第1話 追憶の夕焼け、目覚めの鈴(おと)
第1話 追憶の夕焼け、目覚めの鈴
ゆっくりと沈む夕日。
港へと帰る漁船のエンジン音が、遠くで心臓の鼓動のように響いている。
すべてがスローモーションに見える。庚はぼんやりと、自分の手の甲を見つめた。
そこには『猫』という文字が、陽炎のように薄く浮かんでいる。
「……いつから、これがあるんだっけ」
思い出そうとすると、頭の奥が霧に包まれたように白くなる。
大切な何かを、この街に置いてきたような違和感だけが、ずっと胸に澱んでいた。
不意に、スマートフォンの震動が思考を遮った。画面には養父、涼風冴の名前。
(もう帰る時間くらい分かってるわよ、しつこい……)
ため息をつき、無言で養父からの着信を切り、重い腰を上げたその時だった。
――ズシンッ!
背後で、空気が震えた。
その衝撃を、高みから見下ろしている者がいた。
その少年、夢睦の瞳には、夕日に染まる町――かつて「彼女」と笑い合った思い出の景色が映っている。
ふと左の手の平を見れば、そこには『子』の文字。
毎日、この文字に誓ってきた。いつか必ず、彼女を見つけ出すと。
その時、左手に焼けるような痛みが走った。
「っ……共鳴してるのか……!?」
睦が下を見下ろした瞬間、心臓が跳ねた。
そこにいたのは、ずっと探し続けていた、忘れもしない後ろ姿だった。
――もうだめだ。
そう思ったとき、鈴の音が聞こえた気がした。と同時に、鮮烈な黄色の輪が視界を走る。
その輪は吸い込まれるように、獅子の鳩尾に突き刺さった。
はっと目を覚ますと、そこは無機質な自分の部屋だった。
さっきの夕日の光景、巨大な獅子、鈴の音……。すべてが夢のようだが、手の甲に残る鈍い熱だけが、嫌に現実味を帯びていた。
「…………」
だんと、乱暴な音が聞こえ、どきりとして顔をあげると、ドアの隙間に、仮の兄
の九十九雷が立っていた。
雷も涼風の養子だ。
この街に来たとき、一緒に暮らすことになった。理由は知らない。
それよりいつからそこにいたのか、物音一つしなかった。逆光で顔はよく見えないが、彼がまとう空気だけがひどく冷たく、湿っている。
血の繋がっていない、仮の兄の存在。養父の計らいでこの街に戻ってきてから、彼は以前にも増して、私を閉じ込めるような視線を送ってくるようになった。
「……学校、遅れるぞ」
低く、抑揚のない声。
乱暴に叩かれる扉の音よりも、その静かな声の方が、庚には何倍も恐ろしく感じられた。
返事をする前に、雷は音もなく姿を消した。
庚はうんざりしたように溜息をつき、二度寝したい欲求を抑えてベッドから足を下ろした。
窓の外には、かつて両親と暮らしたはずの街が広がっている。
まるで、自分だけがこの街に属していないみたいだった。




