第5話 先輩の警告
翌日の銀座華劇場。開演を数時間後に控え、バックステージは慌ただしい熱気に包まれていた。大道具のセットを運ぶスタッフたちの怒号や、発声練習をする劇會員たちの声が飛び交う中、煌びやかな舞台衣装を纏ったユリとユラが、狭い通路ですれ違おうとしていた。
周囲には多くの目がある。本来ならば、雄飛と麗花として軽く会釈を交わす程度の、何気ない日常の一コマに過ぎないはずだった。
しかし、昨夜の冷たいベランダで交わした、息が詰まるほど熱烈な口づけの記憶が、二人の身体の奥底にいまだ濃密にへばりついていた。互いの唇の感触や、吐息の熱さが、少しでも近づくだけで鮮やかによみがえってしまう。
すれ違うほんの一瞬。ユラの結い上げた髪から甘い香りがふわりと漂い、その白く細い指先が、誰にも気づかれないほどの絶妙な角度で、ユリの分厚い衣装の袖口にそっと触れ、撫でるように滑り落ちた。
「……っ」
ユリは小さく息を呑み、歩みを止めそうになるのを必死に堪えた。視線を向けると、ユラは伏し目がちに、しかし確かな熱を帯びた艶やかな流し目でユリを見つめていた。その大きく潤んだ瞳は、「早くまた二人きりになりたい」と甘く囁いているようで、大胆に愛を求めていくユラから放たれる圧倒的な引力に、実直で不器用なユリの心臓は激しく打ち鳴らされた。顔が火照るのを自覚しながら、ユリは微かに顎を引き、ユラの想いに応えるように抗いがたい熱い視線を絡め返した。
ほんの数秒の、声なき逢瀬。
だが、その極めて私的で甘美な空気を、鋭く見とがめる冷ややかな瞳があった。
「天海。少し気が緩んでいるのではないか」
凛とした、しかし氷のように冷たい声が通路に響いた。
声の主は、菊組の雄飛であり、次期トップスター候補と目される東郷セイラだった。華やかで圧倒的なオーラを放つ彼女が歩み寄ると、周囲の空気がピンと張り詰め、温度が数度下がったかのように感じられた。
ユラが静かにその場を立ち去るのを見届けた後、セイラは真っ直ぐにユリの前に立ち塞がった。
「東郷先輩……」
ユリが背筋を伸ばすと、セイラはユリの涼しげな目元を射抜くように睨みつけた。
「舞台に上がる前から、あのような隙を見せるとは呆れたものだ。お前たちの間に漂う湿った空気は、周囲のアンサンブルを乱す毒でしかない」
「それは……」
反論しようとしたユリの言葉を遮るように、セイラは一歩踏み込んだ。
「非エス三原則こそが、劇會の調和と美を守る盾だ。お前のように才能に恵まれていながら、たかが私情に絆される者は、神聖な舞台に立つ資格などない」
冷酷なまでの宣告だった。セイラは、泥臭い努力を重ねて確かな実力をつけてきたユリの雄飛としての才能を高く評価し、次代を担う最大の脅威とすら感じていた。だからこそ、その才能が「恋」という不確かな感情によって汚され、足元から崩れ去る危うさが許せなかったのだ。
「……ご指導、ありがとうございます。以後、気をつけます」
ユリは深く頭を下げた。掟という絶対的な壁、そして劇會を統べる規律そのものを体現する先輩を前に、今のユリにはそう答えることしかできなかった。
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出番を終え、汐留寮の自室に戻ったセイラは、重い扉を閉めた途端、張り詰めていた肩の力をふっと抜いた。
完璧な雄飛としての仮面を剥がし、ドレッサーの前に座る。鏡に映る自分自身の瞳は、先ほどバックステージでユリに向けた刃のような鋭さは鳴りを潜め、酷く疲弊し、傷ついた色を浮かべていた。
「……私情を挟む者に、舞台に立つ資格はない、か」
自らが放った言葉を反芻し、セイラは自嘲気味に口元を歪めた。あの痛烈な言葉は、他でもない過去の自分自身に向けた鋭い呪いだった。
セイラがきつく目を閉じると、脳裏に古い記憶が鮮明に蘇る。
あれはまだ、セイラが下級生だった頃のことだ。彼女にも、特定の相手に激しく溺れた過去があった。相手は、笑顔がひだまりのように愛らしい、一つ下の麗花だった。
彼女と過ごす時間は何よりも尊く、誰よりも愛おしく、絶対に守り抜きたいと願っていた。しかし、若かったセイラは己の感情を制御しきれず、二人だけの世界に深く溺れていった。その結果、二人の密やかな関係は、やがて周囲の知るところとなってしまった。
劇會の掟を破った代償は、あまりにも残酷だった。大人たちの冷徹な処断により、愛した少女はスキャンダルの全責任を一身に背負わされ、誰にも別れを告げることなく、追放され劇會を去っていったのだ。
涙を堪えてうつむく彼女の小さな背中が、今も瞼の裏に焼き付いている。
あの時、なぜ彼女の手を引いて一緒に逃げなかったのか。雄飛でありながら、最も守りたかったはずの彼女を庇いきれなかった自身の無力さと保身が、セイラの胸を今も刃のように切り刻み、血を流させ続けている。
(二度と、あんな過ちを繰り返してはならない。同じ悲劇を生まないために、私はこの身を鋼に変え、完璧な防壁にならなければならない)
その痛ましい贖罪の意識こそが、セイラを狂信的なまでの掟の遵守へと駆り立てていた。三原則という盾は、劇會を守るためだけでなく、自らの弱さを永遠に封じ込めるための冷たい檻でもあったのだ。
今日、バックステージで目撃したユリとユラの姿。交わされる熱を帯びた視線、互いを求め合う隠しきれない引力。それは、かつて自分が失った、無防備で純粋な愛の形に酷似していた。
「……愚かな。行き着く先は、残酷な別れしかないというのに」
セイラは鏡の中の自分から目を逸らし、膝の上でぎゅっと拳を握りしめた。
才能ある後輩が、自分と同じ破滅の道を歩もうとしている。それを止めるためには、自分が鬼となり、彼女たちの未熟な愛を徹底的に打ち砕かなければならない。
セイラは深く息を吸い込み、再び冷徹な仮面を被り直した。鏡を見据えるその瞳の奥には、二人の恋を裁こうとする、凍てつくような決意が宿っていた。




