第4話 手取り25万円が親会社を買う日 その5
俺は寝る間を惜しんでオムニアの集めた資料を確認した。
「これは、ひどいな。どれだけコストカットしてるんだよ」
コストカットの餌食になった下請けのリストを見ていると、一つの会社が目にとまった。
「うん? これ、この前のオペミスに絡んでた下請けじゃないか!」
俺は拳をグッと握りしめた。
現場を混乱させ、重大な障害を引き起こした原因――それは現場のエンジニアのスキル不足などではなく、黒田が己の利益のために無謀な極限コストカットを強行し、下請け現場を限界まで崩壊させていたからだったのだ。
「……どこまで現場を舐め腐ってんだ、あの豚」
怒りで奥歯が噛み合わさる。俺は画面の向こうのオムニアに視線を向けた。
「オムニア、明日には目標額まで買収できるよな」
『できるわ。ただしアンタの世界じゃ普通ならこんな速さ、有り得ないわよ。本来なら開示義務やら審査やらで数週間はかかる案件なんだから』
「じゃあなんでできるんだよ」
『我の神力とAIの最適化、その両方があるからよ。世界中の金融市場の隙間を最速のアルゴリズムで突いて、合法の範囲内で超高速買収処理を完了させてるの。感謝しなさい!』
「……ああ、めちゃくちゃ感謝してるよ。頼むぞ」
『ふふん、任せなさい! 明日の開帳と同時に、JTTHDの筆頭株主は真一よ!』
画面の中でドヤ顔を決めるポンコツ神に苦笑しつつ、俺は深く息を吐き出した。
(手札は全て揃った)
現場を踏みにじり、責任を桜井たちに押し付けようとする黒田。
明日、奴の破滅と、俺たちの反撃が始まる。
――
翌朝。
俺はいつもより30分早く出社し、自分のデスクでコーヒーを一口飲んだ。
オフィスにはまだ人影もまばらだが、数席離れた桜井のデスクには、すでに彼女の姿があった。
モニターに向かって黙々とキーボードを叩いている。
俺は缶コーヒーを手に、桜井の席へと歩み寄った。
「おはよう、桜井さん。早いな」
「平野さん。おはようございます」
桜井は手を止めず、視線だけをこちらに向けた。
少しだけ目の下にクマができている。昨夜も遅くまで反撃の準備をしていたのだろう。
「これ、飲むか?」
「ありがとうございます」
冷えた缶コーヒーを受け取り、桜井は小さく息をついた。
「黒田部長は、いつも9時ピッタリにやってきます。あと15分です」
「そうか」
「平野さん。昨夜言っていた『返り討ちにする策』……本当に、期待して良いのでしょうか」
メガネの奥の瞳が、かすかに揺れている。
いつもは冷静なロジックで感情を覆い隠しているが、彼女もまた、理不尽に会社を追われようとしている一人の若手社員なのだ。
俺はニッと笑い、自分のスマホを軽く叩いて見せた。
「任せとけ。俺と……『最強の味方』が用意した特効コマンドだ。桜井さんは、いつも通り堂々としていればいい」
俺は資料が入った封筒を桜井に渡した。
「……分かりました。元エルダーの言葉を信じます」
その時、オフィスの自動ドアが重々しい音を立てて開いた。
――ドシッ、ドシッ、と床を鳴らす不快な足音。
肥満体を揺らし、邪悪な笑みを浮かべた黒田部長が、ついにやってきた。
「桜井! 昨日の見積もりの件はどうなった! ちゃんと指示通り50%カットして持ってきたんだろうな!?」
肥満体を揺らしながらドカドカと歩み寄ってきた黒田は、周囲の社員の視線も憚らず、開口一番に怒声を上げた。
桜井は静かに立ち上がり、冷ややかな視線を黒田に向けた。
「……物理的に不可能な修正はお断りいたします。昨夜お伝えした通り、根拠のない減額はシステム崩壊を招きます」
「なにぃ……!? 貴様、会社をクビになりたいのか!? 現場の分際で親会社の方針に逆らう気か!!」
黒田の顔が怒りで真っ赤に染まり、拳を振り上げる。
その時、俺は桜井の前に静かに割り込んだ。
「そこまでにしてもらいましょうか、黒田部長」
「あぁ? なんだお前は……平野か? 平社員がしゃしゃり出てくるんじゃねえよ!」
「親会社の方針、ですか。……ちなみに、黒田部長。親会社の『誰』の方針ですか?」
俺は懐からゆっくりとスマホを取り出し、画面を黒田の目の前に突きつけた。
そこに表示されているのは、たった今買い付け処理が完了した、JTTHDの最新株主名簿のデータだ。
「な、なんだこれは……?」
「JTTHDの発行済株式の33.4%。単独で重要決議を拒否できる拒否権を伴う、筆頭株主の保有割合です。……そしてその保有者は、俺の個人資産管理会社になっています」
