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子殺し  作者: garashi
3/3

終宴

 智子は病室のベッドで横になっている敏夫を見つめていた。以前顔を覆っていた人工呼吸器の透明なマスクが外れていた。不安定だった心臓の動きが正常に回復したのだ。それだけではなく時たま瞼が開くこともあった。意識自体は戻っておらずただの生理現象だと色々と検査をした医者が言っていたが、智子は確かな手ごたえを感じていた。

 これまでに智子は十二回歌っていた。病院側が調査を取り止めたおかげで毎日歌うことができた。夜勤ナースの人数が増えることもなく誰にも歌っている現場を目撃されることはなかった。


「あと一回……」

 

 智子はつぶやいた。今晩が最後だ。今夜さえ乗り切ればもうリスクを孕む行動をとる必要も無くなり、何より敏夫は助かるのだ。幸いにも儀式の対象は既に決まっていた。先ほど院内にいたところに声を掛けて仲良くなった初産の妊婦だ。真奈美同様知り合いが少なく院内の噂を知らない妊婦だった。一階の売店で買ったスリッパをプレゼントし、受け付けに戻してあげると言って彼女の履いていた患者用のスリッパを手に入れた。自己紹介はしたがその妊婦の名前はもう憶えてはいなかった。いちいち覚えていたら智子の精神がもたなかった。


 午前一時過ぎ、智子は病室を出た。階段に辿り着き一階に向けて踊り場を曲がろうとした時だった。下から物音が聞こえた。智子は足を止めた。心臓の鼓動がどんどん大きくなり全身から汗が溢れ出た。神経を集中してじっと階下の様子を伺った。物音は足音のようだった。何者かがゆっくりと一階の廊下を歩いていた。この時間帯の巡回は無いはずだが一体誰がうろついているのかと思った。何者かは一階の廊下をうろうろとした後に廊下の奥へ歩いて行った。奥には別の階段があるのでそこから上の階へ行ったのだろうと思った。どうするべきかと智子は迷った。今日は止めるべきか、明日また改めればいいのではないか。敏夫の姿を脳裏に思い浮かべる。あの子も必死に戦っているのだ。母親たる自分も戦わねばならないと智子は思った。足音はもう聞こえなかった。智子は意を決して階段を降り始めた。

 一階の廊下には誰もいなかった。周囲を伺いながら音を出さないようにガラス扉の前まで移動した。ガラス扉を開けて中庭に入り普段通りの位置に立った。中庭を背に病院の壁を向いた。スリッパを握りしめ目を瞑り持主の妊婦の顔を思い浮かべた。


「うめやうめや かわいいぼこを はようめや 

 うめやうめや ずんどうぼこを はようめや 

 うめやうめや つぶれたぼこを はようめや 

 うめやうめや とろけたぼこを はようめや 

 うまれたぼこを つかんでしめりゃ あとはのとなれやまとなれ」


 いつも通り歌が口から自然と漏れ出た。もはやこの歌が呪いの歌だと理解していた。智子は目を開けてふぅっと息を吐いた。ともかくこれで全て終わった。これで敏夫は助かるのだ。そう思い病室に戻ろうとガラス扉の方を向いた時だ。ガラス扉の向こうからこちらを見ていた何者かが慌てて身を隠した。


「っ!?」


 心臓がびくんと脈打った。呼吸が荒くなった。咄嗟の事態に頭が真っ白になった。見られた。見られてしまった。このままでは敏夫が地獄に落ちてしまう。

 どうしてなんだと智子は思った。今まで上手くいっていたのに何故最後にこんなことが起こるのかと思った。あまりに理不尽だった。ふつふつと腹の底から煮えるような感情が沸いてきた。怒りの感情だった。そしてその怒りは目撃者へと向いた。智子はその目撃者を殺してしまおうと思った。見られてもすぐに殺せば間に合うかもしれないと思った。それ以上に敏夫を助ける邪魔をした者を許す気は無かった。


「逃がさないっ」


 そう呟くと智子は駆け出してガラス扉を勢いよく開け目撃者が逃げた方を向いた。白い白衣のような恰好の後ろ姿が廊下の先を走っているのが見えた。智子はその後を追って走り出した。その表情は憤怒で歪んでいた。


