、まばゆい美貌は、本当に綺麗でゾクリとして。
なのに、ぴこぴこ動くモフモフ狐耳や、フサフサ狐尾がほわんほわん揺らめく様がものすごく可愛くていとおしくて仕方がなかった。
だからこそ、わたしもついつい絆されそうになっちゃって。
それが一層腹立つ。
わたし、そこまで面食いじゃないはずなのに。
こんな風に視覚的に簡単に篭絡されかかると、どこかしら馬鹿にされてるみたい。
紫希を前にすると、なんか「わたしだけを見て、わたしのことだけ考えてほしい」って思っちゃう。
それで、わたしがフンッとそっぽ向くと、紫希は「……」と考えた後、きゅ、とわたしを背中から抱き締めた。
「……サエ」
うなじの側で、耳に余韻残る低い美声で名を呼ばれ、わたしはドッキンとする。
だって、考えてみれば、これまで、紫希どころか、瑤子様や琥狐の姿でも、「君」や「あなた」呼びばかりで。
わたし、このヒトに、名前で呼ばれたことがない。
「今の私にとって、頼れるのは君しかいないのだ」
「あ……」
わたしはドクンドクンと胸が鳴る。
(だ、だだだだ駄目よっ! この程度で惑わされちゃあ……。だいたい、このヒト、紫希か瑤子か、どっちが真の姿か分からないんだしっ)
そうかと思うと、また、ふぁん、と。
紫希の全身から、伽羅香(?)みたいな不思議な甘辛い薫りが漂ってきて。
わたしも「あ」と。
頭がくらくら。
眩暈がする。
(うわ。ダメだ。わたし、この香り、やっぱり好きすぎる! すごく官能的で、刺激的で。お腹の底から、ずくんずくんと、なんかやましいモノが湧いてきちゃう)
「君が、私に求めることがあるなら。可能な限り、叶えてみせよう。私は狐ゆえ。おそらく人間のソレにはなれぬかもしれぬが。ソレを真似ることなら出来るゆえ」
わたしの首筋に、ふうっと悩ましげな生温かい吐息が掛かり、またゾクゾクッとする。そして、わたしは、たぶん、この感情を抑えた、聴き心地良い低い声もまた大好きなのだ。
「ま、真似る、って。そう、おっしゃってる時点で駄目ダメじゃないですか……!」
ドキドキしながら、わたしがツッコむと、紫希は、きょとんとしたように、
「ム? そうなのか??」
と、すんなり引き下がる。
そこは本当に困っているみたい。
わたしは、小さく下唇を噛んで、拳を握り締めた。
ごくりと喉を鳴らし、さっと紫希の束縛から逃れるように身じろぎしつつ、その精悍な腕が緩んだところで、わたしは後ろを振り返った。
<執筆後記>
今回は、「ちょいラブ回、再び!」といった感じでしょうか。
それにしても、紗江はケモナーの素質でもあるのやら……?
紫希はまったく分かってなさそうですが。
まあ、彼も器用な人間(狐)ではあるので。
次回は、この流れの続きのため、あのお嬢様との再会は、一旦お休み。
また今度です。