黒田は一瞬目を見開いたが、すぐに下品な下衆笑いを浮かべ、周囲の社員にも聞こえるような大声で吐き捨てた。
「ハッ! 狂言を言うな狂言を! お前みたいな平社員が6千億円もの株を買えるわけねえだろ! ハッタリで俺を脅せると思ってんのか!?」
悪代官よろしく見苦しく悪あがきをする黒田。
だが、そんな黒田に向かって、今度は桜井が自席のデスクから一束の分厚い資料を持ち上げ、バサリと胸元へ叩きつけた。
「……なら、こちらはどうですか、黒田部長」
「な、なんだこれは……!?」
「あなたが過去5年間にわたって下請け企業へ強要してきた悪質な減額要求、およびキックバックの銀行口座記録です。昨夜、平野さんからいただいたデータを元に、私がログと突合して完璧な証拠書類として整理しておきました」
「な……ッ!? なぜそれを……!?」
動かぬ証拠を前に、黒田の顔から一気に血の気が引いていく。
呆然と立ち尽くす黒田を見下ろし、俺は一歩前へ踏み出した。最後にとどめを刺すために。
「この前の現場のオペミスも、あなたが下請けを限界まで絞り潰したことが原因だったんだよ。……これだけの不正証拠があれば、会社として刑事告訴を検討するには十分だ。そして俺は、親会社の筆頭株主として、この件を取締役会に正式に追及できる」
俺の冷徹な宣告に、黒田はガタガタと全身を震わせ、ついに膝から崩れ落ちてその場にへたり込んだ。
「ひ、ヒィィッ……! た、助けてくれ……っ!」
「処分については、正式な手続きを踏んでもらいます。……今は失せてもらえますか。現場の邪魔です」
黒田は顔を蒼白にし、惨めな悲鳴を上げながら、転がるようにオフィスから逃げ出していった。
――
「……見事な手際でしたね、桜井さん」
俺が声をかけると、桜井は眼鏡の位置をスーッと直し、少しだけ誇らしげに胸を張った。
「平野さんが用意してくださった『特効コマンド』が完璧でしたから。ロジックと証拠が揃っているなら、叩き潰すのは私の専門分野です」
「はは、頼もしすぎるよ」
俺がニッと笑ってみせると、桜井は一瞬だけ呆れたように目を細め――やがて、小さく、だがとても温かい笑みを浮かべた。
「……はい。見事な返り討ちでした。ありがとうございます、元エルダー」
「おう!」
黒田を完璧に退け、桜井の雇用も守った。
胸のすくような達成感に包まれ、俺と桜井は顔を見合わせて爽やかに笑い合った。
……だが。
その晴れやかな笑顔が粉々に打ち砕かれるまで、わずか3秒もかからなかった。
ピコン――! ポロロン! プルプル!
ポケットの中で、スマホが悲鳴のような連続通知音を鳴らす。
画面を開くと、オムニアのアバターが焦燥感を露わにした表情で画面に躍り出た。
『真一! 大変よ……ッ!!』
「おい! 声がでかい! なんだ、このランダムな呼び出し音は!」
俺は慌ててイヤホンをつけた。
『そ、それどころじゃないわ! 別口のJTTHD株買い付けが始まったの!』
周囲に聞こえないよう、声を潜めて返す。
「……は? 買い付け……? 我々が33.4%を押さえたばかりだぞ!?」
『我が33.4%を取得したのと全く同じタイミングで、圧倒的な資金が市場に流し込まれたのよ! 残りの株式を一気に買い集めようとしてる……!!』
「な……ッ!? 誰がそんなことを……」
『……マジェスティ・パートナーズよ!!』
一瞬、俺の血が凍りついた。
黒田撃退の歓喜は、一瞬にして新たなる巨大な脅威への緊張感へと塗り替えられた。
――
東京都心、超高層ビル最上階。
“マジェスティ・パートナーズ”本社。
全面ガラス張りの広大なオフィスで、下界のビル群を見下ろしながら、一人の男が優雅に高級タバコの煙を吐き出していた。
大手投資ファンド『マジェスティ』営業本部長――神門賢治。
洗練されたスーツを身に纏い、冷酷な光を宿した瞳で街を見下ろす彼のもとへ、一人の男が足早に歩み寄ってくる。
マーケティング事業部 部長――金田だ。
神門は煙草を灰皿に揉み消すと、振り返りもせずに問いかけた。
「JTTホールディングスの買収は順調か?」
金田は不敵な笑みを浮かべ、深く頷いた。
「はい。順調です。……我々には、“エンペラー”がありますから」
神門の口元が、冷酷な三日月型に歪む。
「……フッ。吹けば飛ぶような通信会社だ。虫ケラどもがいくら抗おうと、我がマジェスティの餌食になる運命は変わらんよ」
巨大な闇の歯車が、いま静かに動き始めていた。