 目撃者は廊下の突き当りを右に曲がった。智子も突き当りを右に曲がると、数メートルほどの廊下が続いておりその先は行き止まりだった。その時左の方からがたんという音が聞こえた。短い廊下の途中の左側の壁に小さい扉があった。この扉の先に目撃者は逃げたのだと智子は思った。智子はその扉を開けて中に入り手探りで電灯のスイッチを押した。中は六畳程の用具入れになっていたが誰もいなかった。だが確かに先ほど物音が聞こえた。智子はまじまじと部屋の様子を観察した。モップや箒といった掃除用具といくつかのバケツが置かれており、腰くらいまでの高さの棚いっぱいに段ボールが収納されていた。その反対側の壁には濃い灰色の大型ロッカーが二つ置かれていた。怪しい物は無かった。

 智子は焦りを覚えながら部屋の中を物色し始めた。掃除用具や棚の段ボールには不審な点は無かった。ロッカーの一つを開けると中にはホースやゴムブーツといったものが奥にかけられていた。だがそれだけだった。焦る感情に駆られてもう一つのロッカーを乱暴に開けた。その中は先ほどのロッカーと入っているものはほとんど同じだったが、開けた衝撃で奥にかけられていたホースが落ちた。ロッカーの中を見た智子は違和感を感じた。ホースが落ちたことで露出した内側の奥の壁が、側面の壁とは異なる薄い灰色をしていた。智子は隣の先程開けたロッカーを開けて奥の壁の色を確認すると側面の壁の色と同じ濃い灰色をしていた。智子は薄い灰色をしたロッカーの奥を手で押すとぎぃっという音と共に壁が奥に押し込まれた。それは開き戸になっていた。目撃者はこの先に逃げたのだと確信した智子は棚に置いてあった懐中電灯を掴むと中に進んだ。

 隠されていた開き戸の中は階段になっており下へと続いていた。懐中電灯をつけて階段を降りるとその先には扉があった。その扉を開けた先は狭い廊下になっており、左右の壁にいくつか扉があった。天井には電灯が等間隔に並び狭い廊下を薄暗く照らしていた。このどこかの部屋に目撃者がいると感じたた智子は廊下に足を踏み入れた。目をぎらつかせながらゆっくりと足を進め一番手前にある右側の扉を開けた。中は十畳程のコンクリート打ちっぱなしの部屋だった。部屋の中央には二人掛けの小さな机が置かれ、隅に小汚い犬小屋が一つあった。酷い悪臭が漂っており、部屋に入った智子は顔を顰めて鼻をつまんだ。部屋の中に少し進み周囲を伺ったが誰もいないようであった。他の部屋を調べようと振り返った時、天井にぶら下がっていた何かが智子の目の前に落ちた。


「きゃあっ」


 智子は悲鳴を上げて後ずさった。この世のものとは思えない程醜悪な容姿の化け物が地面に這いつくばって智子を見上げていた。それは尾を下ろした蠍に似た形をした、全身が黒い縮れ毛と黒子で覆われた人間のような化け物であった。うつ伏せで足をこちらに向けるような恰好をしており、臀部と股間の間の部分に顔があり額の上には肛門があった。両足の先は足ではなく掌になっていた。腹が異常に膨れ上がりへそのあたりから上半身にかけて急激に細くなりその先端は毛髪で覆われていた。あまりの気味の悪さに智子は吐き気を催した。その化け物はオーィと低い声で鳴くとペタペタと両手を使って凄まじい速さで智子に近寄ってきた。智子は悲鳴を上げながら化け物から距離をとろうと必死で走った。部屋の中央にあった机まで駆け寄ると机を掴み、近寄って来る化け物に向けて引き倒した。机を叩きつけられて怯んだ化け物がオーィと鳴いた。その隙に智子は部屋を出ようと扉に走った。扉を開けようとドアノブに手をかけた時、ガチャリと扉が開いた。開いた扉にぶつかって智子は後ろに尻もちをついた。開いた扉の前に白衣を着た背の高い痩せた男が立っていた。目の前の男が儀式を覗いた奴だと智子は直感した。かっと脳に熱い血液が流れ込んでくる感覚を覚え起き上がって男に飛び掛かろうとした。その時、後ろから伸びて来た太い腕が智子を羽交い絞めにした。凄まじい力だった。同時にむせる臭いが背後から漂って来た。耳元でオーィという鳴き声がした。あの化け物が後ろから自分に覆いかぶさっているのだと即座に理解した。男がゆっくりとこちらに歩いて来た。


「ここまで追って来られるとはな、面倒だが他の場所に逃げるべきだったぜ」


 目の前まで来た男はそう言って智子を見降ろしながら何かを取り出した。それは一本の注射器だった。注射器は薄黄色の液体で満たされていた。ピストンが押され針の先端からぴゅうっと液体が飛び出た。目の前の男は注射器を自分に刺すつもりだと智子は思った。シリンジを満たす薄黄色の液体が何かは分からなかったが酷く恐ろしいもののように思えた。


「お前はあの中庭で一体何をしていたんだ? あまりに不気味過ぎて幽霊かと思って逃げちまった。産婦人科の医療機器に細工しようと思ってたんだがな」


 男が訊いたが智子は答えようとはしなかった。


「まぁいい、どうせくだらんことだろう。ともかくここを見た以上お前はくたばるしかねぇぞ」


 男が智子の首筋に注射器を近づけた。何とか逃げようと智子は喚きながら力いっぱいに力んだが化け物の力が凄まじく動くことができなかった。


「無駄だ。二号は俺の可愛いワンちゃんみたいな奴でな。主人の俺を守る愛い奴だ。しかも最近調子がいい。……今日も顔がどことなしか変わってんな。まぁいい、ともかく諦めな」


 首筋に皮膚を異物が突き破る痛みが走った。男がピストンを押せば薬品が体内に注入される。そうすれば男の言った通り自分は死んでしまうだろう。智子の全身から汗が吹き出し、どくりどくりという鼓動の音しか聞こえなかった。


「じゃあな、実験材料になって俺の役に立つといい」


 男が狂気を含んだ笑みを浮かべた。


「敏夫……!」


 最愛の息子の名前が口から出て来た。ごめんね敏夫、お母さん、貴方の事助けられなかった。目を瞑りそう観念した時だ。


「な、何をする、二号っ!」


 語尾を荒げた男の声が聞こえた。恐る恐る智子は目を開けた。注射器を持った男の腕を智子を羽交い絞めにしていた化け物の手が掴んでいた。男は信じられないといった表情で化け物を睨んでいた。


「オオーィ!」


 次の瞬間、化け物が雄叫びを上げて男に襲い掛かった。


「うわあぁっ! 止めろ二号っ! 何をするんだっ!」


 男は化け物を剥がそうと必死にもがいているが、化け物の握力が凄まじいらしく一気に地面に抑えつけられ首を絞められた。


「豚丸っ、豚丸助けてくれっ! いないのかっ、楓! がっ、ぐあぁ、ぎゅあ」


 化け物の両手に力が込められる。男の顔が瞬く間に紅潮し涎を垂らす口から舌が飛び出た。両目を見開き全身が小刻みに震え始めた。智子は目の前で化け物が男の首を絞めて殺さんとする様子を呆然と眺めていた。びくんと男の体が大きく跳ねたと思えば全身の震えが治まっていた。男の股間がじっとりと濡れており小便の生臭い臭いが漂った。動かなくなった男の首から手を放してオーィと化け物が鳴いた。そしてぶっぶっと屁をこいたと思えばふらふらとよろついて地面に倒れた。


 一部始終を唖然と見ていた智子は恐る恐る立ち上がると男の様子を確認した。男は歯を食いしばりその顔は恐怖におののいていた。その目に光は無く濁った黒目が虚空を映し出していた。男の隣に倒れている化け物がオーィとか細く鳴いた。見ると、化け物の顔の上にある臀部に注射器が一本突き刺さっていた。ピストンが押されており中身が化け物の体内に注入されていた。もがいている時に男が突き刺したようだ。化け物は死にかけているらしく、シリンジに入っていた薄黄色の薬品はやはり猛毒の類のようだった。この化け物は一体何なんだと智子は思った。あまりに異様なその姿に嫌悪感しか沸いてこなかった。

 ふぅっと智子は息を吐いた。ともかく目撃者は死んだのだ。これで敏夫は助かるのだろうか。どうなるのか分からないが今すぐにでも敏夫の元に行きたかった。よろめきながら扉へ歩き部屋から出ようとした時だ。


「オーィ」


 化け物が再び鳴いた。高くか細い声でまるで智子を呼んでいるかのようであった。智子は思わず振り返って化け物を見た。臀部の下に見える顔についた両の目がこちらをじぃっと見ていた。化け物と目が合った。すると何かに気が付いたのか、智子の表情がみるみると青ざめていった。わなわなと震えだし両手で口元を押さえた。化け物の肛門と股間の間にある人間の顔、その顔に智子は見覚えがあった。


「あっ、あっ」


 智子は声にならない嗚咽のような音を上げた。あの老婆は言っていた、誰かに見られたら敏夫は地獄に落ちると。見た者を殺せば挽回できるとは、一言も言っていなかった。


「オ、オ、」


 化け物が鳴いた。口と鼻と肛門から血が垂れていた。体は震え息遣いが荒くもう長くはないことが容易に想像できた。


「オ、オ、オカ、あちゃん」


 化け物が少年のような声で言った。そして体の力が抜けたのか全身の震えが治まりピクリとも動かなくなった。智子はふらふらと化け物に近づきその顔をじっと見つめた。その顔は敏夫の顔とそっくりであった。

 智子は理解した。敏夫は地獄に落ちたのだと。こんな化け物に敏夫は成り果ててしまった。それだけではなく無残に死んでしまった。それが地獄でなくては何なのか。


「と、敏夫、とし、お……と、お、おお、おおおおおおおおおおおおおおおお」


 薄暗い部屋に智子の絶叫が響いた。


     ***


 病室の小さいテレビがニュースを映していた。小太りの中年アナウンサーが酒のせいだろうか、かすれた声で現場から中継をしていた。アナウンサーの背後には大きい無機質な建造物が映っている。


「……姉小路総合病院の経営者であり元院長の姉小路さんが行方不明になって今日で一週間が経とうとしています。同時期に入院患者の親族が一人院内で行方不明になるという事件も起きており、警察は二つの事件に関連がないか調べています。しかし、病院側が非協力的でありなかなか捜査が進展しないと先日の警察の記者会見で言及がありました。姉小路さんが行方不明になる直前に産婦人科で死産が相次ぎ、その情報隠蔽に躍起になった病院経営者の姉小路さんが暴力団関係者と接触を持ち何らかの事件に巻き込まれたのでは、という噂もあるようです。また姉小路さんは、数年前に学会に提出した研究論文が倫理的に問題があると大きな批判を受け院長を辞職せざるを得なかったといったこともあり、その件でも何か今回の失踪事件に関連があるのではとも言われています。現院長の楓成美さんはそれらの噂は全くの事実無根だと全面否定しており――」


 ニュースの内容を聞いて矢島詩織ははぁっと溜息をついた。自分が入院している病院の悪いニュースを見るのはあまりいい気分ではなかった。しかも連日の様に大きく取り上げられており、テレビでこの事件のニュースを目にしない日はなかった。


 詩織は時計に目をやった。時計の針は午後二時前を示しておりそろそろ新生児室に向かう時間だった。それを考えるだけで詩織はとても幸せな気分になった。詩織は三日前に長男を出産したばかりだった。安産で無事に生まれた男の子であった。死産が相次いだ後の出産だったので、詩織やその親族だけでなく医師や看護師といった病院関係者達の喜びもなかなかのもであった。大きな花束まで病院から頂いてしまった。詩織の出産の後は他の妊婦も順調に安産が続いているとのことだ。


 詩織はベッドから出てスリッパを履いた。詩織が穿いているスリッパは病院の入院患者用のものではなく一階の購買で売られている結構な値段のする上等なスリッパであった。穿き心地が良く詩織はとても気に入っていた。このスリッパはちょうど入院した日に喫茶店で仲良くなった女性からいただいたものだ。確か下塚さんという名前で、初産の詩織に色々とアドバイスをしてくれたとてもいい人だった。この町に引っ越してきて日にちが浅く、知り合いもおらず孤独感を味わっていた詩織にとっては本当にありがたかったのを覚えていた。そういえば下塚さんとはあれ以来まったく会っておらず無事に子供が生まれたことを報告したいのだが、と詩織は思った。下塚さんは自身の出産経験からのアドバイスを親身になってしてくれたが自分のことはあまり話さなかったので、今もまだこの病院にいるのかどうかすらわからなかった。


 病室から出た詩織は階段を降りると一階の廊下を進んだ。詩織の病室から一階の新生児室に向かう廊下の途中には一つのガラス扉があった。ガラスの向こうには手入れがあまり行き届いていない草木に覆われた中庭が見えた。長男が生まれた後に一度だけ詩織はその中庭に足を踏み入れたことがあったがどうにも落ち着かなかった。誰かに見られているような、そんな感覚を覚えて居心地が悪かった。

 詩織はガラス扉の前を素通りして新生児室に入り受付の看護師の元に行った。そして保育器に寝っ転がっている自分の長男と対面した。とても愛おしく三日経った今でも対面の度に目に涙を浮かべてしまっていた。だが、全てが幸せだというわけでもなかった。

 通常では問題なければ生まれた赤子が新生児室で過ごすのは一日程度である。三日前に出産した長男はまだ新生児室の保育器の中であった。どうにもこの子の心拍が正常ではないとのことであった。先天性心疾患の可能性があると医者には言われていた。まだ決まったわけではないのでもう少し様子を見るが、可能性は高いとも言われていた。医者の言葉に詩織は目の前が真っ暗になった。不安で不安で仕方がなかった。きっと大丈夫だと自分に言い聞かせ、三日経った今ではある程度は落ち着いていた。それでも不安であることには変わりはなかった。下塚さんにこのことについても相談したかったのだが、と詩織は溜息をついた。


     *


 その晩、詩織は夢を見た。奇妙な夢であった。気が付くと暗い廊下に立っていた。よくよく見るとそこは自分が入院している姉小路総合病院の廊下であった。なんでこんな場所に一人で突っ立ているのだろうと思っていると窓の外から何かが聞こえてきた。坊主の読経のような抑揚の無い歌だった。何故かその歌の主が気になった詩織はふらふらと歌のする方へ向かった。一階の廊下に降りると歌がよく聞こえるようになった。そのまま聞こえてくる方へと歩いていくと、どうも途中にあるガラス扉の向こうから聞こえてきているようだった。このガラス扉は中庭の出入口だと詩織は思い出した。ガラス越しに見える暗闇の中庭は恐ろしかったが不思議と躊躇なく詩織はガラス扉を開けて中庭に踏み入った。詩織は以前中庭に入った際に感じた視線を向けられている気がしてその視線のする方を見上げた。二階の一室から誰かがこちらを見ていた。詩織がその誰かの方を見ると、誰かはカーテンをしゃっと閉めた。確かあの部屋は二階の廊下の突き当りの部屋ではないかと詩織は思った。

 中庭の隅に白い着物のを着たぼさぼさの白髪の女が一人こちらに背を向けるようにして立っていた。あの女が歌を歌っているようだった。不気味な装いに詩織はぞっとしたがそれでもゆっくりと歩いてその女に近寄った。


「す、すみません」


 白髪の女に声を掛けた。するとぶつぶつと歌っていたその女はぴたりと歌うのを止めて詩織の方へ振り返った。


「きゃあっ」


 詩織が悲鳴を上げた。女は皺だらけの不気味な顔をした老婆だった。その老婆は詩織をじぃっと見ると、


「ぼこが病んだか」


 しゃがれた声でそう言った。


「えっ」


 詩織の心臓が激しく高鳴った。


「げにまっこと難儀よのう」


 老婆は詩織を見ながらさらに続けた。詩織は目の前の老婆の気味の悪い視線に全てを見透かされているかのように感じた。


「どれ、わしがぼこを治してやろう」


 老婆の言葉を聞いて詩織が顔色を変えた。 

 そんな詩織の様子を見て、少ししか残っていない黄ばんだ歯を覗かせて老婆がニヤリと笑った。

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